ちょっと旧聞となりましたし、すでにイザブロガーをはじめ取り上げられていることですが、やはり事実を記録するという意味でも書いておきたいことがあります。それは、28日夕に、参院議長公邸で各国の駐日大使を招いて開かれた「桜を愛でる会」での河野洋平衆院議長のあいさつについてです。この人の嫌らしさと厚顔無恥さ、そして何より有害さがよく表れていると思うからです。以下に河野氏のあいさつを記します。

 《外交を重視する(扇千景)参院議長のパーティーをお借りして、衆院議長が一言だけごあいさつをさせていただきます。
 春になると日本中埋め尽くす桜の花ですけれども、ごらんをいただいても色も違いますし、咲き方も違います。桜にもいろいろな桜があるんです。一重に咲く桜もあれば、八重に咲く桜もありますし、赤い色の桜もあれば白い色の桜もあります。
 桜はさまざまですけれども、しかし、咲くときには一斉に、一緒に咲きます。いろいろの色が一緒に咲くからきれいなんで、しかしそれはすべて桜であることは間違いありません、全部桜です。
 それはあたかも日本の国の議論のようですね。どうぞその桜をお楽しみください。これが本日の河野談話でございます。》

 …さて、この河野という人はわざわざ「河野談話」という言葉を使って何を言おうとしているのでしょうか。私の解釈では、河野氏はいろいろな種類の「桜」に例えて、慰安婦募集時の官憲の関与について「狭義の強制性」と「広義の強制性」に分けて前者を否定した安倍首相をあてこすっているのだと思います。

 そして、この場には安倍首相もいました。私は現場にいなかったので、そのときの安倍氏の表情などは見ていませんが、心中は察するに余りあります。安倍氏が苦しい答弁を強いられているのも、日本が米国をはじめ諸外国から特別な偏見で糾弾されているのも、この河野氏の愚かさがすべての発端なわけですから。それを、言うにこと欠いて、河野氏はさまざまな桜の存在を「日本の国の論議のようですね」とひとごとのように突き放して語りました。

 また、この話を聞いていたのは、各国の駐日大使であるという問題もあります。各国が実際にどう動いたかは分かりませんし、そもそも意味が分からなかった大使もいたことでしょうが、3権の長の発言ですから、あるいは本国にこの新「河野談話」を本国に伝えた国もあったかもしれません。日本の国家の中枢の意見対立とナイーブさとして…。国益によかろうはずがありません。

 この決定的な外交センスのなさ、または自分の利益しか考えないやり方はどうでしょうか。この人は小泉政権時代も訪中時には、小泉氏の悪口ばかり言って遠回しに「日本には私という親中派がいる」とアピールし、あわよくば中国のバックアップで首相の座を射止めようとしていたと、河野氏と中国要人のやりとりを知る某外務省幹部は言っていましたが、想像を絶するマヌケさです。さすがに、中国側は、表面的にはこの人を歓迎しつつもウラではあざ笑っていたと聞きますが。

 安倍氏の政権運営には各界からいろんな批判がありますし、実際、年齢相応に拙かった部分もあると思いますが、そもそも自民党でも政界でも、保守派自体の数が多くないことが大きいと思います。この河野発言のように、あらゆるところから足を引っ張られていますから。リベラルの首相であったなら、今の5分の1程度の批判で済んでいたでしょう。そもそも、昔からあった政治家の事務所費問題がなぜ今、火をふいたのかというのも、何とか政権を攻撃したい勢力が血眼になっていろいろ探しているからでしょうし。

 話が脱線しかけましたが、しかも、この河野氏のあいさつは、平成5年の河野談話と同じく事実誤認ないし、いいかげんなところがありますね。桜は種類ごとに咲く時期はずれていますし、この人の言うように一斉に咲くのは同じ種類の桜の話でしょう。この人の語彙をあえて使えば「知的に誠実でない」あいさつです。こんなあいさつを聞かされる駐日大使たちがかわいそうなぐらいです。

 で、今朝の朝刊には、来春から使用される高校教科書の検定結果が出ていました。慰安婦問題については、政府が今月16日、安倍首相名で「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定したにもかかわらず、主語をあいまいにして「連行」という表現を使った教科書会社が実教出版社と第一学習社のに2社ありました。

 実は安倍氏は、昨年10月に国会で河野談話をとりあえず継承しつつも「狭義の強制性(強制連行)はなかった」と答弁したときから、教科書記述を意識していたと聞いています。国会での首相答弁は、当然、教科書検定に反映されるべきものですから。そして、全閣僚が署名する政府答弁書でさらにこのことを明確化させているのです。

 ところが、長年サヨク(マスコミを含む)からの攻撃・要請に弱腰対応を続けてきた文部科学省は、「連行」の主語が軍だとか官憲だとかはっきり示されていなければいいや、という対応をとったわけです。でも、民間の売春宿経営者などの行為に対し、ふつうは「連行」という言葉は使わないように思います。

 これは、実は河野談話と同じパターンです。河野談話にしても、本来は「いかなる意味でも、日本政府の意を体して日本政府の指揮命令系統のもとに強制したということは認めたわけじゃない」(談話作成時の事務方のトップである石原信雄元官房副長官)なわけです。ところが、韓国政府との談合もあって、主語をあいまいにした結果、諸外国では日本軍と官憲が強制したと認識されています。今回、検定に合格した教科書の記述も同じことなのではないでしょうか。

 私も長年取材していますが、文部科学省は日教組などと馴れ合い、左派からの攻撃を恐れる一方で、保守派が大人しいのをいいことに、甘く見ているように感じます。人によって違うので一概に言えませんが、産経新聞だと名乗って電話取材をかけると、居留守を使うような教科書課長もいましたし。

 昔は、首相をはじめ政治家なんてだれがやっても同じだろうとかよく言われていましたが、そんなことは決してありません。河野氏の属人的なキャラクターと思想(?)傾向と能力が、この日本をここまで苦しめているのですから。有権者の1票は、やはりとてつもなく重みがありますね。