えー前回のエントリでは分不相応にもプラトンの名著「ゴルギアス」(加来彰俊著)を引用したわけですが、実はこの本の巻末にある「解説」は、私がこのブログのコメント欄で何100回ものご指摘を受け、かつ私自身、幾度か取り上げてきたマスコミの問題への言及があります。この本の中でプラトンは、ソクラテスの口を通じて立身栄達の術とされ、もてはやされている「弁論術」(とその背景にある実利主義的人生観)を徹底的に批判しています。

 

 で、その解説の中で訳者は次のように書いています(太字は私がつけたものです)。この本の第一刷は1967年6月となっていますから、解説もその際に書かれたものかもしれません。あくまで訳者の私見ではあるのでしょうが…。

 

 《※この点を現代のわれわれの問題にもうすこし近づけていえば、弁論術はさしずめ今日のいわゆるマス・コミュニケーションの術に相当するだろう。そして、大量消費と生活享受が合い言葉となっている現代社会で、マス・コミュニケーションの種々のメディウムが行っている仕事の大半は、ちょうど弁論術の仕事がそうであったと言われるように「迎合」にあるといって過言ではないだろう》

 

 さてそこで、今度は前々回の読書エントリで紹介した清水義範氏の作品に登場してもらいます。彼のごく短い短編に「最低の国家」というものがあるのですが、例によってつい連想して思い出してしまったもので。この作品は、評論家と思われる人物の一人語り(エッセイ)の形をとっており、とにかく日本の対外的振る舞い、経済援助を含めた外交、マナー、センスなど片っ端からあげつらい、「日本は最低の国家である」と批判しています。そして、こう締めくくられます。

 

 《ああやだやだ。日本は最低の国家である。

 だからもちろん、日本の政治家は最低である。

 日本のマスコミも最低である。

 そして、今、この文章を書いている私も含めて、日本の言論人も最低である。

 えっ?

 そうでしょう。もちろん、そういうことになりますわねぇ。

 そりゃそうでしょう。日本がいかに最低の国かということを書きまくる評論家が、そういうことを書くから自分だけは別だなんて、そんな虫のいい話は通りませんわねぇ。少なくとも私は、そんな厚顔無恥なことはしませんよ。

 国際的には我が日本は、手のうちようがないほどに三流の国なのです。政治も経済も文化の面でも、なっちゃいないのです。

 それを指摘されると日本人は、なんだかマゾヒスティックに快感を覚えてしまうのである。もともとあまり自信のない方面のことだけに、けなされてかえってスッキリするのである。

 だから、その専門家のような、日本けなし評論家というのが、伝統的に存在するのである。ああいう人々は、なぜ日本をけなすかというと、とどのつまりは、けなしたほうがウケるからである

 そんな言論人が高級なわけないですよね。

 いかにも最低の国家にふさわしい、最低の言論人です。

 ここのところの論旨、読み違えないでもらいたい。私は別に、日本のことをよく書く言論人が高級だと言っているわけではない。

 ただ、日本は最低の国である。

 そして、そういうことを盛んに書く評論家も、もちろん最低の言論人である。

 だから、私も国際的に最低の男である、と。

 そういうことになるではないか。》

 

 …私が、自分自身のありようも含めてマスコミの現状・問題点、また構造的な限界をどう見ているかについては、最近では6月30日のエントリ「重村早大教授の近著と『ステレオタイプ』とは何か」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1109373/)や7月14日の「純宣伝PR・『民主党解剖』が17日発売となります」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1130948/)などで識者のコメントや私の感想を通じ表明しています。ただ、なかなか意図が伝わらないというか理解してもらえないようなので、今回のエントリを書いてみました。

 

 しかしまあ、何せ私自身、迎合的な「最低の国家の最低の記者」に過ぎず、いかんともし難いものがあります。そういうことになるではないか、と。鳩山政権かあ、きっと批判や懸念を書きまくることになるのだろうな…。あっ、別に私自身、本心から日本を最低の国家だと考えているわけでは全くありませんから誤解なきようお願いします。