引き続き沖縄で取材をしています。きょうは、沖縄県公文書館でメモしてきた、公文書における渡嘉敷島の集団自決の描写を紹介します。ノーベル賞作家の大江健三郎氏や、文部科学省の教科書検定を厳しく批判している沖縄の地元紙などは渡嘉敷島の守備隊長だった赤松嘉次氏による「軍命令」「強制」に仕立てたいようですが、公文書はこの問題をどう記述しているでしょうか。

 まず、琉球政府と沖縄県教育委員会が編集・発行した「沖縄県史」第10巻にある元渡嘉敷郵便局長、徳平秀雄氏の手記です。ここで出てくる「防衛隊」とは、在郷軍人会が発展した地域住民の防衛組織で、正規の日本軍ではありません。

 《(前略)艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を舞うていました。そこへ防衛隊が表れ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当たっていました。
 そこでどうするか。村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生(※元渡嘉敷小学校校長)に、現校長、防衛隊の何人か、それに私です。
 敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人たちもいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。(中略)
 そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。》

 …村の有力者たちが集団自決を決めた様子が証言されていますね。次に、沖縄県警察本部が発行した「沖縄県警察史」第2巻に掲載されている、渡嘉敷駐在所勤務だった安里喜順巡査の手記です。

 《(前略)住民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた。空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、部落を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員たちが、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は、住民を玉砕させる為にそこまで連れてきたのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで、「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡を取ってからその返事を待って、それからでも遅くはないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民友軍の総攻撃が始まったものと勘違いし、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。(中略)
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きてください」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった》

 …こちらにも、村の主だった人たちが集まって自決を決めたくだりがあります。もちろん、軍命令があろうとなかろうと集団自決の悲惨さに変わりはありませんし、こういうことが二度とあってはならないと思います。でも、どうして沖縄県の公文書にもはっきりとこう書いているのに、教科書に限って軍命令・強制だと強調しなければならないのか私には理解できません。

 今回の訪沖で取材した一人は、集団自決の前後の島の様子について「高台や松の木などに上ると、特攻隊の飛行機が米艦船に突っ込み炎上する姿が何度も見えた。当然、島民もそれを見ただろう」と話していました。周囲の海は米艦船に埋め尽くされ、逃げ場のない極限状況での出来事だったのだということ、戦争の容赦ない現実を、私は今回の取材を通じて改めて感じました。
 
 9月29日の県民集会では、高校生が教科書検定を批判して「おじい、おばあがウソを言っているというのか」と述べるシーンが繰り返しテレビで流れましたが、この公文書の証言だって「おじい」たちの偽らざる体験記ではないのでしょうか。集団自決における軍命令や強制について「必ずしもあったと明言できない」という検定のスタンスを批判するのであれば、公文書の記述もまた否定しなければ理屈に合わない気がします。

 ちょっと硬い話になったので、お約束で本日の私の昼食の写真を投稿します。宜野湾市の路地裏のような場所にあった沖縄そばの専門店で食べた「ソーキそば」(740円)です。麺はもちもちしこしこ、透明なスープは旨味が強いのにあっさりした味わいでなかなかでした。薄焼き卵入りというのが珍しいですね。