今から7年ちょっと前に、当時はまだヒラ議員(当選2回)だった安倍首相に、愛読書に関してのインタビューをしたことがあります。現在はなくなりましたが、当時、産経の読書面には「私の一冊」というコーナーがあり、各部が持ち回りでそれぞれの分野の著名人の投稿を載せたり、相手に書いてもらう時間がないときにはインタビューをしたりして、心に残る本や、思い出の本を紹介してもらっていました。

 それで私は政治部員なので、当然のことながら政治家か省庁幹部あたりから人をみつくろうしかなく、白羽の矢を立てて依頼したのがまず、安倍氏でした(このほか、中川昭一・現政調会長らにもこのコーナーへの登場をお願いしました)。事務所を通してインタビューを申し込んだところ、快く受けてくれたのですが、無役だったので、時間があったのかもしれませんね。

 安倍氏はこのインタビューの約2か月後に、森内閣の官房副長官となり、小泉内閣の官房副長官を経て自民党幹事長に抜擢され、幹事長代理、官房長官と政府・与党の枢要な地位を歩き続けて首相の座を射止めました。最初の役職である副長官に就いてから、首相になるまで6年と3カ月ちょっとしか経っていません。いかにスピード出世だったかがわかります。

 それで、以下の記事が、安倍氏が語った内容を私がまとめたものです。自分のことを正直に「ノホホンと育った方」だとあっさり語るなど、安倍氏の飾らない人柄も表れているように思います。それと、今回この記事を紹介する気になったのは、現在、参院選に向けて熾烈な争いを闘っている民主党の小沢一郎代表の名前がちょっと出てくるからです。まあ、なにはともあれ…。
  
 《【私の一冊】衆院議員 安倍晋三 『沈黙』 選択する判断の厳しさ実感 [ 2000年05月15日  東京朝刊  読書面 ] (遠藤周作著、新潮文庫他) 

 私立成蹊高校三年の春休みに読んだのが、遠藤周作氏の『沈黙』だった。私はわりとノホホンと育った方だったし、どちらかというと物事をそう突き詰めて考えるタイプではなかった。そういう中で手にしたこの本は、宗教的なテーマなのに読みやすく、非常に大きな衝撃を受けた。それまでの私の読書傾向は、松本清張氏や横溝正史氏らの推理小説などが中心だった。遠藤氏の作品を読んだのも、最初はユーモラスな「狐狸庵先生シリーズ」がきっかけだった。

 

ところが、島原の乱鎮圧後のキリシタン弾圧と、日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴの苦悩を描いた『沈黙』は、人間の極めてストイックな生き方を描いていた。ロドリゴは、拷問に耐え、殉教していく日本人キリシタンたちを救うために、踏み絵を踏み、信仰を捨てる選択をする。そういう厳しい判断を強いられる経験は私にはなかったから、自分だったらどうしたかと考えさせられた。

 

やはり信仰につまずいた男を描く『死海のほとり』も読んだが、遠藤氏は、弱さを持った人に対する視点が大変優しい。

 

それから、成蹊大、社会人へと進み、読書範囲は歴史小説へと発展していった。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』や『世に棲む日日』を読み、私自身が同じ長州人であることから、吉田松陰先生の生き方、指導者としての傑出した人格にひかれた。松陰先生もある意味で非常にストイックで、打ち首となることで「神」に近い存在になった。松陰先生の死後、門下の松下村塾生らが明治維新を完成させたが、キリストの十二使徒も、師の死後に熱心な布教を開始しており、何か似ている気がする。

 

神に仕えるロドリゴにとって、仲間のキリシタンを助けることは世俗のことに過ぎない。しかし、彼は結局は世俗を優先し、現実の世界でだれかを救うため、今までの人生を否定することまでした。そしてロドリゴの境遇とは比べようもないが、私も神戸製鋼所でのサラリーマン生活をやめて父(故安倍晋太郎元外相)の秘書になったとき、何かを選択するとは何かを捨てることだと実感した。

 

こうした本を通じて思ったのは、一つの理念、ビジョンを持つ政治家になりたいということだった。しかし、思想家ではない政治家に求められるのは、理念や理想をあくまで追求することではなく、現実の世界で結果を出すことだ。そういう大きな判断を政治家はしていかなくてはいけない。

 

先日、自由党の小沢一郎党首が「理念」を主張し連立を離脱したが、理念で生きた方がいいか「現実」に生きた方がいいかは、結果を見なければ分からない。(あべ・しんぞう)》

 私の記憶に間違いがなければ、インタビュー後のオフレコ部分で、安倍氏は「僕は、(連立を離脱した)小沢氏は間違っていると思う」と話していました。もう時効だと思うし、いまさら隠さなければならないような話でもないでしょうから、あえて書きましたが。

 安倍氏の口からは、この記事の後ろ2段落に出てくるのと似た言葉を、その後も何度か聞きました。これも随分前のことですが、話題がたまたま漫画家の小林よしのり氏の件になった際には、安倍氏は小林氏の考え方に理解を示しつつも「彼は思想家だよね。でも、政治家は現実に向き合わなければいけないから」と言っていました。

 また、小泉前首相による郵政解散の際、政治信条を共有する安倍氏の同志たちが造反組となり、翻意を促す安倍氏の説得にどうしても従わなかったときには、安倍氏はこう語りました。

 「彼らは間違っている。自分のやりたいことを実現するには、権力の近くにいなければいけない」

 こうした安倍氏の考え方がいいのか悪いのかだとか、正しいのか間違っているのかという話ではなくて、この人はこういう発想をし、それを実践してきたのだろうと思います。そして、安倍氏が7年前、小沢氏について「間違っている」と言ったのも、いくら理念を唱えても、政権を離れたら何も政策を実現できないということを言っていたのだろうと考えるのです。

 私は、安倍氏は心情的にはものすごく素直で真っ直ぐな人な人だと思っていますが、同時に政治手法は直情径行型ではなく、とても現実主義的な人だとも考えています。で、本日のエントリで長々と思い出話のようなことを書いたのは、参院選をめぐって安倍氏の責任論が取りざたされているからです。

 いま、永田町で言われているのはまず、年金問題での大逆風の中、自民党が過半数議席維持に必要な51議席を確保するのはとても無理だということです。それはもう、党内で織り込み済みの共通認識なので、そこに届かなくても責任論は高まらないでしょうが、問題は議席が40台半ばかそれ以下となった場合です。

 9年前の7月、当時の橋本龍太郎元首相は、参院選の獲得議席が44にとどまった結果、退陣しました。だから、一つの目安として、今度の参院選の議席が44以下なら、安倍退陣論が強まるだろうと言われています。もっともらしい理屈ではありますし、永田町の相場感ではありますが…。

 ただ、その場合でも、安倍氏が退陣すれば参院の議席が増えるわけでも何でもないのです。安倍氏が責任を取って辞めたとしても、後任の首相が参院での与野党逆転状況に苦労するのは何も変わりません。そしてそこで思い出すのが、ここで書いてきたような安倍氏の考え方という要因なのです。

 安倍氏が「地位に恋々とするタイプではない」(昭恵夫人)というのは本当だと思いますが、首相という地位にあるからこそ実現可能な諸政策を、参院選で負けたからといって簡単に放り出すかどうか。今後の流れ次第では、まだ衆参同日選もありえますし、参院選後に衆院解散ということだって想定されます。政界再編に向けた動きもあるかもしれません。

 うーん。当たり前すぎる結論ですが、そのときになってみなければ分からないなと思います。いまはそれしか言えません。小沢氏の方も、本当に彼に政策や理念があるのなら、その実現のために7年間の野党暮らしに終止符を打ちたいでしょうし。いずれにしても、暑い暑い夏本番が近づいてきました。