16日付の産経新聞のコラム「日曜日に書く」欄で、中山前国土交通相と田母神前空幕長の発言とその波紋について愚考した「正攻法だけでは勝てない」という原稿(http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081116/stt0811160220000-n1.htm)を書いたところ、Kinny様から「阿比留記者の悲痛な『敗北宣言』と極東の憂鬱」というトラックバックをいただき、またそのコメント欄の中でstaro様からも重要なご指摘を受けました。そこで本日は、お二人が私(とその記事)について語られた内容について、私自身はどう受け止めているかを記そうと思います。コメント欄で返事を書くには、私にとって内容が重すぎ、かつ字数制限もあって言葉が尽くせないだろうと思ったからです。そんな個人的な「独白」など聞いても仕方がないと思われる方は、どうか飛ばしてください。

 

 まず、Kinny様は、「(国内の)ほぼ全マスコミが、旧態依然のエセリベ・フィルターを装着したまま、仕事を続けているため、フツウの政治家がフツウの主張を行っても、正しく国民に届かない、というわけなのだ」という現状認識を示した上で、「要するに、対内的な『したたかさ』とは、『マスコミ対策』なのだ」と指摘されています。

 

 そしてその上で、「小泉さんのように、ハートフルに、国民に届くよう、ゆっくりと簡単なことをブレずに繰り返し主張できる人でさえあれば、脳梅マスコミなんぞのために、本来しかるべき政策や発言を、ややこしく湖塗する必要などない」と論じ、朝日をはじめとするマスコミが批判の大合唱を繰り広げた小泉元首相の靖国参拝が、最後まで国民の支持を得ていた事例を引いておられます。

 

また、「明瞭で、断固たる正しい行動が、(国民に)評価されるようになっていった。いわゆる『特亜の反対』『エセリベの合唱』なぞ、本気で臍を決めた政治家の主張の前には、なんらの効力も持たないことが証明された瞬間だったであろう(なぜ世のエセコンは、あの意義を懸命に軽んじようとするのか?)」とも提起されています。

 

 …これは、私の記事が「ことを成すためには、ときには徹底した慎重さが求められるのだろう。時期を選ばなければ、たとえ『正論』であっても反対勢力を利するばかりということもある」と書き、保守派に「悪賢さ」と「現実的な対応」を望んでいることに対する「畢竟、それは既成マスコミ対策に過ぎず、真情と勇気をもった政治家が分かりやすく説き続ければ、国民に評価されるという前例があるではないか」というご批判であり、かつ「あなたの言っていることは言論に携わる者としては敗北宣言になるよ」という率直なご指摘でした。

 

 さらにKinny様は、「阿比留記者こそ、この件、ご再考あるべきではないか。勢いのない正気に、世を変えるチカラなぞない、ということを知るべきだ」「ひとくちに『現実』といっても、そうしたメディアの自己肥大化も現実なら、それらに打ち勝った小泉元首相の靖国参拝も現実だ。どうせ『現実にしたたかに対応』するなら、小生は、小泉元首相の歩まれた道こそが、率直でよいと思う」とのお考えを表明し、「このていどの道理こそ国内的に通用しないほど、おぞましき日本だろうか?」と締めくくられています。

 

 …私のコラムに関しては、賛同してくれる人もいるだろうし、逆に「それは違う」と考える人もたくさんいるだろうと予想していました。ですから、Kinny様のようなご指摘があることは半ば分かっていたはずなのですが、やはりこのトラックバックを読んで改めて悩んでいます。問題の本質は、国民(あるいは人間、あるいはマス)をどのような存在だととらえるのかという、その人の人間観、世界観にも直結する根本的な部分にあるようにも思え、かつそれに小泉元首相についてどう評価するかという観点もからみ、なかなか頭の整理がつかずにいます。あるいは、政治と言葉のあるべき関係、筋論から私のコラムは脇道にそれた内容であったかもしれませんが、しかし、こういうことも誰かが言わなければいけないのではないかとも僭越ながら考えました。

 

 例えば小泉氏の靖国参拝に関しては、私は一貫して支持していましたし、記事でもその意義について「『歴史カード』を手に譲歩を迫る中国と、歴史上の負い目からそれに従い続ける日本という、20年来固定化していた日中関係のあり方に『構造改革』をもたらした」と書いてきました。ただ同時に、6回目にしてようやく当初の公約だった8月15日の参拝を実行するに至るまでをずっと見続け、小泉氏が悩み、元旦に突然参拝するなど迷走し、当初は中国の反応を気に病み、やがて中国の意図と事情を見抜くまでの経緯を取材してきたため、かえって細部にこだわり、大きな全体像よりもそっちに目がいってしまう部分もあるのだろうと反省しています。小泉政権の5年5カ月のうち、私は3年半以上は官邸担当で比較的近くで取材していたこともあり、かえって見えにくくなっていることもあるように自覚しています。

 

 ただ、靖国でそうだったこと(国民の理解と支持を得て味方につけたこと)が、他の問題にも同様に当てはまるのかどうかは、確信が持てずにいます。私がコラムで書いたのは、主に歴史認識にかかわる問題ですが、小泉氏はご自身、あまり関心がなかったのでしょうが、この問題には手を出そうとはしませんでした。むしろ首相在任中は、公明党幹部からも「小泉さんは保守だとか、思想的な話は大嫌いだから」と言われていましたし。また、初訪朝の前後は、外交交渉上、やむを得ない部分もあったとはいえ、小泉氏は国民に一切情報を与えず、何のための国交正常化かもとうとう語らなかったと記憶しています。

 

 小泉氏の真骨頂は、郵政解散の折りに示されたといわれます。これは政治家も官僚もみんな言うことですが、解散後の記者会見での小泉氏は、鬼気迫るというかはっきりとオーラを身にまとっていました。私も会見場にいて、「郵政民営化の是非について国民のみなさんに聞きたい」と訴える異様な迫力に圧倒されたのをはっきりと覚えています。また同時に、「この会見は小泉さんしかできない」と強く感じたことも。郵政民営化という積年の本願を今こそ果たすのだ、このときのために今までの自分がいるのだという小泉氏の思いが噴出するような会見でしたが、これは心からそう信じることと、そう演じることとが一致するような人でないと不可能だという印象を受けました。

 

 この点に関連して、Kinny様のエントリへのコメントで、やせ我慢A様が「(Kinny様の)ご指摘はもっともですが、キャラクターの違いというか得意不得意があるように思います。安倍さんに小泉さんの真似は無理だったのでしょう。ならば、他の方法でいくしかなかったのかなと」と述べられたところ、それについてstaro氏が次のように指摘されました。

 

 「これは阿比留論法なんですね。はっきり言いましょう。小泉的手法ではなく、あれが政治家としての資質なんです。(中略)政治家の資質とは国民を魅了して、説得する能力です。ヒトラーもオバマも同じ政治家なんです。問題は政策を取捨する国民の民度です。阿比留さんの思考は何も生み出さない『退廃的思想』です。常に過去しか見ない。(中略)政治家としての資質がない安倍氏は自らの理念さえ捨て、マスコミとの軋轢を避けることで政権運営を維持しようとしました」

 

 …私も、それが「資質」の問題であることは同意します。また、「国民を魅了し、説得する能力」が、10年前とは比べられないぐらい、政治家に求められる時代になったとも思います。この点に関してはkinny様もstaro様に宛てた返事の中で「批判する意味で小泉さんをパフォーマンスだと言うのは、ほんとうに愚劣だと思うね。なぜなら、パフォーマンスとは、すなわち、これが彼の仕事なんだもの。政治家としての実力のことをパフォーマンスというのだ」と語られています。何も異論はありません。

 

ただ、資質の問題であればなおさら、小泉氏しかできないことではないかとも考えます。確かに、どこにどんな資質を持った人が埋もれているかは分かりませんが、現実問題として日本は首相公選制はとっていませんし、国会に議席を持つ有力議員の中から首相が選ばれざるをえません。、その中に「資質」を持つ人を見出すのは至難の業というか、そもそも現在はいないのではないかと思っています。

 

 あるいは、このように考えてしまうこと自体が、staro様のいう「退廃的思想」なのかもしれません。この点はさすがによく見抜かれたというか、私は常に自分を鼓舞したり、ニンジンを与えたりしていないと、すぐに退嬰的・退廃的・厭世的になりがちとなる「資質」を持っていることを自覚しています。おおよそ政治家には最も向かないタイプなのでしょう。

 

 しかし、「安倍氏がマスコミとの軋轢を避けることで政権運営を維持しようとした」という点は、全面的には承伏しかねます。これはKinny様も同様の視点を提供されていますが、「戦後レジーム」にどっぷり浸かっている代表的存在がマスコミであるのは事実だとしても、与野党問わず国会議員も、官僚組織もまたそうであるからです。安倍氏が考慮した対象にはマスコミもあったでしょうが、それだけでなく自民党内でも多数を占める村山・河野両談話支持派や、公明党という両談話の信仰者、また前例から踏み出すことを極端に嫌う官僚組織その他のことも大きかったはずで、全方位作戦をとるよりも個別に少しずつ崩していこうという考えであったはずです。その戦略・戦術事態が間違いであったということは一つの見方としては言えるでしょうが、マスコミ対策だけであったはずもまたないと考えます。

 

 いや、こうした細部への反論は無意味かもしれません。そうではなく、やはり国民をどうとらえ、民意をどうくみ上げるのかということ、また何が可能で何がそうではないかが問題の核心であって、話が少しずれたかもしれません。実は昨夜は、このKinny様とstaro様のご指摘が頭から離れず、床についてもあまり眠れませんでした。とても重要であると同時に、それを自分が咀嚼し、かつ同意なり反論なりできるのかどうかといろいろと考え、結局、いまだに結論は出ていませんが、とりあえず現時点で思っていることは伝えたいとこのエントリを書くことにしました。

 

 staro様はまた、「阿比留さんは田中真紀子の本質を例にとって、国民の愚かさを指摘しますが、国民は田中真紀子の人間性を信じていたわけではなく、言っていた内容、それが誹謗中傷でも『支持』したのです」「小泉を国民が支持したのは、田中派利権を壊す、土建屋利権を壊すことですね。靖国も中、韓の理不尽な内政干渉に反発したからですね。ところが阿比留さん的解釈になるとあれは扇動になるんです。そうではありませんね、国民は小泉がなにを言っているかを聞いています。民意がない扇動は支持されません」ともコメントされています。

 

 これについては、非常に書きにくいというか、私にとっては難しい問題なのです。さきほどの「退廃的思想」にももしかしたらつながるのかもしれませんが、私は国民を愚かだと指摘しているというよりも、民主主義というシステムへの不信感が、ときに吹きこぼれてコメントに出てしまうのかもしれないと考えています。ただ、私は他にとるべき政体があると思っているわけでもないので、単なる愚痴のような感想にすぎないのですが。また、これとは別の次元の話ですが、産経が田中氏の異様で奇矯な言動を指摘していたころ、読者その他から届いた抗議や購読取りやめの手紙、電話内容は、ヒロイン田中氏を「なぜいじめるんだ」「彼女が間違ったことを言うはずがない」といった個人崇拝のような色調が強かったのも事実です。これも議論の上では枝葉末節の類だとは分かっていますが。

 

 「国民」という点について書くと、私はときどきマスコミ人が自称するような「国民の代表」という意識はありません。そのような根拠不明な過剰な自意識は、私のような自信のない人間には持ちようがありません。ただ、私自身も当たり前のこととして国民の一人であり、それは常に意識しています。何度か書いてきたように、私は記者(会社員)である前に日本人であり、さらにそれ以前に人間なので、そもそも自分の記者としての社会的属性にそれほど価値や重きを置いていません(こういうとまたどなたかから叱られそうですが、記者になるために生まれてきたわけでも何でもありませんし)。ですから、仮に私が国民を批判したとしたならば、その刃は自分自身に対しても向けているつもりです。まあ、その批判自体が的外れであると指摘されればそれまでですし、自分がくだらない人間だからといって、みんな同じだなんて思うなと言われると返答に窮しますが。

 

 小泉氏の手法が「扇動」かどうかという点については、私はそのようなことを書いた記憶がないというかあいまいなのです。今どう考えるかと聞かれたら、「そういう部分もあるにはあったのだろうな」とは思いますが、別にstaro様が言われるように小泉政治を扇動だとして批判したり、否定したりしようという意図はありません。先にも書いた通り、私は小泉氏の靖国参拝を支持応援叱咤激励してきた事実もあります。

 

 いずれにしても、私が紙面やブログで書いていることは「今はそう思える」ということであり、がちんがちんに固まっているわけではありません。でも、そのときにそう思ったことを書くしかないわけです。頭の整理ができていない問題は、放っておくと頭の片隅で勝手に熟成されてある日結論が出るということもあるので、当面はそうさせてください。今朝は夕刊当番だったのですが、現場から処理すべき原稿がいまだに一本も届かないという珍しい日だったので、長々と何の結論もない由なし事を書き連ねました。こんな駄文にお付き合いいただいた方に感謝します。

 

 最後になりますが、貴重なご意見をいただいたKinny様、staro様に心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。