月刊「WiLL」3月号を手に取ったところ、日大の百地章教授の論文「提唱者までが否定した外国人参政権」が目を引きました。特に関心を覚えたのは、その中で、平成7年の最高裁第3小法廷判決に加わった園部逸夫元判事の論考が紹介されていた部分です。この園部氏は小泉内閣時代の皇室典範有識者のメンバーとして、女系天皇容認論を推進した人であり、私も以前、取材したことがあります。まあ、なんというか、いやまあしかし、とにもかくにくも、という印象を持っています。

 

 また、永住外国人への地方参政権付与問題に関しては、平成11年6月24日付朝日新聞に、次のような回想文を寄せています。

 

 《私のいた最高裁第三小法廷は九五年二月、五人の全員一致の意見で、「地方公共団体の長や議員の選挙で、定住外国人に選挙権を与えることは憲法上禁止されていない」という判断をした。

 在日の人たちの中には、戦争中に強制連行され、帰りたくても祖国に帰れない人が大勢いる。「帰化すればいい」という人もいるが、無理やり日本に連れてこられた人たちには厳しい言葉である。国会でも在日の人たちに地方参政権を与えたらどうかという意見が出ているが、ようやくこの問題をゆっくり認識する時間が出てきたという気がしている。

 裁判所としては、すでに政府間の取り決めで決まった補償の問題を覆すところまで積極的な政策決定はできないという限界がある。しかし、傍論で政府や立法による機敏な対応への期待を述べることはできる

 

 …この判決は、主文で「選挙権は、主権者たる国民のみに与えられたのであり、権利の性質上も外国人には認められない」「国と地方公共団体は不可分一体の関係にあり、切り離すことはできない」「(憲法93条2項のいう「住民」は)日本国民を意味するもの」などと述べています。つまり、外国人参政権は地方レベルであっても憲法違反だと読めます。

 

 ところが、園部氏が回想しているように、「傍論」部分では主文と矛盾するような「立法への期待」を示しているわけです。外国人参政権付与賛成派の政治家やメディアはみんな、この「傍論」を根拠にし、その主張を展開していると言えます。園部氏らの思うつぼというところでしょうか。

 

 で、ここからが興味深いところですが、百地氏は「WiLL」の論文にこう書いていました。つまり、園部氏は宗旨替えしたということでしょうか…。

 

 《非常に重要な点は、判決に加わった園部逸夫元最高裁判事が、最近になってこの「傍論」を重視することは、「主観的な批評に過ぎず、判例の評価という点では、法の世界から離れた俗論である」と批判していることである。(中略)最高裁の「傍論」で部分的許容説を主導したと思われる園部逸夫元判事まで、部分的許容説に対して、現在では批判的な見解を示していることになる》

 

 うん、面白い。そこで私、百地氏が園部氏の文章を引用した『自治体法務研究2007・夏』というあまりメジャーでない雑誌を国会図書館に行って閲覧、コピーし、原文にあたってみました。朝日の記事から8年後に書かれたもので、「私が最高裁判所で出合った事件」というタイトルの連載の最終回「判例による法令の解釈と適用」という4ページほどの論文のごく一部分でした。ちょっと長いですが紹介します。

 

 《(3)定住外国人の選挙権に関する訴訟 この事件の判決は、3つの項目に分かれている。第一は、憲法93条は在留外国人に選挙権を保障したものではないこと。第二は、在留外国人の永住者であって、その居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至った者に対して、選挙権を付与する措置を講ずることは憲法上禁止されていないがそれは国の立法政策にかかわる事柄、措置を講じないからといって違憲の問題は生じないこと。第三は、選挙権を日本国民たる住民に限るものとした地方自治法11条、18条、公職選挙法9条2項の規定は違憲ではないとの判断が示されたことである。

 判例集は、第三の部分を判例とし、第一と第二は判例の先例法理を導くための理由付けに過ぎない。第一、第二とも裁判官全員一致の理由であるが、先例法理ではない。第一を先例法理としたり、あるいは第二を傍論又は小数意見としたり、あるいは第二を重視したりするのは、主観的な批評に過ぎず、判例の評価という点では、法の世界から離れた俗論である。》

 

 法律家の文章は分かりにくいところがありますが、朝日の回想文で述べていることと微妙に変わってきているように読めますね。朝日では、外国人への選挙権付与は憲法上禁止されていないという判断を下したことを誇らしく書いているのに、8年後の論考では、「措置を講じないからといって違憲の問題は生じない」ことを強調している印象があります。

 

 また、かつての憲法判断に関する「傍論」との位置づけには反論していますが、これも朝日で傍論の効用を主張していたことと食い違うような気がします。さらに、百地氏が引用している通り、この判断を重視することは「主観的な批評」「俗論」だとまで断じています。

 

 これは、一体何なんでしょうね。かつての自分たちの判断について、だんだんと「アレはまずかった」「ちょっと違ったかも」と思うようになって修正を試みているのか、それとも私の読解力が足りずに真意を誤解しているのか。

 

 百地氏の論文にはまた、ドイツにおける「部分許容説」をわが国に初めて紹介し、参政権付与派の論文にも引用されている憲法学者の長尾一紘中央大教授が、現在では明確に「外国人への参政権付与は地方レベルでも違憲である」とする立場を取っていることなども書かれており、読み応えがありました。まあ、人生いろいろですね。