慰安婦問題と日本の対応について考えているうちに、自分の過去記事を紹介したくなりました。平成7年(1995年)の6月に上下にわけて掲載されたものです。当時、私は戦没者遺族取材班の一員として、1年間弱の連載企画を担当し、延べ約100人の遺族を取材しました。
記事を書きながら、幾度も涙を流したのは、いま振り返ってもあのときだけだったような気がします。私が取材できたのは、当然ながら一人ひとり違う遺族の体験のごくごく一部でしたが、とても貴重な経験でした。きょうは連載当時、26本書いた記事のうちの一つをそのまま掲載します。あえて解説・感想は記しません。
【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺
今にも泣き出しそうな曇り空のもと、埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の一角に立つ青葉地蔵尊で今月二十一日、約六十人の有志が集まり、自ら命を絶った従軍看護婦二十二人の墓前供養が行われた。
左手に赤十字の看護婦帽を掲げ持つ高さ一メートル余りの地蔵尊。この日は、四十九年前の昭和二十一年、旧ソ連軍の慰安婦となるのを拒み、集団自殺した彼女たちの命日にあたる。看護婦たちのうち、遺族が分からない三人の遺骨も、ここに納められている。
「ソ連の非道は、体験したものでないと分かりません。あのころは、無理でも向こうの言うことを聞き入れるしかなかった。敗戦の切なさですね」
地蔵尊の建立者で当時、婦長だった松岡喜身子さん(七七)=東京都八王子市=は、戒名が一人一人読み上げられると、うつむいて目頭を押さえた。
集団自殺の日からきょうまで、朝晩の仏前供養は欠かさない。「私は老いた今でも現役で看護婦をしていますが、きっと彼女たちが見守ってくれているのだと思います」
ナイチンゲールにあこがれて看護婦を志した喜身子さんは樺太・知取(しりとり)の生まれ。昭和十一年に樺太庁立豊原高等女学校を卒業、満州赤十字看護婦養成所を経て故郷で希望通り看護婦となった。十四年暮れ、陸軍軍医少尉だった四つ年上の前夫、堀正次さんと結婚する。
ところが、翌十五年春、従軍看護婦の召集令状が舞い込み、喜身子さんは香港へ。さらに上海、満州北部の虎林(こりん)、牡丹江(ぼたんこう)と任地を転々とする。出征から半年ほどたったころ、実家から、正次さんも応召、満州へ出発したと便りが届いた。
約二年間も離れ離れで連絡もつかなかった二人は十七年ごろ、虎林の野戦病院の廊下でばったりと行き合った。
「再会したとき、主人は顔が分からなかったほどやつれていました」。おしゃれだった正次さんは、真っ黒に汚れた軍服姿で、破れ靴を履いていた。
二人は官舎を与えられ、十八年五月には長男、静夫さん(五二)も生まれる。だが、傷病兵の治療、看護に追われながらも幸せな生活は、長くは続かなかった。
二十年八月八日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日参戦、満州にも雪崩を打って侵攻した。精強を誇った関東軍はすでに形がい化しており、ソ連は猛スピードで南下した。
ソ連参戦から二日後、喜身子さんは、正次さんにプレゼントされた将校用水筒を肩に、軽傷の傷病兵らを連れて南方にある満州の国都、新京(長春)に向かった。
重傷患者の治療のため残った正次さんの消息はそれっきり、杳(よう)として知れなかったが、昭和二十三年ごろ、引き揚げて北海道の病院で働いていた喜身子さんのもとに、山口県徳山市の正次さんの実家から、戦死の知らせとともに聴診器、軍隊手帳が郵送されてきた。
二十年八月十五日、新京に着いた喜身子さんは、敗戦の知らせを聞いた。町はソ連軍に占領された。喜身子さんら三十人ほどいた看護婦は、月給二百円で、中国共産党八路軍の長春第八病院勤務を命じられた。
そして翌二十一年春、新京から数キロ離れた城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、「看護婦三人、派遣勤務を命ず」と通知が届いた。期間は一カ月、月給三百円と、もっともらしい条件付きのこの一枚の命令書が、悲劇の始まりとなった。
「ソ連の命令じゃ仕方ないわ」。不気味な不安を覚えた喜身子さんだったが、軍医と相談の上、優秀で気のつく大島はなえさん(二二)ら三人の看護婦を派遣した。みな、二十代前半の乙女たちだった。
そのわずか一週間後、再び命令が来て、今度も三人が救護所に。ソ連の要求はとどまるところを知らず、さらに一カ月後、約束の期限が過ぎても前任者を帰さないまま、新たに三人の派遣を命令してきた。
あまりの厚かましさに憤慨したが、虜囚の身でどうにもならない。今度は「あす全員でくじ引きをして決めよう」と話し合い、看護婦たちと別れて宿舎に帰った。
だが、その晩のこと。腕や足、体中に十一カ所もの銃創を受けた大島看護婦が一人で逃げ帰ってきた。
「今思い出してもゾッとします。歳月を経るにつれリアルに情景が浮かんで…」と喜身子さんは振り返り、絶句した。
振りそでをイブニングドレスに縫い直したあでやかな洋服姿とは逆に、傷だらけの大島看護婦。あらわな背中には、鉄条網をくぐり抜けたらしい擦過傷もあった。そして、うわ言のようにこう繰り返して息絶えた。
「婦長さん、看護婦をソ連にもう送らないで。ソ連将校の慰みものにされるだけです。送ってはいけません」
だが、悲劇はさらに続いた。
昭和二十一年六月二十日の満州・新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。
その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と“応援”に行っていた大島はなえ看護婦(二二)が、十一発もの銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。
「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人を送ってはいけません」
大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか…」
だが、悪夢はその翌朝も待っていた。
二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられた。
「患者は来ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」
「そんなはずはありません。見てきます」
胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたきには靴がきちんとそろえてあった。
線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。満州赤十字の制服姿で胸に手を当て、眠っているようだった。寝乱れないよう、両太ももを包帯や腰ひもで縛っていた。
「死んでいる…」。満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。
〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉
これにはソ連側も驚き、翌日には「日本女性とソ連兵は、ジープその他の車に同乗してはいけない」など綱紀粛正の通達を出す。
命と引き換えにした抗議の、ささやかな代償だった。
一方、病院からは小さな花束が一つ贈られただけ。葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親に届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。
葬儀を済ませ、四十九日を迎えたころ、喜身子さんは、いまだ帰らない看護婦たちが、ダンサーをしているとうわさに聞き、そのダンスホールへ向かった。
名前を告げ入り口で待つと、五人が現れた。肌もあらわなイブニングドレスに濃いルージュ。いかにもダンサー然としているが、青ざめた顔はまるで病人のよう。
「こんな所にいないで、早く帰ってきて」
喜身子さんは説得するが、五人は首を横に振るばかり。ついカッとなり、「好きでこんなことをやっているの。そこまで堕落したの」とひっぱたいた。
すると、彼女たちは涙を浮かべ、決意を語り始めた。
「私たちはソ連の救護所で毎晩七、八人の将校に暴行され、すぐに梅毒をうつされてしまいました。どうしてこの体で帰れましょうか。今は一人でも多くの客をとり、この性病をソ連兵にうつして苦しめたい」
喜身子さんは翌日、薬を手に再び訪ねた。が、看護婦である彼女たちは、自分の症状が治るものではないと知っており、受け取りも拒んだ。
二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた。「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。
喜身子さんは当時、三歳半だった長男、静夫さん(五二)にも看護婦たちの遺骨を入れた木箱を背負わせ、一歳の長女、 子さん(五〇)を背に日本に帰った。
「二人とも“残留孤児”にさせかねないほど、混乱した状況でした」
夢にまで見た母国だが、軍医だった夫を亡くした生活は厳しい。大島さんを含む二十三人の遺骨を自宅に届けようにも、連絡先を記した書類などはなく、記憶だけが頼り。探しあてるのは、雲をつかむような話だった。
そんなときに力になってくれたのが現在の夫、松岡寛さん(七六)だった。
浪曲師、春日井梅鶯(ばいおう)の内弟子で、若梅鶯の芸名を持っていた寛さんは二十七年ごろ、喜身子さんらのエピソードを『ああ 従軍看護婦集団自殺』という題目にして、全国を巡業した。
実名で容ぼう、特徴も浪曲に盛り込んだ結果、十九家族が名乗り出た。
浪曲を聞いた埼玉県大宮市の公園墓地「青葉園」の理事長、吉田亀治さん(九一)からは「供養に役立てて」と土地提供の申し出があった。こうして三十一年六月二十一日の命日に、看護婦たちを祭る青葉地蔵尊の開眼法要が営まれた。
そして五十年目の今月二十一日に行われた墓前供養。喜身子さんは地蔵尊にこう呼びかけた。
「終戦から五十年、早いですね。日本も日増しに平和がよみがえりました。私はこれからもあなたたちの分まで、看護の道を頑張りたいと思います」 (戦没者遺族取材班)
コメント
コメント一覧 (76)
これをもって「ソ連はもっとひどい」「日本人も被害者だ」と訴えまわるかどうかはともかく、
少なくとも、同胞である現代日本人くらいは、こういう近い過去の日本人の苦しみを知り、分かち合うべきです。隣国民は同情してくれないのですから。
恥ずかしながら、私自身、初めて知る話しでした。
読んでいて、涙でモニターが曇ってしまいました。
皆さんが総力を結集して取材された真実は、語り継がなければ成りません。
この連載は、書籍としてまとめられるなどされたのでしょうか?
連載された記事を、全て読んでみたいと思いました。
不可侵条約違反とか北の島々を不法占拠とかの汚い行為もさりながら
それ以前の「人の道」への冒涜です。明治の日露戦争での日本軍の
行動は1899年のハーグ条約に基づいて戦争のルールに沿って整然と
戦いました。もちろん非戦闘員への定義や捕虜の扱いなどのすべての
戦時国際法を守って正々堂々と大国ロシアと一戦を交えたのです。
ソ連軍のした事は、何の抵抗も出来ない婦女子に対しての暴虐には
人間として恥ずかしくないのだろうか。今でもロシア人たちは平気で
日本の漁船員を殺害し罰金までむしり取るのはどういう気持ちだろう。
この際、徹底的に各国と歴史検証をすればいい。河野談話のような
低次元なことに捉われずに、第二次世界大戦の全てを洗ってみよう。
いみじくも今日3月10日は東京大空襲の日だが、我が家の近くの
墨田区震災慰霊堂では多くの人が参拝に訪れている。合掌。
http://d.hatena.ne.jp/harimaya/
何ともコメントできません。
埋もれさすにはあまりにも惜しい話。
私も印刷物になっていれば是非とも入手したいです。
私もこの話は読んだことがあり、強い衝撃を受けたのを思い出しました。
学校では決して教えられない歴史ですね。
戦争の悲劇を語り継ぐ上で避けて通れない話だと思います。
文部科学省の学習指導要領も問題ですが、日教組に迎合し、こういった歴史を取り上げない教科書会社の編集方針にも問題があると思います。
大宮の青葉園には、我が家の祖先も眠っています。
今度墓前に赴く際は、従軍看護婦の地蔵尊にもお参りし、冥福を祈りたいと思います。
涙もろい私は、やはり、涙をこらえる事が出来ませんでした。
敗戦の傷の深さを改めて痛感いたしました。
犠牲になられた尊い命、ひとつひとつが、言われ無き卑しめを晴らせる日が一日も早く来ることを、心から祈るばかりです。
記事の再掲載、心からお礼申し上げます。
ソ連の同じような暴虐を満州から引き上げてきた人に直接聞いたことがあります。
憎いソビエト(ロシア)を許せない気持ちを抑えられません。
しかし、これは過ぎ去った過去の事件ではなく、中共やロシアに侵略されればこれからだって起こりうることだと思います。現に新彊やチベットで起こっているし、通州で起こったことが起こっても不思議ではありません。
自分も含め堕落した現代日本人が、平和を貪っていることが申し訳なく感じます。
いつか全話を単行本化して、出来ればTVドラマ化して多くの人に知っていただきたいですね。
特に満洲からの引揚者はソ連の暴虐を目の当たりにしていますので、生々しい事件を聞かされました。
この様なことこそ風化させてはいけないことだと思います。
止め処なく涙が溢れ、悔しさと無念さでいっぱいです。
きっと、左に洗脳された方々がこの記事を読んだら、戦争は悲惨だ。絶対やっちゃいけない。戦争反対!核兵器反対!とか言うんでしょうが、私は、今度戦争になったら、負けないようにするにはどうしたらいいのか手を打っていかなければいけないと思います。
そしてたとえ勝っても、旧ソ連やアメリカが敗戦国にしたようなことを、シナや朝鮮半島が日本や世界につく嘘を、日本は絶対しないようにしなけれがいけないと思います。
その為には、やはり教育です。国史、伝統、文化、道徳心をきちんと身につける事だと思います。
日本人には荒療治が必要。私は日本がまともになる為なら、貧乏も耐えます。
非道はソ連だけではありません。現に終戦後60年以上たったいま現在でさえ、駐日米大使が「日本が河野談話から後退していると米国内で受けとめられると破壊的な影響がある」と語ったと10日の産経朝刊が伝えています。これが俺たち戦勝国の言うことはだれがいおうと従わなければ、日米関係は破壊されるだろうという恐喝でなくてなんでしょう。
アメリカ政府の駐日代表がいうことでしょうか。
そういえばちょっとまえ、尖閣諸島を駐日米軍が射爆練習場に使っていたこがありますが、尖閣諸島の帰属について日中間で紛争が起こったとき、駐日アメリカ大使がアメリカは中立であると宣ったことがありました。
阿比留さん!産経で延べ100人の遺族の方に取材された貴重な資料は本にするなりしてぜひ公開してほしいと思います。
ロシア人は、プーチン大統領を見ればわかるように、いまでも非文明国で、野蛮人が住んでるようです。やられほうだいの日本も日本ですが。
日本経済界は「カミカゼ投資」 ロシア紙あざ笑う。報道で書きたい放題
http://www.sankei.co.jp/kokusai/europe/070302/erp070302000.htm
ところで、米国下院の慰安婦で、ひょっとこんなことを思いつきました。「日米慰安婦共同研究」です。日米で人を出し合って研究するのです。その間、審議も議決もなしで待機。中韓人と違って、米人は事実は認めますから、実りあることになるかもしれません。ただ、人選には気をつけないと、左翼が紛れ込んでくるでしょう。
http://www.amazon.co.jp/dp/4480035044/
日本人にも、昔々(蒙古襲来とか)から、異民族に対する恐れおののきの感覚はあったはずなのに…。これもまた平和呆けのなせるワザ? 歴史を知るということは、そういうながきに渡って育まれた地域による人種の性格の違いを知ることでもあるのかもしれません。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1011.html
最近は日本人の加害者としての側面ばかりにスポットが当てられて、こうした日本人が辛酸をなめた部分が忘れ去られている気がします。両面を知ってこそ、公平な判断ができると思うのですが…。
こんにちは。実は恥ずかしながら、自分で読み返していて泣いてしまったバカな私でした。この連載は、平成8年に「声なき声を語り継ぐ 戦没者遺族『50年の証言』」(新潮社)という本になったのですが、目立たない装丁で、あまり売れなかったようです。絶版になっているだろうな、と思います。
中学生のころ、シベリア抑留帰りの友人の父の話を聞いたことがあります。ソ連兵は刑務所から送られてきた兵隊が多く、教養がなくて時計も読めなかったが、日本人から略奪した時計をアクセサリー代わりに両腕に十個もつけていたと。江戸時代から多くの人が文字の読み書きができた日本とは違うようです。
こんばんは。七瀬またたび(DarkSide) 様への返事で書いたように、本にはなったのですが、いま入手できるかと聞かれれば私は分かりません。すいません。アマゾンか何かの古書購入ではあるかもしれません。山形、福島、新潟、静岡、大阪、福岡、沖縄、ハバロフスク…とあちこちに飛び回り、いろいろな話を聞き、そのまま記事にしたのをはっきりと覚えています。
こんばんは。>大宮の青葉園には、我が家の祖先も眠っています。今度墓前に赴く際は、従軍看護婦の地蔵尊にもお参りし、冥福を祈りたいと思います。 …そうでしたか。これもご縁かもしれません。私はちょうど終戦50年のおりに遺族の方々を取材したのですが、半世紀の歳月も、人を癒すには足りないのだということを強く感じました。
こういう悲惨な話が実話であることの重みに言葉を失います。しかし、自決した従軍看護婦たちは、ソ連に日本人の覚悟を見せつけたと思います。忘れずに、こんなことがあったと語り継ぎたい話です。
今のロシアに日本を占領する余力はないでしょうが、油断をしていると中共ならやりかねません。そのときに悔やんでも仕方がないので、いまこの瞬間から備えて立ち向かわないといけないと、つくづく感じています。
別の方への返事にも書きましたが、平成8年に単行本にはなりました。ドラマ化の話なんて、まったくありませんでしたが…(笑)。私はこの話とは別に、シベリア抑留問題も一時期、集中的に取材していました。ハバロフスクの収容所跡に行った際、あたり一面が湿地帯であるのを見て、その劣悪な環境に改めて驚いたのを覚えています。
そうですね、風化させてはいけませんね。こういう歴史的事実もきちんと踏まえないと、国際社会についても日本の立場についてもよく分からなくなってしまうと思います。
産經さんならではの記事ですね。(確認してませんが、たぶん)他社がこれをできないのは、國内のあらゆるところにソ聯や中共北朝鮮らのスパイが跋扈しつづけてゐるからなのだらうと思ひます。こやつらは戰前から日本を操り、そしてスターリン・毛沢東・金日成信奉者らが戰後メディア、敎育を支配し、赤いカベで覆いつくしました。そして忍耐強い日本人の多くをこのカベのなかに幽閉、自虐人化させてしまふことに成功し、これが現在進行形でつづいてゐますよね。領土問題、教科書問題、慰安婦問題の原因である「内壁」は外務省や朝日などでせう。しかし、日本軍による「悪行」を反省させられるばかりの反日日本人以外の日本人は、少しづつこの厚いカベを破らうとしてゐます。ネットウヨ出現なんかも、ある意味、このカベを壞すために集まった無償労働者=志願兵といったところでせうか。
そしてまた、これに立ち向かへる現場監督がやっとあらはれた。やっとホンマの總理があらはれた。機は熟しつつあります。
アメリカに楔を!中露に鉄槌を!そして反日日本人にイカヅチを!!
赤いカベ 壞してうつくし 國つくり
ロシアは日本に謝罪していない。
こんばんは。>私は日本がまともになる為なら、貧乏も耐えます。
これは私も常々考えていることで共感しました。今でも産経の給与は朝日の半分かそれ以下ですが、それが3分の1になっても、日本がまともな国になるためならかまいません。4分の1になると、さすがに家族を養うことが非常に難しくなるので少し困りますが(私は半端者です)。ご指摘の通り、教育こそが最も大事だと思います。
今回の件では、かなり米国の本音が出ましたね。日本は情勢を見極めながら、イラクから自衛隊を撤退させ、思いやり予算の打ち切りを検討してもいいかと思います。思いやり予算分を自主防衛にあてれば、かなりの防衛力向上が見込めますから。米国には、今回の言動を後悔させたいのですが、うーん、実際はどうでしょうか…。
こんばんは。確かに、国際社会に幻想を抱いているのは日本人だけかもしれませんね。分かりませんが…。本については、何人かの方への返事でも書きましたが、新潮社から平成8年に出すことは出したのです。確か7000部ぐらいでしたか。残念ながらあまり注目されませんでしたが。
こんばんは。どうも慰安婦問題や南京事件に関する米国の反応を見ていると、何が正しいか検証しようというより、問答無用で日本は黙って謝罪しろ、という感じかなと思います。戦勝国の驕りというか。米国人自身の中から、いろいろと調べてくれる人が出てこない限り、日本なんかの言うことには聞く耳持たないというような…。悔しいですが。
これまでも繰り返し書いてきましたが、やはりGHQによる宣伝工作・洗脳とその路線を継承した日教組の毒がとことん回っているのではないかと思います。だからこその戦後レジームからの脱却なのですが、やはり簡単ではないようです。郵政民営化なんかとは比較にならないぐらいの大事業ですから。
日本は日本の国益のために立ち上がるべきだと思っています。ですが、以前のプログにも書きましたが、同時に現在の日本はあまりに非力だと考えています。反転攻勢の時期は今がふさわしいのか、それとも今はまだ臥薪嘗胆して爪をとぐ時期なのか…。いずれにしても、安倍首相の足を引っ張るよりも、有権者の支持という形で背中を押すべきだと思います。
この記事を読んで涙で…。
ともかく殆どの人が過去の事を知らないで表面上に出てきたほんの少しの情報だけで良い悪いを判断しているのが駄目なのだと思えてなりません。せめて国際的な論争を行っている人、現在、米国で対日非難決議案を出して論争を行っている人には片側だけの資料だけではなく双方の関連する資料全てを見て論じ合って欲しいと望みます。知らないというのは罪です。出来るだけ彼らに沢山の情報が渡せる・見させる努力が必要なのではと思います。
こんばんは。このソ連はいけしゃあしゃあと、東京裁判では検事席に座り、日本の「対ソ侵略」(はぁ?)を糾弾していました。それだけでも、東京裁判なんか認めてはいけないと思います。本当に、ろくな国ではありません。
ロシアの本性をもっと国民に認識させなければ,この尊い犠牲が浮かばれないと思います。
実家が産経新聞を取っているので、新聞連載時から拝読しており、この本が出版されたときすぐ購入しました。(7000部しか売れてなかったのですね。)
現在某県で援護の仕事をしているのですが、遺族や旧軍人の方の来庁や電話で対応していて、腹の立つこともしばしばあるのですが、そんなときは帰宅後この本か、土井全二郎さんの本を読み返して心を落ち着け、翌日からの仕事に望むことにしています。
これからもいい仕事をお願いいたします。
スターリンが沿海州の朝鮮系の人を中央アジアの砂漠の中に連れ去った理由も「日本国民になっている朝鮮人と通じて諜報活動等をされては困るから」という理由だったと聞いたことがあります(専門家でないので真偽のほどはわかりませんが)。その命令もまた突然で「こう決まったから今から荷物をまとめて移動せよ」という強制的なものだったようです。「こんな砂漠のところでどうやって暮らすのか」と移動させられた人は思ったそうです。ソ連の役人いわく「米でもなんでも好きに育てればいい」。結果的には移民が頑張って灌漑をして水田は成功しましたが当初のソ連の役人の発言は単なる詭弁だったでしょう。あの地域(サマルカンド地方)は地元民でさえ灌漑に苦労しそれ故に太古から戦乱が耐えなかったところなんですよね。ソ連の役人側は強制移動者全員が餓死しても構わないということで軽軽しい発言をしたものと思われます。
それはそうとロシア政府というのは日本国民にとって過去からの脅威ですよね。
それゆえ日露戦争では日本側はロマノフ朝打倒勢力に力を貸したわけですが結果論から言えば逆に新たな困難を沢山作り上げてしまいましたね。まあそれは別にあの王朝が続いていたとしても別の面で日本がつらい思いをさせられる展開にはなったでしょうし別に日本が手を貸さなくても革命はおきたのでしょうけど。
私の父は生前、朝鮮人は日本の敗戦を境にまるで人間が変わったように倣岸になり、今度戦争があったら、お前ら絶対許さないと思ったとよく言っていました。ソ連兵については、やつらは教養がなく文字を読めるやつは殆どいなかった。しかし、一人一人のロシア人は素朴な人間だったと言っていました。私も旧満州でのソ連兵の暴虐はよく聞きますが、教養の無い人間を戦争の極限状態に於いたときにこのような悲劇が起こるのでしょう。
私の父は当初の抑留中は将校付きで、それなりの待遇を受けていたため、他の兵隊が餓えていたことを知りながら、十分な食事をしていたそうです。当時のことを思い出すと慙愧に耐えないと語っていました。ただ、後ほど一般の兵舎に移され、かなり辛い思いもしたということです。余り多くを語りませんでしたが、死ぬ前うわ言に「こんなところはもういやだ」と何度も云っていました。きっと当時の事がよみがえって来たのだろうと思いました。
やはり戦争の悲劇は繰り返してはいけません。そのための手段が人によって違うことが人の世の難しいところです。この話は死をも覚悟することによって、悲劇をある意味くい止めた話だと思いますが、人によっては違う解釈もあるでしょう。
今朝の弊紙に、米下院が90年前のアルメニア人虐殺で、いまのトルコを非難する決議案を審議しているとの記事が出ていました。米国のこのどうしようもない独善体質にはほとほと呆れます。本当に、一つの視点だけではなく、さまざまな角度からものを見ることを覚えてほしいものです。
おはようございます。「従軍」という言葉は、このように召集されて前線に赴いた看護婦さんたちにこそふさわしく、慰安婦に従軍とつけた造語感覚には違和感を覚えます。まして、それを連呼するNHKにも。
おはようございます。私も個人的に知り合ったロシア人は気のいい素朴な人柄でしたが、国家としてのソ連・ロシアはまったく…。残念ながら、北方領土を返すような国ではないと思います。
おお、この本を買ってくださったのですか!!ありがとうございます。私は涙もろいもので、連載中、ワープロを打ちながら何度も目をうるませていました。自分で取材した話を書きなが泣いてしまうのですから、どうしようもありません。愚か者そのものです。でも、それだけ全国でいろいろな話を集めることができたとも自負しています。
涙なくして、読むことができませんでした。貞操観、敵愾心など少し前の日本人には見習うべきところが多いなと感じました。私は最近このブログの存在を知りましたが、更新されるのを非常に楽しみにしています。メディア関係者にも阿比留氏のような方がいらっしゃるとは新鮮な驚きでもありました。
ところで、先ほどたまたま報道2001を見ていたところ、竹村氏が拉致と慰安婦を全く同等に扱う発言をしていました。私はその時点でスイッチを切りました。産経新聞とフジテレビとの業務関係については詳しくありませんが、まず、足元から固めて頂きたいと思います。
今後、ますますのご活躍をお祈りいたします。
新聞では「読売新聞」が左傾化し、辛うじて「産経新聞」が孤高を守っているようであるが、系列の「フジテレビ」の堕落は目に余ります。ニュース番組のつまらなさは目を覆いたくなります。
まあ、ソ連・ロシアに限らず、世界各国に「道徳」や「善意」を求めてみても、魚屋で野菜を求めるようなものなのでしょうね。空虚でみっともない憲法前文は一刻も早く改めて、もっと現実を見据えたものにしなければいけないと思います。ところで、モンゴルの支配下にあった時代のロシア人は、どういう存在だったのでしょうか。ふと関心がわきました。
おっしゃる通り、戦争の悲劇を繰り返してはいけないという出発点は同じであるはずなのに、そのためにどうするかでは人によって180度も見方が異なりますね。一時期は非武装中立なんていう空論が、けっこう大真面目で語られていましたし。私は、少なくとも特定アジアの精神的・経済的な奴隷になることが平和を保つことだとは思えないのですが…。
日本は終戦といって戦いの大局には平和があるものと励みましたが、戦いは形を変えただけで継続していました。 国富を領土から得るか、そのエッセンスである資源から得るか、広告・宣伝から得るのか、手段が多様化しただけです。 日本は武力の代わりに技術力をもって国際競争社会に復帰しましたが、単体での効果は限界がみえています。 世界をみれば財の獲得には知力=インテリジェンス(と武力を組み合わせ)の後押しが不可欠であることがみて取れます。日本は当面武力の後押しがないのですから、交渉には知恵の限りを尽す必要があります。 国際ルールに則りながらも、勝つ戦いをしなければならないのです。
マイク・ホンダが問題にしているのは Sex Slave 行為なのですから、日本としては、「日本軍にはそのような行為なかった」と火消しすると同時に、矛先を日本に限定することなく「Sex Slaveはゆゆしき問題なので、米国がそれを望むならば、日米で協力して両国の、または世界が協調して各国の過去のSex Slaveを総括しましょう」と、切り返せば良いと思うのです。
安倍首相からは「なかった証拠」をあげる趣旨の発言があったとききますが、公害問題でわかるとおり、なかったことを立証するのは至難の業です。挙証責任がどちらにあるのかで勝負が変わるほど重要です。 従軍慰安婦なるもの言い出した方が挙証する責任があるはずです。 日本は出てくる証拠に証拠能力がないことを示すに徹するのが賢明だと思います。
いかがでしょうか。
日本人にとってルワンダの悲劇が遠い余所事であるように、他国にとってこの日本人の悲劇は知らない余所事かもしれません。
だからこそ、何より私達がこの出来事を知り、忘れないことが肝心ですよね。
そして悲劇を繰り返さぬよう、外交をしっかりぬかりなく、目先の利益に囚われず、なあなあで誤魔化さず、一手一手頑張っていただきたいです。
まだ今の世界では日本人のことは日本人でしか守れず、守れなかったときの悲劇は第二次世界大戦が教えてくれたはずです。
無能無学な私には税金を払うことと声援を送ること、支持をすることくらいしかできませんが・・・
私の祖父もシベリア帰りでした。
シベリアのことは「寒かった」以外、何も話してくれませんでしたが、その沈黙に逆に恐ろしさを感じていました。
はじめまして。今朝の報道2001は見ていなかったのですが…。弊社は資本的にはフジテレビの下にありますが、報道・編集に関してはほとんど提携関係はありません。弊社でだいたい週に1度開かれる社論会議には、フジテレビの方も出席されることが多いですが、実際に連携して何かを報じようということにはまずなりません。現状は、そんな感じなのです。
一つには、テレビ局に入ろうという人と、新聞社に入ろうという人のタイプが違うこともあるかもしれません。個人差があって一概には言えませんが、テレビの記者には、もともとドラマやバラエティーをやりたかったのに、たまたま報道に回されたとこぼす人がけっこういますから。とはいえ、新聞もまたろくでもないと言われればそれまでですが。
安倍首相はなかったことを証明することが「悪魔の証明」といわれ、ほとんど不可能に近いことは知っていると思います。彼自身が、ずっとこの問題でそれを言っていましたから。ただ、改めて資料公開を進めることで、自ずと判明してくることもあるだろうと考えたのではないかと。しかし、来月の安倍首相訪米前にこの問題で騒ぎ出した特定アジアと国内の反日勢力のやり方は、毎度のこととは言いながら、うんざりします。
こんにちは。おひさしぶりです。シベリアでは、ソ連による拷問と洗脳、日本人同士の裏切り、病気の蔓延、重労働、ソ連を訪問しても抑留者に目も向けない社会党訪問団…と本当にいろいろとつらいことがあったようです。私も、シベリアに11年半抑留された故・草地貞吾氏や、11年間抑留された瀬島龍三氏らからいろいろと話を聞きました。もっと教科書その他で取り上げるべき日本人の経験だと思います。
なんとも悲しい、けれども気高い話ですね。
もう二度とこのような悲劇を起こしてはいけません。
左翼達は「世界平和」とか言うのでしょうが私はまず日本の繁栄と平和を最優先すべきであると考えます。
中国、ロシア、朝鮮。なんで日本の周りは程度の低いワガママな国ばかりなのでしょうか・・・・憂鬱になってきます。
ブログ本読んでいます。あらためて腹の立つことや胸のすく思いを味わいながら。
本を読んでくださっているとのことで、ありがとうございます。私もつくづく日本は隣国に恵まれないなあと感じています。唯一、日本にとってありがたい国である台湾については、日本側が見捨ててしまった形ですし。世界平和もいいですが、まず日本の身を守らないと話になりませんね。
> まあ、ソ連・ロシアに限らず、世界各国に「道徳」や「善意」を求めてみても、魚屋で野菜を求めるようなものなのでしょうね。空虚でみっともない憲法前文は一刻も早く改めて、もっと現実を見据えたものにしなければいけないと思います。
全くもっておっしゃるとおりですね。
それと、この悲劇はぜひ、映像化して欲しいです。映像というのは恐ろしいもので、「直接的に一番伝わる」ものです。
世界のあちこちで映像を使ったプロバガンダや告発が行なわれておりますゆえ、映像を使って真実を訴え続けることも大事だと考えます。
>ところで、モンゴルの支配下にあった時代のロシア人は、どういう存在だったのでしょうか。ふと関心がわきました。
どうだったんでしょうね・・・。
連投失礼します。
その台湾に来週行って参ります。本当は高砂義勇兵の碑にお参りするつもりでしたが時間的に無理のようです。台湾を感じてきます。
確かに映像の持つ力はとても大きいものだと思います。慰安婦問題にしても、自称・元慰安婦の高齢の女性が泣き叫んで抗議する場面が、何度も映像として映し出され、何も知らない米国人にインプットされた部分もあるのでしょう。
そうですか。新鮮なご報告を待っています。私も行きたいなあ…。
> 確かに映像の持つ力はとても大きいものだと思います。慰安婦問題にしても、自称・元慰安婦の高齢の女性が泣き叫んで抗議する場面が、何度も映像として映し出され、何も知らない米国人にインプットされた部分もあるのでしょう。
将来、満州の悲劇を取り上げた映像ができた際には、産経新聞社さんがバックアップをされているものと期待します。
今回のエントリー同様、悔しいとしか言い様のない話です。
で、なくなった方には申し訳ないながら、少し変化球を投げたくなりました。
少し話が変わりますが以前、「役所意識」についてのコメントで、私は明治からの名残よりも戦後の思想の影響を感じると書きました。
真岡事件と先日の「連合」についての話をつなぎ合わせれば、ある程度、その雰囲気がわかるのではないかと思います。
連合初代会長の山岸氏は、真岡で使命感を全うし集団自決された方々の会社の後輩にあたります。これがポイントです。
NTTの歴史をご存知であれば、すぐにわかると思います。NTTの前は電電公社、その前は電気通信省、GHQの頃は運輸通信省、もとは逓信省です。
私は文章を書くのが下手なのでうまくいえませんが、ご一考いただけたらと思います。
>連合初代会長の山岸氏は、真岡で使命感を全うし集団自決された方々の会社の後輩にあたります。これがポイントです。
こういう視点は思いつきませんでした。確かに、役所意識も戦前と戦後では同じ言葉でも内実はかなり違うのかもしれません。
ありがとうごさいます。でも、手に入るかなあと心配です。
これ以外に詳しくは憶えてませんが、北海道に侵略の碑があるという事で、それらを訴えているHPにいった事があります。
個人的な感情論ではどうしてもソ連憎し!
とは思ってしまいます。
が、国同士のお話は感情論ではどうしようもありませんから、そのあたりは政治家の腕にお任せするしかないのですが・・・。
ねぇ?って感じだったり^^;;。
そもそも戦争を仕掛けた事じたいが間違いだったとはなかなか言わないですね(笑)。
どんな状況でも私は日本人ならアイデアで切り抜けられると思ってます。
特に過去の人間はそうだったと思っていただけに、そもそも戦争した事を考える必要はあると思っています。
が、だからといって非道の道に走るソ連(ロシア)は、現在まで非道のままというのが・・・。
人権というものを真剣に語るなら中国やロシアを抜きに語って欲しくないとはやっぱり思ってしまいます・・・。
そして、集団自決された方々にはご冥福をお祈りいたします。
高校におっソロしく優秀な英語の教師がおられました。サボり専門の学生らも雰囲気が怖いので予習復習を。この先生を慕った同窓会出版本にロシア抑留生活のことも書いてあります。ごく一部を紹介させていただくと
”ごく小さな体験から一般論を引き出すのはしばしば危険だが、私の会ったソ連兵はこうだったというふうにご理解いただきたい。
一般的に言うと教育の程度は低かった。日本の兵隊は尋常小学校までは卒業しているので、八年は学校に行っているというと驚いていた。彼らは四年程度の学校に行っていればいいほうで、中にはまったく学校に行ったことがなく、従って文盲もいた。中略 九九の掛け算が出来ないからたいそう時間がかかった”・・・
教育が本当に大事と分かります。胸がつぶれるお話、コメントを控えます。話が違いますが、アメリカの建国当時の原住アメリカ人の大量虐殺から原爆、B29と焼夷弾、その他共同研究を持ちかけましょうか・・・。だれだったか日本人と見ると韓国人ではないか?と恐怖の表情を浮かべるベトナムの人たち、との表現を記憶しています。
ソ連は分かりやすいぐらい非道でしたね。日本の敗戦が確定した後に突如、日ソ中立条約を破って参戦し、北方領土は終戦後に占領し、なおかつシベリアに労働力として60-70万人を拉致して強制労働させ、その1割を死亡させ…。これほどの非道をつい忘れがちになる日本人って、本当に世界一のお人よしかもしれないとときどき考えます。
数年前にカムチャッカに行った際に通訳を務めてくれたロシア人の青年は、信州大に留学経験があり日本語はぺらぺらでしたが、日本に来るまで、北方4島がずっと日本領であったことも、千島・樺太交換条約についても知らなかったと話していました。本当に教育は大事ですね。米国人にも、自国の歴史をもう少し勉強してほしいですね。よその国の歴史にあれこれ言えた立場ではないことに気付くでしょう。
昼間職場で読み始めましたが、涙を流しながら仕事をするわけにもいかないので、帰宅してから改めて読みました。涙なくして読めません。
ソ連の非道さに怒りを感じるとともに、ただただ謝るばかりのこれまでの日本の姿勢に怒りがこみ上げてきます。
そしてソ連の非道さはそのままロシアに引き継がれていると私は思っています。そのロシアとの経済交流・支援が活発していますが、どうしてそういうことができるのか私には理解できません。
私は、今でこそ氷雪の門等の映画の存在などを知っていますが、数年前まではこうした話は殆ど知りませんでした。そういう自分にも恥じています。
95年の記事が、こうしてネットに載ることによって、更に多くの人の目に留まるということは良いことだと思います。
良い記事の再掲、ありがとうございました。
おっしゃるとおり、日本人の苦難も知られるべきで、このエントリではじめて実感した人も多いみたいですから、かなり価値が高いと思います。
ところで、トラックバックさせていただいたのですが、
いつもはまともなThe Economistがひどい記事を書きました。
この雑誌だけは反論すべきと思いメールを書きました。
ここやほかのブログで日本語で書かれているまともな意見の、十分の一でも英語で彼らにぶつけてもらえたら、だいぶ効果があると思います。
官邸や外務省は、簡単に河野談話を否認して語れませんから(やはりあれが強制の文書上の証拠とみなされているようです)。
>ソ連の非道さに怒りを感じるとともに、ただただ謝るばかりのこれまでの日本の姿勢に怒りがこみ上げてきます。
同感です。そしてなにやら悲しく感じています。現状を知らない年輩の政治家や官僚はよく、日本人は被害者意識ばかりを持っているが加害者だなんて言いたがりますが、実際には加害者意識ばかり持たされて、自分たちの父祖がなめてきた辛酸はほとんど知らないことが多い気がします。
トラックバック拝見しました。エコノミストへの反論、お疲れ様です。五目ちらし様のような反論投稿を、たくさんの日本人が英米紙・誌に寄せれば、彼らも「ちょっと変だぞ」と何かに気付くかもしれませんね。
名越二荒之助&展転社が流布した与太話に感動してるようじゃ
読売の論説委員のレベルも大したことねーな
知事選に出るかもだってw
選挙:知事選 橋本氏擁立に有志の会結成 /秋田
http://mainichi.jp/area/akita/news/20090117ddlk05010035000c.html