きょうは夏休みをとって自宅にいます。それにしても連日、テレビも新聞も北京五輪一色ですね。実は私は、スポーツ観戦にあまり関心がない(格闘技は好き)方なので、子供が楽しみにしている番組が五輪特別番組で吹っ飛ぶことに迷惑しています。まあ、産経自体、連日大々的に五輪報道をしているわけで、もとより文句を言えた義理ではありませんが。

 

 さてその産経の昨日の紙面では、五輪に関していくつか気になる記事がありました。例えば、2面の「本紙記者拘束 見解食い違い 中国『身分証提示せず』」という記事には、私の同期の野口東秀記者が新彊ウイグル自治区で公安当局に不当拘束されたことについて、中国外務省が「警官が身分証提示を求めたのに対し、中国語が分からない」として提示しなかったため連行したと主張し、いきなり身柄拘束されたという野口記者の記事に不満を表明したことを伝えています。

 

 でもねえ、だれが中国のこんな言い分を信じるでしょうか。因みに、野口記者は中国の大学を卒業しており、入社当時から中国語は自在でした。中国製ギョーザ中毒事件の件でもそうですが、中国外務省の報道発表など、私は参考にはしますが、とても信じる気にはなりません(中国と裏で手を握っている様子の現福田政権の発表についても、眉につばをつけていますが)。こんな見え透いたことを言って、世の中に通用すると思う中国の拙劣さ、自己都合だけを優先させて他者の目にどう映るかが分からない愚かしさにはため息が出ます。

 

 また、昨日の紙面にはこのほか、3面に外国メディアが「共産党支配の現実と五輪前の約束の矛盾が露呈するのに1週間もかからなかった」(英紙フィナンシャル・タイムズ)などと報じていることや、開会式で56人の子供たちが各民族衣装を着て入場するシーンについて中国側は「中国の56民族の子供たち」としていたのが、実は多くは漢族の子供だったことなども載っていました。何より、公正さや厳密さが求められる五輪の場で、こういう誤魔化しや「やらせ」が堂々と展開されるところに、中国という国の異質性や、また、勘違い、何も分かっていない姿が浮き上がって見えます。

 

 そして今朝の紙面はと見ると、1面トップで女子マラソンに関連して「冷めた『文明的応援』」という記事を載せ、公安に許可をとらないと安心して応援できないような中国流の応援風景を詳しく報じています。つまるところ、中国は、「演出」は上手であっても、何が本質で何が大事なことであるのかは理解していないのではないかという気がします。それだけ独自のルールと世界観の中で生きているのだろうと。

 

 とまあ、新聞を読みながらそんなことを考えていて、もう20年以上前の学生時代に読んだ竹山道雄氏の文章を思い出し、本棚をがさごそ漁って探し当てました。講談社学術文庫「尼僧の手紙」に収められている紀行文「北京日記」がそれでした。今から約70年前の昭和14年に書かれたものですが、改めて読みかえすと、今でもそのまま通用するような部分がけっこうあると思いました。以前も少し触れたことがありますが、竹山氏の評論は、私は非常に好きで、「昭和の精神史」などはときどき読み返していますが、これは本当に久しぶりでした。それではちょっと引用します。

 

 《支那人!なんという壮大な、限りなき、神秘的な、謎のような人間だろう!なんという均衡なき調和、架空なる現実だろう!考えうる限りの威厳と優美さと、考えうる限りの汚辱と褻涜と!神のごとき天子と蟻のごとき民衆と!――この大陸ではすべてがあまりに無際限である故に、人間が自然の中に己のあるべき地位を定めるのが難しいのである。人間が人間である故にその存在の尊厳をもつ、そういうことはここでは考えられないことである》

 

 《支那人はリアリストではない!かく言えば人は笑うであろう。しかし疑う者は支那の現実を見よ。真のリアリストならばかかる現実はつくらぬ筈である。ここに実現されているものはむしろ、悪の華咲く人工楽園か、羊のごとく蟻のごとき従順なる奴隷の群か、あるいは破壊的なエレメントであり、偉大なものはすべて観念か芸術であって、日本人に於けるような、堅実な周到な計画的な、夢なき実質のみの、能率の生活は痕方も見られない》

 

 《雑踏する支那人の群の間を歩きながら、僕はよく、ファーブルの『昆虫記』で読んだ「本能の慧さと本能の愚かさ」という章を想いだした。――何とかという種の蜂は、その餌食の昆虫をただちに殺さないで、その頸の一部を開いて、そこの神経節を咬んでかるい傷をつける。するとその犠牲は麻痺した仮死の状態のまま生きている。(中略)かかるおどろくべき知識、おそるべき手際を本能は持っているのである。――しかるに一方この蜂は呆れるほど愚かである。すなわち、一定の機構以外の外的事情に出会うと、この大手術家は全然無力に堕してしまう。たとえば、この蜂が、その犠牲を運ぶときはその触覚を咬えて引きずって行くのであるが、もし人がその仮死せしめられた昆虫の触角を切りとってしまうと、蜂はもはやいかにしても之を運ぶすべを知らない。(中略)本能は、その働くべき外界の所与の条件にちょっとでも狂いがあると、外界をいかんとも処理できないのである》

 

 《「すべては量の問題にすぎない」と僕の頭はさっきから同じところを旋っていた。「…人間は万物の尺度だ、という、その尺度がここには欠けているのだ。絶対の立場から見れば、人間だって蟻だって同じことだ。(中略)…一体この量感とは何だろう?どこからこんなものを我々は与えられたのであろう?…体温が三四度高まると、我々の理性は狂ってしまい、この世界のこの秩序を失ってしまうのだが、我々のもっている量感というもの、均整感というものも、いつ狂うか分からないではないか。あの遠くの正面に見える、夕方の光の中に溺れている巨大な正陽門と城壁と、それからその下に集う蟻のような群衆…ああ、僕のもっている、この肉体の大きさを基準としたこの量感はここではあてはまらない」》

 

 …最後におまけとして、先日、中国・瀋陽空港で、間違って国内線のゲートに入ってしまい、そこから何とか抜け出して、日本に帰る国際線のゲートに入り直したときの航空券の写真を紹介します。お分かりのように、検印が二つ押してありますね。最初に「中でつながっているだろう」と安易に考えて国内線のゲートを通過しようとした際、係員は私のパスポートと航空券を穴が開くくらい見つめていたのですが、結局、厳重警戒下でも検問はこんなものだったようです。もちろん、最初に間違えて入ろうとした私が一番間抜けなのは重々自覚しているのですが。