自民党総裁選についてぼんやり考えていて、ふと思い出したので、本日は、経済人類学者で小泉純一郎元首相の大学時代の同級生であり、新生党、自民党などで衆院議員も務めた栗本慎一郎氏の著書『自民党の研究 あなたも、この「集団」から逃れられない』(光文社、1999年10月刊)を紹介します。たぶん、もう書店では手に入らない本だろうと思うので。

 

     

 

 実は私は大学時代、この人の本をけっこう読んでいました。ベストセラーになった「パンツをはいたサル」はもちろん、「法・社会・習俗」だとか「幻想としての経済」だとか、今では大部分、忘れてしまいましたが、文化人類学的視点で「蕩尽」について論じられているところなど、まだらにはっきりと覚えています。また、この人の本を通じてマイケル・ポランニーの著書「暗黙知の次元」(だったかな?)などにも背伸びをして手を出し、散財もしました。

 

 衆院議員時代には会ったことはないのですが、大学時代に一度、講演会を聞きに行き、ミーハーにも著書サイン会に並んだことがありました。で、私の名前「阿比留瑠比」と書いてもらったのですが、彼がその際、「ふーん、あびるるいさんか」と一度で滞らずに読んだのに驚いたことは、四半世紀もたつ今でも鮮明に記憶しています。我が名前ながらちょっと変なもので、最初から正しく読める人は実際珍しいのです。

 

 余談はここまでとして、自民党議員を5年間務めた栗本氏は10年前の著書「自民党の研究」の「まえがき」で、こう喝破しています。

 

 《自民党は、まだ近代社会になる以前の日本の亡霊の姿でもあり、古き良き伝統の姿でもある。(中略)しかし、そうやって戦後日本を「支配」してきたこの政党は、ようやくにして、このままでは次の世紀を迎えられるかどうかの瀬戸際に立つことになった。いいかえれば、ようやくにして、日本は古くからの集団重視主義によって生きていけるかどうかの瀬戸際に立つことになったのである。(中略)これから一度または二度の選挙を経て分裂していくことにも構造的根拠はある。そうして初めて、日本は社会システムとしての近代にはいっていくのである。》

 

 栗本氏は、自民党は日本そのものだったとして、序章の「日本人は、自民党のなかに自分のいやな部分を見ている」ではこう書いています。さて、どうなんでしょうね。

 

 《結局、われわれが自民党を嫌ったり批判したりしているとき、本当のところとして、われわれは日本人自身のいやなところを見せつけられているような気がするのである。自民党や党所属の政治家の言動にいらだつときは、そうありたくないと思いつつ、ついそうしてしまう自分の姿を重ねて、腹を立てているのだ。(中略)自民党の政治に浴びせられる批判のすべては、国民の誰もが内心、自分ではああはなりたくないけれども、ああなるかもしれないと思っているようなことについてである》

 

 《自民党に見られる、権力に強く執着する姿勢への不満、資金の不透明さへの批判、官僚との癒着に対する嫌悪、政治家個々人の私的欲望の追求への怒り、等々は、いずれも自分たちのまわりにもあること、もっといえば機会さえあれば自分にも起こり得ることだと考えているからこそ生まれる感情である。日本的な社会に生きていれば、誰にでも起こり得ることなのだ。》

 

 そして、「自民党の七つの特質」として、次のように7点を示しています。非常に興味深いところだと思います。確かに今回の総裁選にかかわらず、いろいろな政局の場面で似たようなことを実感してきました。

 

一、     理念や政策を重視せず、人と集団にかかわることをとくに重視する。

二、     人を評価し判断する基準は、その人がいかなる集団のいかなる位置に属するかによる。

三、     世界でもっとも強力な官僚システムとの癒着ともたれあいがある。

四、     社会主義をイデオロギーとしては強く拒否する。しかし、政策として積極的に取り入れる。

五、     外交政策も、理念や政策より、どの国とどういう関係にあるか、誰が熱心な推進者であるかが重視される。

六、     党内にある程度の数を持っていれば、大変な力が持てる

七、     以上の六つに抵触さえしなければ、活動や発言は驚くほど自由である

 

 こうした長年続き、永続するかのように見えた状況に合わせ、順応して力を発揮し、政策を実現したいと思うか、あるいはこういうあり方を否定し、実際には影響力のない一匹オオカミ扱いされるか…という視点から生きる道を選んだ人もたくさんいたことでしょうね。でも、現在になってこういうシステムもひび割れ、破綻が見えてきたわけですが。「七」については、小沢一郎幹事長に対して一切の批判がやんでしまった民主党よりもはるかに自由なのは本当のようです。

 

 第1章「自民党は、人と集団のつながりを最重視する」には、小渕恵三、梶山静六、小泉の各氏が争った98年夏の自民党総裁選時のエピソード、裏話が記されています。当時、私は政治部に配属になったばかりでしたが、ああだいたいそうだったな、と記憶がよみがえりました。

 

 《小渕に恩を売り、顔も改めて売り、YKK(山崎拓・小泉純一郎・加藤紘一)以外に自分もいるぞということを示せばいいと思っていた森にしてみれば、なんとしても小泉がトップに立つようなことは避けたかった。小渕が総理になって、自分が党を押さえる幹事長というのが最高なのだ。(中略)かなり舞台裏まではいりこんでいた私は、途中から問題は森とその側近だと気づいた。中川秀直(元科学技術庁長官)、玉沢徳一郎(元防衛庁長官)らを中心に、福田赳夫一族の福田康夫(息子、元外務政務次官)と越智通雄(娘婿。元経済企画庁長官)らの動きはおかしかった。結果として、彼らは森のために、ひいては森を押し立てるふりをして自分たちのために、小泉の票を小渕に売ったのだ。》

 

 実際、あのときは、小泉氏に投じられるはずの清和会の票が、けっこう小渕氏に流れたと言われましたし、私も議員からそう聞いた覚えがあります。関係ありませんが、政治家も政治記者も、こんなことばかり常態として見てきたので、ものごとに不感症気味になりがちなのかもしれません…。ともあれ、第3章「癒着か共生か――自民党と官僚の関係」には、こんな記述もありました。

 

 《一般に、土木・建設工事の契約を取ってくれた政治家へのリベートは、三パーセントと相場が決まっている。100億円で三億円、1000億円で30億円だ。バブルのころ、いかに建設関係の族議員や、それを束ねる大物政治家が儲けたかはいうに及ばない。官僚はそれを知っていて、工事の契約を政治家の関係先に回す。これではまるで、政治家に直接金を渡すのと同じである。》

 

 《小沢一郎も、政治力をつけていく過程で、この種の研究会をたくさん主宰し、官僚と仲良くなった。小沢は、くせのある自分に合った官僚を見つけだして、田中角栄ゆずりの役人懐柔策をとった。将来の出世の約束、直接の小遣いというかたちである。また官僚のほうは、小沢をとおして自分たちの省や庁の権利を拡大しようとした。この点でも、小沢は、完全な自民党型の政治家である。》

 

 一般に、中央省庁というとみんな一緒で大差ないというイメージがあるかもしれませんが、やはり「官庁の中の官庁」と呼ばれ、国の財布を握る財務省の力は他省庁とは全く違います。栗本氏は次のように書いていますが、民主党政権がこういう点にどう踏み込めるかが、「政治主導」の看板が試されるところだと思います。

 

 《ある省が、かなりの予算を必要とする計画を立てても、大蔵省の反対があればまったく前へ進みはしない。どのくらい前に進まないかというと、各省庁は大蔵省と個別の交渉すらできないぐらいなのだ。他の官庁は、交渉すら申し入れられない。万が一、交渉が始まったとしても、大蔵が課長クラスを出すと、他の官庁では局長が出る。交渉の進展など望むべくもない。要するに、身分が違うのだ。》

 

 じつは数年前に、外務省の幹部からそっくりな話を聞いたことがあります。たまたま話題が財務省について及んだ際、この幹部は「あいつらは『お偉い』人たちで、逆らっても勝ち目はない。なにせ、たかが課長が他省庁の局長を廊下に立たせて何十分も待たせてから、やっと会ってやるという感じだから」と言っていました。

 

 第4章のタイトルはずばり「自民党は、社会主義政党である」というものです。まあ、与謝野馨氏あたりも、国会ではっきりと「社民主義に何の抵抗もない」と答弁していましたから、そういうことなのかもしれません。栗本氏は分かりやすくこう書いています。

 

 《アメリカと国際社会では中心的につき合い、その論理の中で国際的な行動をとりながら、国内の政策ではアメリカの要求をいかに拒否するかに主眼を置くというのが、結局、1980年代の自民党のとってきた方針である。アメリカの要求を拒否するとは、要するに、官僚とそれに従属する各種団体の利害を護持するということだ。官僚が持つ最良の利権と、それに保護される各種団体の既得権利の保護といえば、要するに「保護主義政策」であり「社会主義」である。(中略)自民党は、国会で社会党や共産党と対立しているという点においては、断固たる非社会主義政党であったが、政策的には完全に「穏健な社会主義」政党であった。》

 

 …ちなみに、一時は小沢氏に期待し、近づいたこともある栗本氏は、小沢氏について将来、「(政治勢力の)一方の核となっているだろう」としてこんな感想を記しています。私にとっては妙に納得でき、その上で「困ったものだ」と天を仰ぎたくなるような内容です。

 

 《これは歴史の必然でもなんでなくて、小沢という人物の持つ力が、本来の磁場をねじ曲げてしまうことによって起こる「小沢ハプニング」とでもいうべき現象だ。そもそも、私が政界に入って以来、この小沢ハプニングにはかなり巻き込まれて苦労したような気がする。それは、構造的必然でも何でもないから、他人から見て、いったい何が起こったかまったく分からないことが多かったろう。みんなが小沢のまわりに集まったり、逆に必死で逃げ回ったりした。こういうことは、政治的というより、文学的なことなのではなかろうか。私だけではない。元総理や元官房長官まで含めて、小沢の巻き起こした渦の中で身をもんだ。当事者たちはまことに大変だったのである。歴史的には単なるエピソードにすぎず、まったくいやになってしまうが、これはいわば「小沢一郎という現象」なのである。》

 

 一つの自民党論を紹介するつもりが、最後は小沢論で締めくくってしまいました。この人のことをいかに評価していなくても、まさに「現象」としてそこに大きく立ちふさがっているので、無視するわけにはいかないのです。肝心の自民党総裁選の方は、議員票では谷垣禎一氏が有利なようですが、谷垣氏ねえ…。