自民党森派の町村信孝前外相が昨日の講演で、福田康夫元官房長官の総裁選出馬の見通しについて「意欲はあると思う」と語ったことが話題になっています。「生体反応なし」とされる福田氏ですが、森派としては何とか顔も立ててやらなければならず、いろいろな調整・駆け引きも行われているのでしょう。

 

 ただ、これはいずれにしろ福田氏が「出る、出ない」をはっきりさせればいいことですよね。正式の出馬はともかくとして、意欲を示すなり、毎日動向を追っている記者団に「意欲はない」と明言すれば、すっきりするでしょうに。

 

 さて、そこで唐突ですが、ニーチェの「ツァラトゥストラはこのように語った」(吉沢伝三郎訳)から、いくつかの言葉を「恣意的に」紹介したいと思います。

 

 《誇り高い者たちよりも、むしろ虚栄心の強い者たちをいたわること、これが、人間と交わるための、私の第二の賢さである》(人間と交わるための賢さについて)

 

 賢者(?)の沈黙については、次のような言葉が印象的です。

 

 《幾多の賢い者たちを、私は見いだした。この者たちは、誰にも自分の心底を見透かされないように、自分の顔にヴェールをかぶせ、自分の水を濁らせたのだ》(オリーブ山で)

 

 《彼らはみな、自分の水を深く見せようとして、それを濁らせるのだ》(詩人たちについて)

 

 《語らないことが彼の狡猾さだ。かくて、彼はめったに間違うことがない》(覚醒)

 

 何もツァラトゥストラさんが福田氏のことを語っているわけではありませんが、いつの時代も人は同じ、というわけですね。確かに、政治家は何かいうと上げ足取りをされる存在ですから、沈黙戦術を使って本心を見せないようにしている政治家はたくさんいます。ですが、一国の首相を選ぶ選挙ですから、志のある方には早く意思を明確にしてほしいところです。

 

 心からの自戒を込めていうのですが、そうしないと、メディアは虚像を勝手にふくらませ、期待感を勝手に高めたあげくに、「おちた偶像」扱いをしかねません。残念ながら、持ち上げて落とすというやり方は、メディアが最も得意とするところですから…。

 

 《沈黙はもっと悪い、話さずにおかれた諸真理は、すべて有毒になる》(自己超克について)

 

 ところで、総裁選とは関係ありませんが、最近の韓国や北朝鮮の言動について、次の言葉を贈りたいと思います。

 

 《在る者たちは、みずからの一握りの正義を誇り、この正義のために、一切の諸事物に対して罪を犯す。そこで、世界が彼らの不正の中で溺死させられるのだ》