私は可能な限り、1日に1度は書店に立ち寄り、どんな新刊が出ているかチェックするのが楽しみなのですが、最近はドイツの哲学者、ニーチェに関する書籍がどんどん出ていますね。超訳だとか漫画による解説だとか、ベストセラーとなっている本もあるようです。

 

 なぜ今ニーチェなのか。偽善と欺瞞に満ちた日本社会の閉塞感が、かえって一切の保身も妥協も許さずに物事の本質を見つめるニーチェのどこまでも強く、同時に、神経が剝き出しになっているかのように研ぎ澄まされた繊細な眼差しを新鮮にしているのでしょうか。

 

 以前のエントリで何度か書いたことがありますが、私は高校3年生のときにニーチェの「このようにツァラトゥストラは語った」(吉沢伝三郎訳・注)と出会い、あまりの深さとおもしろさに読み終えると同時に最初から読み返し、その度に新しい発見をして結局そのまま続けて7~8回読んだという経験があります。

 

 17歳だった私にとり、この本は頭の中で漠然と考えてはいたものの、明確な言葉として整理できていなかったことが、これでもかというほどはっきりと記されている、いわばバイブルとなりました。以後もこの年になるまで折にふれて読み返し、仕事でも私生活の上でも、ことあるごとにその言葉を思い出します。もちろん、我田引水の素人理解であり、正確な解釈ができているわけではありませんが、書物はそれでいいのだとも思っています。

 

 そこで本日は、ツァラトゥストラの言葉の中から、私が高校生のときにオレンジ色の色鉛筆で傍線を引いたもので、今の気分に合うものをいくつか紹介したいと思います。若いころに気に入った言葉なので、あるいは感傷的な部分もあるかもしれませんが、27、8年が経つ今でも味わい深いものがあります。

 

 《生は耐えがたい重荷である。しかし、そうだとしても、頼むから、さあそんなに敏感なふりをしないでくれ!われわれは残らず、重荷に耐える健気な雄ロバと雌ロバなのだ。(中略)愛のなかには、つねにいくらかの狂気がある。だが狂気のなかには、つねにまた、いくらかの理性がある》(読むことと書くことについて)

 

 《わたしはきみたちの心の憎悪と嫉妬を知っている。きみたちは、憎悪と嫉妬を知らないでおれるほど偉大ではない。されば、それらを恥じないでおれるほど偉大であれ!(中略)きみたちは、憎むべき敵たちだけを持つことが必要であって、軽蔑すべき敵たちを持ってはならない。きみたちは自分の敵を誇りとしなくてはならない。その場合には、きみたちの敵の成功は、きみたちの成功でもあるのだ》(戦争と戦士たちとについて)

 

 《もはや彼らに対して腕を振り上げるな!彼らは数えきれないほどいる。そして、ハエたたきとなることは、きみの運命ではないのだ》(市場のハエどもについて)

 

 《きみたちが敵を持っていたら、敵の悪に報いるに善をもってするな。というのは、そういうことをすれば、相手を恥じ入らせることになるだろうからだ。(中略)相手を恥じ入らせるよりも、むしろ腹を立てよ!》(毒ヘビのかみ傷について)

 

 《きみたちの崇拝がいつの日にかくつがえったとしたら、どうだろう?(倒れかかってくる)立像に打ち砕かれないよう、用心せよ!》(贈与する徳について)

 

 《わたしは、同情することにおいて至福を覚えるような、あわれみ深い者たちを好まない。彼らにはあまりにも羞恥心が欠けているのだ。(中略)ああ、同情深い者たちにおけるよりも大きな愚行が、この世のどこで行われただろうか?また、同情深い者たちの愚行以上に多くの悩みをひき起こしたものが、この世に何かあっただろうか?》(同情深い者たちについて)

 

 《或る者たちは、みずからの一握りの正義を誇り、この正義のために、一切の諸事物に対して罪を犯す。そこで、世界が彼らの不正の中で溺死させられるのだ》(有徳者たちについて)

 

 《みずからの正義について多弁を弄する一切の者たちを信用するな!(中略)彼らが自分自身を「善にして義なる者たち」と称するとき、忘れるな、パリサイの徒たるべく、彼らに欠けているのは――ただ権力だけであることを!》(タラントゥラどもについて)

 

 《自分自身を信じない者は、絶えず嘘をつく》(汚れなき認識について)

 

 《彼らはみな、自分の水を深く見せようとして、それを濁らせるのだ》(詩人たちについて)

 

 《わたしを欺く者たちを警戒しないでいるために、欺かれるに任せること、これが、人間と交わるための、わたしの第一の賢さである。(中略)虚栄心の強い者の謙虚さの深さを、誰が完全に測りきれよう!(中略)きみたちの嘘が彼についての賛辞であれば、彼はきみたちの嘘でさえ信じる。というのは、彼の心はその奥底で、「わたしは何ものであるのだろう!」と嘆息しているからだ》(人間と交わるための賢さについて)

 

 《多くを見るためには、自分を度外視することを学ぶ必要がある》(さすらい人)

 

 《わたしが彼らのなかに認めた最悪の偽善は、命令する者たちもまた、奉仕する者たちの諸徳を偽り装うということだ》(小さくする徳について)

 

 《憎むべきものでさえあり、吐きけの種でさえあるのは、決してわが身を守ろうとしない者、有毒なつばでも毒々しいまなざしでも呑みこむ者、あまりに忍耐強い者、何事をも耐え忍ぶ者、何事につけ足を知る者である。けだし、こういうのは奴隷の流儀であるからだ》(三つの悪について)

 

 《きみがなすことを、誰もきみにそのまま仕返すことはできない。見よ、報復は成立しないのだ》(新旧の諸板について)

 

 《賤民がかつて根拠なしに信じるようになったことを、誰が彼らに根拠を挙げてみせることによって――くつがえしようか?》(高等な人間について)

 

 《語らないことが彼の狡猾さだ。かくて、彼はめったに間違うことがない》(覚醒)

 

 …こうして書き写してみて、自分の考え方がいまだに、この本に多くの影響を受けていることが改めて分かりました。本日は、ただそれだけのエントリでした。しっかし、本当にどうしていま、流行っているのかしらん?