本日夕、ときどき世相について意見・苦言を寄せてくれる元関東軍参謀、故・草地貞吾氏の妻、三重子さんから慰安婦問題について電話がありました。内容は、慰安婦の実態は、いま言われているような軍の強制連行では断じてなかったということでした。

 私は以前、社会部時代の一時期、集中的にシベリア抑留問題を取材していました。そのころ、旧ソ連から最長コースの約11年半も抑留されたにもかかわらず、共産主義への転向を迫る洗脳工作に一切従わなかった草地氏を知り、何度か取材に応じていただきました。草地氏は残念ながら平成13年に逝去されましたが、以後も小泉前首相の靖国神社参拝などことあるごとに、三重子さんは「主人はこう言っていた」と電話してくれるのです。

 まず、草地氏が亡くなった際に私が書いた追悼記事を再録します。拙く、字数制限から十分に書くべきことを伝えられていませんが、人物紹介としては手っ取り早いもので。まずはお目通し願えると幸いです。

 【葬送】元関東軍参謀 草地貞吾(くさちていご)氏 2001年12月23日  東京朝刊  社会面 
 (22日、東京都新宿区・千日谷会堂)

 「草地さんは天皇陛下の次に偉い」「どうせ年をとるなら、草地さんのように老いたい」

 極寒のシベリアで生死をともにし、復員後も草地氏を慕い集った「宇山会(草地会)」の仲間は、互いにこう話し合った。九十歳を過ぎても背筋はピンと伸び、朗々と響く声で不動の信念を説く姿は若々しかったが、その人生は波瀾(はらん)万丈だった。

 明治三十七年、大分県生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、昭和十八年に満州国(中国東北部)・新京にあった関東軍総司令部参謀(大佐)に。ここで終戦を迎え、以後十一年余、ソ連に抑留された。

 皇室を敬愛し、植民地解放という大東亜戦争の意義を確信する一方、共産革命を肯定しない草地氏に対し、刑期二十五年が言い渡され、独房への投獄や拷問が繰り返された。節を曲げない抵抗は、山崎豊子氏のベストセラー小説「不毛地帯」のモデルの一人ともされる。

 昭和三十一年、五十二歳で帰国するが、夫人と幼い子供二人は満州からの引き揚げ途上に亡くなっていた。三十三年、先妻のめいの三重子夫人(六八)と再婚後、日大文理学部に入学し、中学・高校の教員免許を取得。京都産業大の寮監長、国士舘中学・高校の校長として後進の育成に努めた。

 京産大の教え子の一人、浜野晃吉氏(五四)は「まことの日本人はかくあるべしと教わった」と振り返る。平成三年四月、来日したソ連のゴルバチョフ大統領(当時)と面会した際、「私は君の父親と同じ年齢だ。父として言う。北方領土を返したまえ」と一喝したことも。

 「でも、父親としては温厚で、かわいがってもらいました。年が離れているせいか、好々爺(や)みたいで」と長男の千里さん(四一)。三重子さんも「怒られたことは一度もない。申し分のない夫でした」としのぶ。晩年は家族に「私のなすべきことは終わった」と話していたという。先月十五日、九十七年の天寿を全うした。(阿比留瑠比)

 …私が草地氏の生前、お会いする機会を得た回数と、電話で話をしたことをあわせて計10回にもならないと思いますが、毎回、とても清冽な印象を受けました。信念が背筋に太く鋼鉄のように通っていて、接していてこちらまで身が引き締まる思いでした。

 上の記事でも書いていますが、山崎豊子氏の「不毛地帯」で、ソ連からさまざまな拷問を受けた主人公の描写は、この草地氏の実体験をもとにしています。記事の中にある「草地会」は、現在でも年に1回開かれているそうで、いかに草地氏が周囲から敬愛される人物であったかがうかがえます。

 草地氏は、ソ連側に近く、シベリア抑留の補償を日本政府に求めた故・斎藤六郎・全国抑留者補償協議会会長とは違い、補償を求めるならソ連に求めるべきだという立場でした。そして平成5年7月、斎藤氏はソ連の公文書の中から「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」というものを見つけ、共同通信にリークします。共同は「ソ連軍に捕虜使役を申し出」「関東軍司令部の疑惑裏付け」「シベリア抑留で新事実」という見出しで記事を配信しました。

 要は、シベリア抑留は関東軍が申し出たというストーリーで、当時は新聞、テレビで大きく「やっぱり日本軍はひどい」と取り上げられ」ました。ところが、このワシレフスキー元帥宛ての陳情を書いたのは草地氏で、趣旨は全然違うことが明らかになりました。草地氏が文書で述べていたことは、要約すると「3万人を超える入院患者は冬季までに帰国させてほしい。軍人や希望者は日本人居留民の帰国のために働き、逐次帰国させたい。それまでは石炭採掘などで協力する」というものでした。

 このリークには、シベリア抑留には日本側に責任があるとして、国内で起こしていた裁判を有利に進めたい斎藤氏の思惑があったわけですが、共同通信がそれに乗ったわけです。草地氏は「あの文書は私が書いたものだが、報道されたような意味ではない」と名乗り出ましたが、この程度でマスコミは訂正などしません。私はこの点を5年10月、山形県鶴岡市の全抑協本部を訪れて斎藤氏本人にインタビューして質したたところ、斎藤氏は「草地さんはウソをついてないと思う」という答え方をしました。暗に草地氏の言い分の正しさを認めていたのでしょうね。

 海千山千で、インタビュー中も都合の悪い質問には突然、こちらがうまく聞き取れない鶴岡弁で応じていた斎藤氏にしろ、あくまで真っ直ぐな草地氏は苦手なようでした。草地氏は直接、斎藤氏と対談してシロクロつけたいと申し入れていましたが、斎藤氏は応じませんでしたし。そして草地氏の方は、この報道もあって、「斎藤氏より先には死ねない」と語っていましたが、結局、年下の斎藤氏の方が先に亡くなりました…。

 因みに、私が斎藤氏にインタビューしたときの話を元朝日新聞記者の白井久也氏が斎藤氏から聞いたらしく、著書「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」の中で取り上げているのですが、私の名前を「瑠以」と間違えて書いています。なんだかなあ。

 …すいません、思いが募って話が脱線しまくりましたが、慰安婦問題に戻ります。草地夫人の三重子氏は、今回の騒動を受けて、いまや高齢化して数少なくなった草地氏の陸軍士官学校同期の夫人や、後輩たちに電話をかけ、何日もかけて慰安婦の実態についてそれぞれが知っていることを聞いて回ったそうです。

 そして、「主人は河野談話が発表されたときに、何というバカなことをと怒っていたけど、だれに聞いても軍が女性を強制連行したなんて話はない。貧しくて親に売られた話は昔はあったけれど、マイク・ホンダ米下院議員なんて許せない」と話していました。首相官邸にも電凸されたとか。

 私も、日本軍がいつも正しく、品行方正に振舞ったなんてまったく思っていませんし、実際に「蛮行」の部類を行った証言も聞いたこともあります。ですが、私たちの父祖が、やってもいない悪行で全世界から批判され、辱められているような現状を放っておくわけにはいかないなと、改めて感じました。