「偉大な人間を失ったと嘆く者は多いが、偉大な人間を見殺しにしたと悲しむ者がおよそいないのは彼が今なお孤独であることを物語っている」

 

 以前も一度紹介した元毎日新聞記者、河内孝氏は著書『血の政治 青嵐会という物語』の最後に、精神病理学者、大原健士郎氏が三島由紀夫について評したこの言葉を引用しています。

 

 そして、こう書いています。

 

 《三島と中川の死を混同するつもりはないし、中川が「偉大であったかどうか」が問題なのでもない。あまたの謀略説や秘書とのあつれき、スキャンダルにまみれたまま放置されていること。それが形を変えた「見殺し」に思われてならなかった》

 

 ここで言及されている「中川」とは、昨年亡くなった中川昭一元財務相の父で、自死したとされる中川一郎元農水相のことです。河内氏は、中川一郎氏についてこうも書いています。

 

 《豪放に見えて、その実、繊細な中川だった》

 

 昨年来、政治家の事実上の世襲批判が高まり、二世議員の脆弱さがうんぬんされました。私はそれを見ながら、当たっている部分もあるだろうし、物事を類型化しすぎている点、決めつけすぎていることもあるだろうと思っていました。

 

 河内氏のこの一文を読んだとき、「やっぱりそうだよな」と思ったのでした。何が「そうだよな」なのか明確には言えませんが、北海道の寒村で育ち、たたき上げで政治家として独り立ちしようが、その地盤の上に二世として育とうが、美質も弱点も似るものは似るのだろうと。

 

 三週間ほど前だったか、中川昭一氏のご遺族から、「口惜しいこと、やり切れない思い、複雑な気持ちの交錯する毎日です」と書かれた葉書が届きました。生前の元気な姿が印刷されていました。

 

 私も、中川昭一氏が偉大だったかどうかはともかくとして、「見殺しにした」多くの人間のうちの一人であるのではないかと感じています。そして、現在の政治、政権のありようを考えるたびに自分に何ができるか、「やり切れない思い」に囚われるのでした。