6月に社命でブログをはじめて約2か月半、昨夜遅くにアクセス数が10万件を超えました。10万といっても、有名ブログからみれば1日分程度なのかもしれませんが、私にはとても重みのある数字であり、感慨も深いのです。好き勝手言いたい放題で、決して出来がいいとは言えないこのブログに、たくさんの方が訪問してくれたことに心から感謝します。

 

 さて、このブログは今まで、何度もいわゆる靖国問題について取り上げてきました。私のスタンスは、無理に解決など図らなくとも放っおけばよいというものですが、メディアや政界では相変わらず「戦争責任」だの「敗戦責任」だのと、死者に鞭打つことを続けています。

 

 学者同士が冷静に豊富な資料を駆使し、論じ合うことには意味があると思いますが、イデオロギーで目が曇った左翼マスコミだの、ろくに歴史的知識も見識もないくせに中国様に迎合しようと論陣を張る政治家が偉そうにモノを言っている姿には、ずっと、違和感を覚えていました。

 

 大平正芳元首相が国会で答弁し、安倍晋三官房長官が踏襲しているように、「東京裁判、A級戦犯というものへの判断は、歴史がいたすであろう」という線が、責任ある政治家のとるべき姿勢ではないでしょうか。そもそも政治家に、歴史を裁く資格など与えられていません。

 

 まだ、遺族や親族が存在しているのに、個人名を挙げて責任(罪)の重さのランキングづけという軽薄なことを行った読売にも、心底失望しました。ナベツネさんによる紙面の私物化の結果だとも言われていますが、不見識としかいいようがない。

 

 先人たちの苦労に何のシンパシーも感じず、あと知恵で神様にでもなったかのように歴史を断罪する。まともな感性だとはどうしても思えません。この夏の靖国論争には、特に常軌を逸したものを感じました。

 

 そこで、唐突ですが、「ヨハネによる福音書8章」から非常に有名なエピソードを引用させてもらいます。

 

 《律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った。

 

 「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」

 

 イエスを試して訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

 

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

 

 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った》

 

 靖国問題と「姦通した女」をごっちゃにしたら叱られるかもしれませんが、言いたいことは、朝日さん、読売(特にナベツネ)さんに媚中政治家のみなさん、あなた方は立ち去らずに石を投げ続けられるのですか、ということです。自らをかえりみて、現在の言動が恥ずかしくはありませんか?