慰安婦問題と日本の対応について考えているうちに、自分の過去記事を紹介したくなりました。平成7年(1995年)の6月に上下にわけて掲載されたものです。当時、私は戦没者遺族取材班の一員として、1年間弱の連載企画を担当し、延べ約100人の遺族を取材しました。

 記事を書きながら、幾度も涙を流したのは、いま振り返ってもあのときだけだったような気がします。私が取材できたのは、当然ながら一人ひとり違う遺族の体験のごくごく一部でしたが、とても貴重な経験でした。きょうは連載当時、26本書いた記事のうちの一つをそのまま掲載します。あえて解説・感想は記しません。
 

【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺


 今にも泣き出しそうな曇り空のもと、埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の一角に立つ青葉地蔵尊で今月二十一日、約六十人の有志が集まり、自ら命を絶った従軍看護婦二十二人の墓前供養が行われた。

左手に赤十字の看護婦帽を掲げ持つ高さ一メートル余りの地蔵尊。この日は、四十九年前の昭和二十一年、旧ソ連軍の慰安婦となるのを拒み、集団自殺した彼女たちの命日にあたる。看護婦たちのうち、遺族が分からない三人の遺骨も、ここに納められている。

 「ソ連の非道は、体験したものでないと分かりません。あのころは、無理でも向こうの言うことを聞き入れるしかなかった。敗戦の切なさですね」

 地蔵尊の建立者で当時、婦長だった松岡喜身子さん(七七)=東京都八王子市=は、戒名が一人一人読み上げられると、うつむいて目頭を押さえた。

集団自殺の日からきょうまで、朝晩の仏前供養は欠かさない。「私は老いた今でも現役で看護婦をしていますが、きっと彼女たちが見守ってくれているのだと思います」

ナイチンゲールにあこがれて看護婦を志した喜身子さんは樺太・知取(しりとり)の生まれ。昭和十一年に樺太庁立豊原高等女学校を卒業、満州赤十字看護婦養成所を経て故郷で希望通り看護婦となった。十四年暮れ、陸軍軍医少尉だった四つ年上の前夫、堀正次さんと結婚する。

  ところが、翌十五年春、従軍看護婦の召集令状が舞い込み、喜身子さんは香港へ。さらに上海、満州北部の虎林(こりん)、牡丹江(ぼたんこう)と任地を転々とする。出征から半年ほどたったころ、実家から、正次さんも応召、満州へ出発したと便りが届いた。

  約二年間も離れ離れで連絡もつかなかった二人は十七年ごろ、虎林の野戦病院の廊下でばったりと行き合った。

  「再会したとき、主人は顔が分からなかったほどやつれていました」。おしゃれだった正次さんは、真っ黒に汚れた軍服姿で、破れ靴を履いていた。

 二人は官舎を与えられ、十八年五月には長男、静夫さん(五二)も生まれる。だが、傷病兵の治療、看護に追われながらも幸せな生活は、長くは続かなかった。

  二
十年八月八日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日参戦、満州にも雪崩を打って侵攻した。精強を誇った関東軍はすでに形がい化しており、ソ連は猛スピードで南下した。

ソ連参戦から二日後、喜身子さんは、正次さんにプレゼントされた将校用水筒を肩に、軽傷の傷病兵らを連れて南方にある満州の国都、新京(長春)に向かった。

重傷患者の治療のため残った正次さんの消息はそれっきり、杳(よう)として知れなかったが、昭和二十三年ごろ、引き揚げて北海道の病院で働いていた喜身子さんのもとに、山口県徳山市の正次さんの実家から、戦死の知らせとともに聴診器、軍隊手帳が郵送されてきた。

二十年八月十五日、新京に着いた喜身子さんは、敗戦の知らせを聞いた。町はソ連軍に占領された。喜身子さんら三十人ほどいた看護婦は、月給二百円で、中国共産党八路軍の長春第八病院勤務を命じられた。

そして翌二十一年春、新京から数キロ離れた城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、「看護婦三人、派遣勤務を命ず」と通知が届いた。期間は一カ月、月給三百円と、もっともらしい条件付きのこの一枚の命令書が、悲劇の始まりとなった。

「ソ連の命令じゃ仕方ないわ」。不気味な不安を覚えた喜身子さんだったが、軍医と相談の上、優秀で気のつく大島はなえさん(二二)ら三人の看護婦を派遣した。みな、二十代前半の乙女たちだった。

そのわずか一週間後、再び命令が来て、今度も三人が救護所に。ソ連の要求はとどまるところを知らず、さらに一カ月後、約束の期限が過ぎても前任者を帰さないまま、新たに三人の派遣を命令してきた。

あまりの厚かましさに憤慨したが、虜囚の身でどうにもならない。今度は「あす全員でくじ引きをして決めよう」と話し合い、看護婦たちと別れて宿舎に帰った。

だが、その晩のこと。腕や足、体中に十一カ所もの銃創を受けた大島看護婦が一人で逃げ帰ってきた。

「今思い出してもゾッとします。歳月を経るにつれリアルに情景が浮かんで…」と喜身子さんは振り返り、絶句した。

振りそでをイブニングドレスに縫い直したあでやかな洋服姿とは逆に、傷だらけの大島看護婦。あらわな背中には、鉄条網をくぐり抜けたらしい擦過傷もあった。そして、うわ言のようにこう繰り返して息絶えた。

「婦長さん、看護婦をソ連にもう送らないで。ソ連将校の慰みものにされるだけです。送ってはいけません」

 だが、悲劇はさらに続いた。

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 昭和二十一年六月二十日の満州・新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。

その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と“応援”に行っていた大島はなえ看護婦(二二)が、十一発もの銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。

「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人を送ってはいけません」

大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか…」

だが、悪夢はその翌朝も待っていた。

二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられた。

「患者は来ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」

「そんなはずはありません。見てきます」

胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたきには靴がきちんとそろえてあった。

線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。満州赤十字の制服姿で胸に手を当て、眠っているようだった。寝乱れないよう、両太ももを包帯や腰ひもで縛っていた。

「死んでいる…」。満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。

〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉

これにはソ連側も驚き、翌日には「日本女性とソ連兵は、ジープその他の車に同乗してはいけない」など綱紀粛正の通達を出す。

命と引き換えにした抗議の、ささやかな代償だった。

一方、病院からは小さな花束が一つ贈られただけ。葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親に届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。

葬儀を済ませ、四十九日を迎えたころ、喜身子さんは、いまだ帰らない看護婦たちが、ダンサーをしているとうわさに聞き、そのダンスホールへ向かった。

名前を告げ入り口で待つと、五人が現れた。肌もあらわなイブニングドレスに濃いルージュ。いかにもダンサー然としているが、青ざめた顔はまるで病人のよう。

「こんな所にいないで、早く帰ってきて」

喜身子さんは説得するが、五人は首を横に振るばかり。ついカッとなり、「好きでこんなことをやっているの。そこまで堕落したの」とひっぱたいた。

すると、彼女たちは涙を浮かべ、決意を語り始めた。

「私たちはソ連の救護所で毎晩七、八人の将校に暴行され、すぐに梅毒をうつされてしまいました。どうしてこの体で帰れましょうか。今は一人でも多くの客をとり、この性病をソ連兵にうつして苦しめたい」

喜身子さんは翌日、薬を手に再び訪ねた。が、看護婦である彼女たちは、自分の症状が治るものではないと知っており、受け取りも拒んだ。

二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた。「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。

喜身子さんは当時、三歳半だった長男、静夫さん(五二)にも看護婦たちの遺骨を入れた木箱を背負わせ、一歳の長女、 子さん(五〇)を背に日本に帰った。

「二人とも“残留孤児”にさせかねないほど、混乱した状況でした」

夢にまで見た母国だが、軍医だった夫を亡くした生活は厳しい。大島さんを含む二十三人の遺骨を自宅に届けようにも、連絡先を記した書類などはなく、記憶だけが頼り。探しあてるのは、雲をつかむような話だった。

そんなときに力になってくれたのが現在の夫、松岡寛さん(七六)だった。

浪曲師、春日井梅鶯(ばいおう)の内弟子で、若梅鶯の芸名を持っていた寛さんは二十七年ごろ、喜身子さんらのエピソードを『ああ 従軍看護婦集団自殺』という題目にして、全国を巡業した。

実名で容ぼう、特徴も浪曲に盛り込んだ結果、十九家族が名乗り出た。

浪曲を聞いた埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の理事長、吉田亀治さん(九一)からは「供養に役立てて」と土地提供の申し出があった。こうして三十一年六月二十一日の命日に、看護婦たちを祭る青葉地蔵尊の開眼法要が営まれた。

そして五十年目の今月二十一日に行われた墓前供養。喜身子さんは地蔵尊にこう呼びかけた。

「終戦から五十年、早いですね。日本も日増しに平和がよみがえりました。私はこれからもあなたたちの分まで、看護の道を頑張りたいと思います」 (戦没者遺族取材班)