「政治は結果責任」だとよく言われますし、私自身もそれはそうだと思います。理想や動機がいかに立派でも、それを実現できなければ絵に描いた餅であり、国民にとって何の利益もありません。さらに、その理想や動機のデッサン自体が「国というものが何だか分からない」ほど歪み狂ったルーピー氏のような「理念的政治家」が、論外であることはもちろんのことです。

 

 この文脈上で結果責任を強調するあまり、政治家とその施政をどう評価するかにあたって、よく「最低の政治家であっても、国民のためになることをしてくれたならいい」と言われてきました。実際、特に芸術家や学者の世界では、人格的には異常性があり、ナントカと紙一重の人物が、例えようもなく美しい絵画や音楽をものにし、また、素晴らしい科学的実績をあげることは珍しくありません。

 

 いやむしろ、そうしたその人固有の歪み、狂的な部分こそが、こうした分野での成功につながっているところが大きいのでしょう。それはまごうかたなき事実であると考えます。

 

 ただ、最近、菅直人首相や仙谷由人官房長官をはじめ、菅政権の中枢にいる人たちの言動と現在のていたらくを見ていて、人間対人間の勝負であり、国民に語りかけ、説得する能力が問われる政治の世界ではやはり、人間性がもっと重視されていいのではないかと考えています。

 

 インターネットを含むメディアの発達によって、為政者達はその言動を以前のようにベールの向こうに隠すことは不可能となりました。昔であれば、陰で国民をバカにしつつ、人前では「国民の生活が第一」と言ってもなかなかばれなかったかもしれませんが、現在ではそうした卑しい心根はいつか露見します。

 

 また、首相や閣僚、党幹部らの醜い言行、過去発言との矛盾・乖離、国民と社会をバカにしたような振る舞いは、即座に広まると同時に記録され、私たちはことあるごとにそれを確認するという行動様式をとるようになりました。仙谷氏がかつて自民党を批判してたびたび使用した「知らしむべからず、よらしむべし」的な政治は、まったく通用しないと言っていいでしょう。

 

 そして何より、こうした社会の変容は、政治家一人ひとりの人間性を隠しようもなく暴き、白日の下にさらすこととなりました。首相やその政権の卑怯・未練・姑息な体質は、どう表面を言い繕い、前言を撤回して謝罪しようと国民の心に刻み込まれます。政治家にとっては大変な時代でしょうが、これはこれでいいことだと歓迎します。

 

 結論を言うと、今の時代は、国民の信頼に足る人物か、日本を託せる人物かどうか、政治家の人間性こそが問われているのだと思うのです。そして、卑怯と姑息が受肉化したような自由と民主主義の敵、菅氏や仙谷氏は、誰の目にも隠しようがなくなった自らの卑怯と姑息によって今、追い詰められているのだろうと感じます。自業自得というか、定めというか、当然の帰結というか。

 

 仮に菅内閣が倒れ、次の首相が岡田克也幹事長になろうと前原誠司外相になろうと、あるいはまた政権交代があって現在は野党の政治家が首相になろうと、新たな政権はいずれ、構成メンバーの人間性と品格を問われることになるのだろうと思います。そしてそれは不可避の時代の要請なのだろうと愚考する次第です。

 

 つまり、ある程度は人間性も伴い、その点も評価されるような政治家でないと、最初から結果は出せないのだろうと。現在は指導力以前に、人徳の欠片も見当たらない政権ですが。

 

 幸い、こんな政治家にとってはある意味、やりにくい時代であっても、政治家になりたいと希望する人はたくさんいるようですから、是非切磋琢磨、砕身努力して、国民の期待にこたえられるような政治家が出てきてほしいですね。現在のように、政権のトップ連中が国民の軽蔑と嘲笑の対象にしかならないという事態は、(完全には無理でも)早く終わってほしいものです。