♪生きたい。生きていたい。生き長らえたい。いつまでも、100万年でも、1億年でも今の地位にとどまりたい……。

 自らの声を吹き込み、モーニングコールとした目覚まし時計がおごそかに朝を告げた。アレはふかふかのベッドから身を起こし、大きく伸びをした。アレの眠りは深く、夢は見ない。夢は現実世界に不満をため込んでいる愚民たちの慰めだとアレは信じていた。どんな夢よりも、起きて実際に味わう栄耀栄華こそが大切であり、幸福だからである。

「きょうは会議の日デアルカ」

 アレは、早くも午前7時2分には公邸を発ち、歩いて職場に入った。するとアレの到着を待っていたかのように、早速、部下であるFがきょうの仕事の打ち合わせに訪れた。ういやつだ。ずっと近くにおいてやろう。

 これまで多くの側近がアレの側を離れていった。中には、柳腰が色っぽい女房役もいたが、アレは気にかけない。なぜなら、アレは基本的に自分にしか興味はなく、そのとき便利な人間以外必要としないからである。もとより、Fだって今は使えると考えているだけだ。

 ともあれアレは約31年前、初めて国会に職を得るまで、与党と野党の区別もついていなかった。アレはゆっくりと長い時間をかけて学習し、今では内閣と与党の違いも理解している。現在に至っても、なぜ自分以外の議員が必要なのか実はよく理解していなかったが、Fの進講をぼーっと聞くうちに、自分をほめたたえるためだろうと納得した。

 また一つオレは賢くなった。この先どこまで利口になるか分からない。このあふれる知恵を人民に施し、さらにオレを賞賛させたい――。

 アレは深く自分に満足し、玉座にある幸せをかみしめた。そしておもむろに執務室のカーテンを開け、太陽に向かって叫んだ。

「オレの勝ちだ。おまえの輝きはオレのこの満足の足元にも及ばない。おまえはせいぜい再生エネルギーの源となり、オレに奉仕するがよい」

 これは最近の日課である。かつてはライバル視した太陽ですら、今では全く敵には値せず、ただ利用するだけの存在だ。アレの自尊心と自負心は今や14万8000光年の広がりを持つに至った。

それからアレは、日本中、いや地球中をソーラー・パネルで埋め尽くす妄想を楽しみながら大勢の護衛を従えて会議場へと赴き、愚にもつかない会議に出席した。いつかはこんな無駄な会議自体、廃止してやろうと考えているが、今はまだそのときではない。時が満ちるのを待つのだ。

アレは、自分に敵意の目を向ける議員たちを不思議そうに見回した後、悠然と自分の席に座り、いつものように船をこぐことにした。アレはいつでもどこでもどんな相手がいるところでも眠ることができる。このエピソードは、数多いアレの特技(居直り、記憶の変容、ペテンなど)の中でも、最も広く知られている。

しばらくして、耳元を羽虫が飛び回るような不快感で目が覚めた。

「2億円を越える資金がなぜ、(民主党から)市民の党や市民の会に流れないといけないのか」

 肩を怒らせてこう指摘する野党の質問者をあきれたように見て、アレは答弁に立ち、いつもの決めぜりふを吐いた。

「市民の会への寄付は、政治資金規正法に則り、政治資金収支報告書に記載し、法令に沿って処理している」

 この物言いは、実はアレが嫌悪し、「クリーンで透明な政治を実現する」として排斥したかつてのライバルOの資金問題に対する言い分と全く同じだ。だが、当然のことながらアレは全く意に介さない。なぜなら、いま玉座についているのは自分なのだからであり、この地位に就いているものには独裁も独善も許されるというのがアレの持論だからだ。

 アレの中では、すべてはシンプルに矛盾なく整理されており、アレはそれに疑問を持つことは決してない。アレは自分自身のことを、世界で最も優れたある者だと信じているからである。そもそも、アレの頭には矛盾という概念はない。だから、そのときどきで場当たりな言葉を発し、以前の言葉と食い違っても平気なのだ。強靱な精神を持つゆえんであり、証左である。

 もちろん、アレとて自分に対する民の批判があることは承知している。だが、それに何ほどのことがあろうか。権力を手にし、意のままに扱っているのは自分であり、民衆ではないのだ。かつて出演したテレビ番組で「1億総白痴になっている」と言い放ったアレは、もとより民の心など信用していない。

 そもそも、自分に奉仕し、従うためにある民の不平や不満を、アレが気にとめる道理がどこにあろうか。アレは民の声などどこ吹く風と「決然と生きる」だけなのである。

 この平穏な日の午後には、いま話題の女子蹴球チームがアレを称えにやってきた。アレは珍しく他者から何かを学びたい衝動にかられた。それは「諦めない心」だったが、それはすでに誰にも負けないと思い直した。

 そしてアレは、自分へのアドバイスについて「ないです」と答えた主将の言葉に深く満足し、その謙虚で正しい判断を愛でた。たかが、蹴球選手ごときが本気で自分に何かを教えようとしたら、アレは怒り狂ったかもしれない。

 そのようにして、さまざまな政策や情報をアレに伝えようとした部下や同志たちがアレの勘気を被り、怒鳴り散らされ、遠ざけられてきた。そうしてどんどん孤独になっていく姿はアレにとって不幸だろうか?とんでもない!アレの世界にはもともとアレしかいないのである。

「やるべきことがある限り、私も諦めないで頑張りたい」「自分なりに…」「自分としては…」

 いつものように、何を聞かれても自分の主観と自己都合だけを語って午後5時に会議を終えた。質問を受けるときには、唇を軽くかんで上目遣いにふてくされたような表情をつくるのに務めた。この顔が一番チャーミングだと気に入っているのだ。

 あとは自由時間だ。アレは知人の「お別れの会」に出席した後、Fと並ぶ側近であるTの世間話を聞き、8時に公邸へと引き上げた。気が向いたら寿司屋、焼き肉店、イタリア料理店…とはしごもいとわない健啖家のアレだが、きょうは公邸で夫人と缶ビールを飲む約束だった。

 翌朝、公邸前にはいつものように大量の空き缶が並ぶだろう。アレは明日も栄光に包まれた一日が待っていると信じ、再び眠りにつく。アレの中では時間はきれいな円環を形作り、すでに閉じて完結しているのだ。