今朝、通勤途上、手直しを任されている後輩記者の原稿をどういじくろうか、どんな視点を入れようかなどと歩きながらぼんやり考えていたところ、いつものごとく頭の中は千々に乱れ、だんだん衆院選後の日本はどうなるだろうかという漠然とした方向に思考が向かいました。

 

じゃあ、そのとき、具体的な何かを深く考え、検討していたかというとそんなことはなく、脳裏にはただ写真で見た終戦直後の「焼け跡」のイメージが浮かんでいただけで、そこから思考はさらに混沌としながら飛躍し、いきなり学生時代に愛読した坂口安吾の「堕落論」を連想しました。そして私は、何がそうなのかは自分でも分からないまま「そりゃそうだよなあ」と一人つぶやきながら歩く危ない中年のおっさんとなったのでした。

 

安吾については、2008年3月15日のエントリ「特攻隊を賛美した坂口安吾とGHQ検閲と朝日コラム」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/512524/)でも書いたことがあるので、一部重複しますが、というわけで本日は、後輩の原稿はちょっと放っておいて「堕落論」「続堕落論」から現在の私の心境というか、混乱した発想に近い部分を抜き出してお茶を濁したいと思います。

 

 《人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。このこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(中略)自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなど愚にもつかない物である》(堕落論)

 

 《生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるだろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ》(続堕落論)

 

 …人間は堕ち、義士も聖女も堕ちるわけですから、私もまた堕ち、このブログも堕ち、ついでに原稿が落ちても何の不思議もありませんね。これは人間のせつない実相がそうさせるのであって、ある意味必然であります。

 

 さて、少し早いけど昼飯でも食べにいこうかな、と。食べるものは昨日から決めていたことだし。