今朝の産経新聞1面には「インドに4000億円借款 関係強化、中国牽制狙う」というトップ記事の下に、小さく「パール判事の長男と面会へ」というベタ記事が掲載されていました。記事の中身は《安倍晋三首相がインド訪問中、極東国際軍事裁判(東京裁判)で判事を務めた故パール判事の長男と会うことが13日固まった。パール判事は、戦勝国が敗戦国指導者を裁くことに疑問を提起、判事の中で唯一被告人全員の無罪を主張した。靖国神社には顕彰碑が建立されている。首相はインド独立運動の指導者、故チャンドラ・ボース氏の子孫とも会談する。》というものでした。

 ふーん。なるほど。この「長男」とは、私がかつて握手してもらったプロサント・パール氏のことかな(※昨年7月12日のエントリ「朝日新聞がパール判事について触れなかったこと」を参照してください)。パール氏については、森喜朗元首相も小泉純一郎前首相もインド訪問時に名前を挙げていましたが、日本の首相が息子さんと直接会って話をするのは珍しいのではないでしょうか。実は私は、平成12年8月の森氏インド訪問、17年5月の小泉氏インド訪問の両方に同行記者としてついて行ったのですが、そのときにもそんな記憶はありません。

 今回の会談について、時事通信は《パール氏の遺族との懇談は、A級戦犯を「アジアや世界に災難をもたらした元凶」(2006年8月15日の中国外務省声明)と非難する中国などを刺激する可能性もある》と先回りして書いています。さて、安倍首相はパール判事についてどんな言葉で語るのでしょうか。ああ、どうせなら、今度の安倍首相インド訪問にもついて行って直接取材したいところですが、もう官邸担当の後輩記者が行くことに決まっているので残念です。

 森氏と小泉氏のインド訪問時のパール判事についての言及に関しては、当時、私は短い記事にしました。本当はもっと大きく詳細に取り上げたかったのですが、他紙はほとんど記事にしていなかったので、載っただけマシかと。以下の文がそれです。

 《インド訪問中の森喜朗首相は、24日(日本時間同日)にニューデリー市内の国際会議所で行った政策演説で、先の大戦で日本とともに戦った独立の志士、チャンドラ・ボースや極東国際軍事裁判(東京裁判)で日本無罪論を展開したパール判事らの存在に言及した。日本に関係が深く、〝東京裁判〟とは異なる歴史認識を代表した二人を取り上げることで、独自のアジア外交を展開したいという首相の思いとともに、「親日国インド」への親近感を表明したかったようだ》(12年8月25日付)

 《小泉純一郎首相は28日深夜にインド入りし、29日午後、ニューデリー市内で開かれたインド経済3団体との昼食会で演説した。首相は「東京裁判でのパール判事の真摯な姿勢や、ネール首相から贈られた象は、両国の友好の象徴として今日でも多くの日本人の心に刻まれている」と述べた。パール判事は極東国際軍事裁判(東京裁判)で連合国が一方的に裁く裁判のあり方を批判して日本無罪論を展開した。インド初代首相のネールは、占領下の東京・上野動物園にまな娘の名前をつけたインド象「インディラ」を贈っている。こうしたエピソードに触れながら首相は親近感を込めて「アジアにはインドという日本の友がいる」と強調した。》(17年4月30日付)

 この小泉氏の「インドという日本の友がいる」という言葉は、当時、けっこう重たいなあと感じたのを覚えています。あのころ、日中関係は冷え切っていて、それを快く思わないメディアがまるで日本が世界の孤児になるかのような書きぶりをしていましたから。日本の首相のインド訪問は、森氏によって再会されるまで10年間途絶えていましたから、森、小泉、安倍と3代続くのは、とてもよいことだと思います。

 話をパール判事に戻すと、先日、夕刊当番の際に会社のロッカーを整理していたところ、「パール博士のことば 東京裁判後、来日されたときの挿話」(田中正明著)という40ページほどの小冊子が出てきました。それを改めて読み返していて、よく知られているエピソードですが、やっぱり何度読んでも新たな感慨を覚えるなと思った部分がいくつかありました。ちょっと引用します。昭和27年の話です。

 《11月5日、博士は原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた。その碑に刻まれた文字に目を止められ通訳のナイル君に何と書いてあるかと聴かれた。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」…博士は2度3度確かめた。その意味を理解するにつれ、博士の表情は厳しくなった。
 「この『過ちは繰り返さぬ』という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っているのは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして『二度と再びこの過ちは犯さぬ』というなら肯ける。
 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のため蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」
 このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である浜井広島市長とパール博士の対談にまで発展した。
 このあと博士はわたくしに「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」と嘆かれた。そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害より甚大だ。」と慨嘆された。》

 《11月6日、博士は広島高裁における歓迎レセプションに臨まれて、「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のように述べられた。
 「1950年のイギリスの国際事情調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いている。ニュルンベルクにおいては、裁判が終わって3ヶ月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。しかるに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と判定し、わたくし1人が無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。」
 このように述べた後、博士はいちだんと語気を強めて、
 「要するに彼ら(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いない。」》

 パール判事については、インドのシン首相も昨年12月14日に日本の国会で行った演説で「1952年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています」などと触れていましたね。「今日」だけでなく、これからもずっと、日本人が記憶にとどめておくべき人物だろうと思います。パール氏は、日本のすべてを褒め称えたり、美化したりしていたわけではありません。パール氏が日本に厳しい目も向けながら、それでも被告全員無罪の意見書を出したことの意味は小さくないと思うのです。

 ※追記 きょう夕方の安倍首相のぶらさがりインタビューで、パール判事の息子さんとの面会に関するやりとりがありましたので、紹介します。

 記者 パール判事の長男と会うという一部報道があるが、事実関係はどうか、どういう会談を期待するか

 安倍首相 インドを訪問した際、コルカタを訪問する予定です。コルカタは大変親日的な地域です。ぜひ私も一度訪れてみたいと思っています。その際、パール判事のご子息の表敬を受ける予定で調整中です。パール判事はご承知のように日本とゆかりのある方です。お父様のお話などをうかがえることを楽しみにしています。

 記者 今回の会談をめぐっては、A級戦犯を非難しているアジア諸国などを刺激するとの見方があるが

 安倍首相 いや、そんなことにはならないと思います。

 …たったいま、NHKニュースで安倍首相とパール判事の息子さんの面会について報じていました。パール氏の肖像写真も登場しました。こういう報道の積み重ねで、パール氏に対する国民の関心が高まるといいな、と感じました。うーん、やっぱりインドに同行して現場で取材したいなあ。