沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定問題の行方が気になる昨今ですが、本日は同じ検定つながりで少し古い話を書きたいと思います。というのは、さきほど昔のメモ類を整理していて、2001年3月23日に国会内で開かれた社民党の扶桑社教科書糾弾集会のメモが出てきたからです。この集会での土井たか子党首(当時)の発言は非常に私に強い印象を残していて、昨年6月23日のエントリ「土井たか子という『疑惑』」の中でも触れているのですが、そのときは自分のメモが見つからなかったので記憶している範囲だけで書いていたのです。

 集会には14人の社民党議員のほか、扶桑社の教科書の批判運動を行っているプロ市民の人たちが参加していました。このときの政府はというと、官房長官が現在の福田首相で、文部科学相が現在の町村官房長官でした。6年と8カ月前というと、移り変わりの早い政界では、もう遠い過去のような気がしますが。ともあれ、土井氏の発言は次のようなものでした。

 《土井氏 早くこういう機会(集会のこと)を持ちたいと思っていた。みんなの考えを町村文部科学相、森首相のところに持っていく。というより、福田官房長官のところに申し入れに行くことにする。
 2002年から使用される中学教科書の検定も最終段階。その中で、新しい歴史教科書をつくる会が歴史、公民の教科書を検定しているが、中身が問題だ。報道によれば、これまでの教科書とはまるで違う。かつての日本のアジア侵略戦争と植民地支配を正当化する中身になっているようだ。
 文科省の方は検定するわけだが、検定ででてきたいろんな要求さえのめばパスしていいのかというのはわけが違う。言論の自由、出版の自由はあるが、教科書となるとわけが違うんじゃないか。教科書は周到な学問的検討がなされなくてはならないし、教育的配慮に基づいて書かれるべきだ
 検定のありようということに対して、従来、社民党は検定はいただけないという立場をとっているが、これはもう一度再検討することに、今回の経過を通じてなると思う
 検定の過程が一切秘密というのが解せない。問題化している中身も公然と出していることではない。修正要求したところを全部直しても、なおかつ歴史教科書となると、考え方が、歴史観が問題になるんじゃないか。文科省が検定に合格させれば、それに対する責任が生じる。そういう歴史観を認めたとなる》

 …まず、教科書の中身を報道でしか知らないのに、一方的に決めつける姿勢にも疑問を感じましたが、一応、世間では憲法学者で通っている人が、「教科書には言論、出版の自由はない」と言っていることにもっと呆れました。ああ、やっぱりこの人たちのいう「護憲」とは、自分たちの思想、主張に都合がいいからそうしているだけなのだなと改めて感じた次第です。教育的配慮って、南京事件の犠牲者を無理矢理水増ししたり、精神的に発達過程にある中学生に慰安婦問題を教えたりするのが一体何の配慮なのか。

 また、これまでは検定制度に反対してきたけど、今回は検定が厳しい方が都合がいいから立場を見直すとも言っています。ご都合主義そのものですね。こういう人たちに、いくら道理を説き、事実関係を説明しても「そんなの関係ない」と言われてしまうのだろうなと思います。最初から正邪善悪はイデオロギー的に決まっていて、それに当てはまるかどうかだけが判断基準なのでしょうから。そして、沖縄戦の集団自決をめぐる政治の現状は、この土井氏らの姿をとても笑えるような状況にないようです。

 現在、文科省の教科書検定審議会の日本史小委員会は、11万人が参加したと報じられた沖縄県民集会をきっかけにわき起こった検定見直しの圧力に当惑していることと思います。今年3月に検定を実施して以降、新たな学問的検証や新事実の発見があったわけでも何でもないのに、どうして検定結果を変えられるのかと。学問的良心に忠実であろうとすれば、3月の決定を年内に覆すようなことができるわけがありません。

 でも、政治やマスメディアは、実態のないそのときの「空気」とやらに流され、事実がどうであるか、何が正しいかはあまり重視しない傾向があるようです。みんながそう言っているんだから、とにかく従えよ、という様相です。あえてこの流れに逆らう人は、「空気が読めない」と嘲笑され、排除されかねません。福田首相や渡海文科相にはここで踏ん張ってもらいたいところですが、無理だろうなあ。というか、この二人は率先して流されているような気もしますね…。