《…もう一度やりなおす?しかしそれはなんにもなるまい。やりなおしたところで、またこうなってしまうだろう。なぜといって、ある人々は必然的に道に迷うのだ。彼等にとっては、もともと本道というものがないのだから》

 

 《――彼はいえそうな文句を、ひそかに案じて見たが、それを口に出すだけの勇気は見出せなかった。それにまた無論いつもの通り、二人は彼を理解せぬであろう。彼がやっと何かいっても、けげんそうにそれを聞くのであろう。なぜなら彼等の言葉は、彼の言葉とは違うのだから》

 

あまり適当な引用とはいえない(全く関係ない!)でしょうが、菅直人首相と鳩山由紀夫前首相のことをぼんやり考えていたところ、なぜか高校時代に何度も読み返した一節が頭に浮かんだので、トオマス・マンの「トニオ・クレエゲル」から上の言葉を抜き出してみました。

 

 私は民主党の旧社会党系議員や社民党の議員、また、自民党でも加藤紘一氏や河野洋平氏、谷垣禎一氏らの発言を聞いていると、よく「ルーピーの壁」を感じます。もとより、私が絶対正しいわけではないので、向こうも私の書いたものを読む機会があれば似たような感想を持つのかもしれませんが、どちらにしろ根本的に異質なものがあるようです。

 

 今朝の産経紙面でも、1面では菅首相のことの重大さを理解していない脳天気な無責任ぶりを指摘し、オピニオン面では鳩山前首相のそもそも政治家としての資質が全くないどころか社会人としても落第である立ち居振る舞いについて批判しました。でも、こうした私の言葉は、当人たちが仮に目を通したとしても、せいぜいちょっと不愉快にさせるだけで、真剣に受け止められることはないのだろうとも思っています。

 

 先日も、某省副大臣は、産経の記者があいさつしたところ、「民主党をたたいてナンボの産経か!」と反応したそうです。批判されている問題点についての反省はなく、ただ「敵性新聞」(元政府高官)と色分けするだけである場合が多いようです。もちろん、少数ですが、産経の批判記事を歓迎か、そこまではいかなくてもきちんと受け止める民主党議員もいますが。

 

 ただ、効果が薄くても、自分たちの仕事がどこまで建設的な意味があるのかときに分からなくなっても、「おかしいことはおかしい」「それは違うだろう」と言い続けるしかないのだろうと思います。民主党の某閣僚は「産経もほめるときにはほめなきゃダメだ」と文句を言ってきましたが、ほめたくてもなかなかほめるところがない、というのもまた事実です。

 

 ルーピー氏本人には、もう宇宙語しか通じないのであるいは何を言っても仕方がないのかもしれませんが、その周囲の心ある人には何かが伝わってほしいと願っています。また、菅首相は、心には何も響いていなくても、ポピュリストなのであるいは批判も一定の効果を及ぼすかもしれません。

 

 とにかく、徹底的にやるしかありませんね。