本日は休みなので、住んでいる地域のごみ焼却所に隣接するリサイクルセンターをのぞいてきました。そこに、図書館で不要となり、除籍図書とされた本を自由に持ち帰っていいというコーナーがあるのです。で、きょうの収穫は「南の祖国に生きて インドネシア残留日本兵とその子供たち」(上坂冬子著、文芸春秋)です。以前、書店で買おうか買うまいか迷い、財布と相談して諦めた本でした。

 このところ、インドネシアというと、慰安婦問題との関連で語られることが多いのですが、この本は、日本の敗戦後もかの地にとどまり、インドネシア独立のためにともにオランダ軍などと戦い、今も現地で暮らす元日本兵について書かれたものです。私はどうせなら、こういう事実を教科書に載せたほうが、日イの友好に寄与すると思うのですが…。

 それで、先日のエントリでは関東軍の参謀だった故・草地貞吾氏について触れたので、きょうはジャワ軍(第16軍)参謀として、スカルノ初代大統領の「独立演説」を許可するなどインドネシアの独立にかかわり、日イ友好に半生を捧げた故・宮元静雄氏について書きたいと思います。まずは、私が書いた追悼記事から紹介します。


葬送日本インドネシア友好団体協議会名誉会長・宮元静雄(みやもとしずお)氏 [ 2000年09月28日  東京朝刊  社会面 ] (27日 東京都調布市・昌翁寺)

 「これが正しいと思ったら、何がどうでも一徹を貫いた。弱音を吐かず、人の悪口を言わない。古武士のような夫でした」

妻の俊(とし)さん(八五)は、そうしのんだ。神式で行われた葬儀には、半生を日本とインドネシアの友好にささげた故人にふさわしく、同国ゆかりの参列者が訪れた。

明治四十一年、鹿児島県生まれ。鹿児島一中(現鶴丸高校)を卒業後、陸軍士官学校、陸軍大学校へと進み、第十六軍参謀(中佐)としてインドネシアで終戦を迎え、現地で戦後処理を担った。

昭和二十年九月十九日。初代大統領就任を宣言したスカルノは、ジャカルタ市で就任演説を行うことになった。一方、連合国は警備を受け持つ日本軍に対し、「発砲してでも集会をさせるな」と命じていた。宮元中佐は、「同じアジアの日本とインドネシアが衝突するわけにはいかない」と逮捕を覚悟し独断で演説を許可、演壇でもスカルノの隣に座った。

「敗戦で連合国に卑屈になった人が多い中、宮元さんは毅然(きぜん)として命令を何度もはねのけ、相手側にも尊敬された。責任とは何かを教わった」

当時の部下(陸軍軍医中尉)だった香川県柔道連盟会長、手島晧一さん(七九)はこう振り返り、「私にとり人生の師」だと話す。

帰国後も、オランダからのインドネシア独立に協力し、同国の留学生支援に私財をなげうった。勤めには就かず、ひたすら日イ両国の関係強化に尽くし、スカルノ、スハルトの二代の大統領に、国賓待遇で招待されたこともある。

陸軍士官学校同期(第四十四期)で、七十年以上の親交があった瀬島龍三・元伊藤忠商事特別顧問(八八)は「同期三百五十人中、今も生きているのは四十人ぐらい。宮元君は刎頸(ふんけい)の友だった。真っすぐでしかも情に厚い人だったが」と惜しむ。

晩年は、持病のろく膜炎が悪化し、肺に水がたまって呼吸困難に陥った。それでも、「最期まで本当に立派で、家族には一言も苦しいとは言わなかった。やはり、軍人だったのだなと改めて思いました」と二女の毛塚薫子(かおり)さん(四七)。享年九十二歳。明治の男がまた逝(い)った。(阿比留瑠比)》

 私は生前の宮元氏に何度か取材し、当時のことを聞く機会があったのですが、宮元氏は日本の敗戦後、インドネシア占領のため進駐してきた英国軍によるインドネシア人鎮圧(発砲)の命令を少なくとも12回は拒否し、これまた英軍に分からないように日本軍の武器をインドネシア側に渡したそうです。取材中、宮元氏はずっとにこにこしていたのが印象的でした。

 阿羅健一氏の著書「ジャカルタ夜明け前 インドネシア独立に賭けた人たち」に収められた宮元氏のインタビューによると、日本軍は持っていた6万丁の武器のうち、3万7000丁の小銃を奪われたふりをしたり、捨てたふりをしたりなどしてインドネシア側に渡し、重機関銃、迫撃砲、装甲車なども与えたといいます。これがインドネシアの独立運動の大きな力になったことは間違いありません。

 宮元氏については、このほかにも何度か記事で取り上げているのですが、慰安婦問題をめぐっては、こんな記事を書いたこともあります。まあ、当然の話なのですが、現在の駐日米国大使のヒステリックな騒ぎっぷりと比べると、なんとも…。

 

慰安婦問題の論議 両国友好に影響なし インドネシア大使、元軍人らと面談 [ 1997年02月21日  東京朝刊  社会面 ]

 

日本とインドネシアとの友好を願う有志らが二十日、東京・五反田の同国大使館を訪れ、ウィスバー・ルイス駐日大使と非公式に面談し、慰安婦問題をめぐる論議が友好をそこなわぬよう要望した。

訪れたのは、終戦直後の昭和二十年九月、連合国軍に逮捕されるのを覚悟で、スカルノ前大統領に民衆への独立演説を許可した宮元静雄さん(八八)=元陸軍第十六軍参謀(中佐)=ら六人。日イ友好団体協議会会長の林田悠紀夫・参院議員(八一)も同席した。ルイス大使は「インドネシア政府は、慰安婦問題が重要なこととは全く考えていない。将来のことを前向きに考えていきたい」と答えた。》

 私は以前、慰安婦問題取材でインドネシアに出張したことがあり、慰安所があったとされる現場に行きましたが、その際に話しかけた現地のお年寄りも、この問題に何の関心も持っていませんでした。現地で一部のインドネシア人に働きかけて日本政府に賠償金を要求するようたきつけていたのは日本人弁護士でしたし、日本のテレビ局が「元慰安婦たちが立ち上がった」と報じた集会は、テレビ局が日当を払って集めた女性たちでした。

 慰安婦問題がこのように大問題となったのは、詐話師、吉田清治氏と朝日新聞の合作ですし、河野談話なんて発表したのも河野洋平衆院議長という日本人(たぶん)です。なんだか日本の敵は日本人なのだとつくづく感じています。

 話がそれかけましたが、インドネシアの独立戦争には、たくさんの残留日本兵が身を投じ、インドネシアで建国の英雄として祭られています。次に紹介するのは、中谷元防衛庁長官に同行して現地を訪ねた際の短い記事ですが、弊紙を除いてほとんどのメディアは取り上げなかったように記憶しています。

 

最前線からカリバタ墓地 [ 2001年09月18日  東京朝刊  国際面 ]


 この十一日、インドネシアを訪問中だった中谷元・防衛庁長官はジャカルタ市郊外にあるカリバタ英雄墓地で献花を行った。墓地には、先の大戦後にオランダ・イギリス両軍との間で戦った独立戦争で亡くなった兵士や政治家ら、国家に特に功績のあった七千三十八柱が眠る。

この中には、大戦後も同国に残って独立戦争に加わった日本人二十五人も含まれている。独立戦争には、日本人約二千人があえて日本に帰国せずに参加、うち数百人が戦死し、現地で高い評価を受けている。

「(日本人の)先祖が、他国の英雄として厚く祭られている。(彼らの)地域の人々の心に溶け込み、一緒に命懸けで行動した人道的精神に心から敬意を表した」

中谷長官は献花後、こう感想を述べた。まさにその同日に起きた米中枢同時テロが、今度は米国のために何ができるのかという問いを、われわれに突きつけているようだ。(阿比留瑠比)》

 米中枢同時テロが発生して間もないころの記事とあって、米国に入れ込んでいるのがちょっと恥ずかしいですが…。米国のテロとの戦いを真っ先に支持し、イラクにも自衛隊を派遣した日本という同盟国に対する最近の米国のやり方は腹に据えかねる点が多々ありますが、それを書き出すとまた長くなるので次の機会に譲ります。

 歴史の教科書は、この国の次代を担う若者に最低限の歴史的知識を身につけてもらうためにあるはずです。ただでさえゆとり教育の弊害で、教科書は薄くなり、盛り込める内容も減っているのです。教科書に慰安婦の話をおどろおどろしく書くぐらいなら、宮元氏とスカルノ氏のエピソードのような、わくわくする話を載せた方がいいと思うのですが…。サヨク教師が教科書を執筆しているような現状では、無理なのでしょうね。