まがりなりにも日本の首相を決める民主党代表選をめぐるドタバタや、ようやっと辞めてくれる菅直人首相がこれまでしでかしてきたことの検証、総括などに忙しく、ブログ更新をずっとさぼってきました。

 

これだけ長期間、新しいエントリを書かなかったのは、このブログを始めた53カ月前からこれまでに一度もありません。ただ単に忙しかったというだけでなく、日々、これだけ激しいメディア不信をぶつけられている中で、何かを書く、発信するということに積極的な意味を見いだせなくなっていたということもあります。これまでも何度かありましたが、ありていに言えば気持ちが後ろ向きになっています。

 

 「死ねよ」であるとか、幼稚で頭の悪い自己満足コメントは捨て置くとして、過去5年間に何度も何度も説明してきたこと、私の思いや考え方、スタンスを訴えてきたことを、新しい訪問者にまた一から説くという作業は今の私にはしんどすぎてできません。また、私は束縛されるのが嫌いなので人に期待されることも好みませんし、勝手に失望されても困るのです。さらに、踏み絵を踏まされたり、書く内容を指定されたりするようなことも大嫌いなのです。

 

 他者の強要を感じると、たとえ本心ではその通りだと思っていても、そうは認めたくなくなる天の邪鬼で偏屈な人間でもあります。みんなが同じことを言い出すと、知らん顔をしたくなる性分も持っています。

 

 デモという行為をどう評価するかは以前のコメント欄で何度も書きましたし、正直、政治記者として一番政局に集中しなければならないこの時期に、この種の話題に参加する余裕などありません。だいたい、デモってメディアで報道されるかどうかが大事なものでしょうか。一人一人が情報を発信できる今、それこそメディアへの過大評価ではないかとも感じています。

 

 私は新聞記者という職業を選んでしまったし、その立場を通じて言いたいことや知ってほしいことはできる限り伝えたいとは考えていますが、世の中の森羅万象すべてに関心、興味を持つことはできません。また、もとより、苦手分野も多く、よく分かっていない(全く理解していない)分野、事象も多々あります。

 

 なので私は繰り返し、自分はただこれだけのどうという取るに足りない人間であり、好き勝手なことしか書けないと述べてきたわけです。それでも、世の中には自分が関心を持っていること、大事だと考えていることは他者もそうであるべきだと信じて疑わない人、自分の関心事項に他者が関心を示さないと怒り出す人もいて、どう接していいか正直困惑します。

 

 私もメディアの片隅で禄を食んでいる者であり、メディア批判、あるいはもっと直接的な産経批判は受け入れるしかありませんし、特に鋭い建設的な意見は拝聴し、改めようとも思っています。でも、ここでもあまりにステレオタイプな、実情を以前説明したにもかかわらず、そんなの読みもしないで決めつけているような意見をみると、ただただむなしく悲しくなるのです。

 

 多くの問題を抱えている組織や業界でも、それぞれ個々の事情は違うし、単純に正邪善悪で語れるものではありませんよね。そもそも「正義」だとか「真実」などいかにあいまいでいい加減で、かつとらえがたいものであることか。私は過去エントリで、簡単に「正義」や「真実」を口にする人は信用できないということも書いてきました。

 

 あまりにも「陰謀論」のたぐいや、利権だの報道規制だのという偏った見方が氾濫しているのをみると、そういう人たちには何を書いても伝わらないのだろうなと徒労感を覚えます。結局、すべて自分の枠内から、見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くことになってしまいます。

 

よく「マスコミの煽動」が批判されますが、そういう批判をする人はそもそもマスコミを信じていないはずですし、私はそもそも個々のメディアの力なんてたいしたことはないと考えています。特にマスメディアの「マス」は今もこれからもどんどん実態を失っていくばかりでしょうし。私は誰かを煽動するとごろか、何かを伝えるコミュニケーション自体がどれほど難しいかをこのブログでのやりとりを通じて学びました。

 

 ましてマイナーでいつ倒れるか分からない産経新聞の、それもキワモノとされる私ごときが何を書こうと、別にほとんど影響などないことも理解しています。たとえ蟷螂の斧にすぎずとも、やるべきこと、言うべきことは言っておきたいと、いつも萎えそうな気持ちを何とか奮い立たせてここまできましたが……。

 

 MSN産経の記事に寄せられるツイッターの反応を見てもここのコメントを見ても、仕事だから当たり前ですが、われわれが苦労し工夫してたどり着いた事実を記しても、「産経だから話半分」「どうせ作り話」などといった反応があふれています。もちろん、われわれの自業自得でもあるわけですが、そんな風にすべて疑われ、あるいは無価値であるように言われながら仕事をすることにも倦んできました。それでも食べていかなくてはいけませんが。

 

 このところ、菅首相を人間扱いすることに強い抵抗を覚えたので「アレ」と書いてきたことにも、たくさんの批判や抗議を受けました。ここのコメント欄だけでなく、産経に届いたはがきその他でも、新聞記者の品位を落とすとか、記事の劣化が甚だしいであるとか、いろいろ言われました。

 

 でも、所詮は瓦版屋の末裔、「羽織ゴロ」ごときの品性を問題にするそういう人たちに限って、どうしてもっと大事で本質的な菅首相の品性は問題には目をつむるのか、納得はいきません。それは紙面では、一応の体裁も品性も必要でしょうが、本音を語るブログでまで自己規制させてどうしたいのか。常識や良識の範疇では語れない異様な存在を、常識的で良識的な言葉でどう表現しろというのでしょうか。

 

 もともと記者なんてはみ出し者の半分アウトローみたいな存在であって、しかも人の嫌がることをかぎ回り、暴露するのが仕事なのですから、嫌われるのは仕方がないと思っていますが、品性を求められると当惑します。マックス・ヴェーバーも書いているように「こういう職業にあって、なお品性と真摯さを失わない」少数の記者がいることの方が、希有であるのではないかと率直にそう思います。

 

もとより、私などくだらない人間でありますし、そうでないと取り繕ったこともないはずです。しかし、そうであっても、可能な限り誠実に、少なくとも自分自身は本当だと信じていることを書いてきたつもりです。まあ、これも所詮、独りよがりだと言われればそれまでですが。

 

 信じてほしいとは言いませんし、私は別にメディアの代表でも代弁者でもありませんが、一つ実感していることがあります。確かにメディアはそれぞれ偏向しているし、恣意的でありますが、その多くは、「意図」よりも「能力不足」に起因しているということです。

 

 以前、松本龍復興担当相が宮城県で暴言を吐いたとき、産経の報道が小さかった、メディア規制に負けたのだと話題になりましたが、理由はもっ簡単なことでした。さして大物議員でもない松本氏に同行記者を出す金銭的・人員的余裕が産経(他紙も含め)にはなく、現場に記者がいなかったのです。夜遅く通信社の原稿が送られてきたのでそれを入れたと聞きました。

 

  メディアは今後、どんどん再編・縮小していくのでしょうが、今でさえこうなのだから、大メディアが存在しない時代になったら、こういう報道はいよいよ、局地的・限定的にしか行われなくなっていくのでしょうね。それも時代の流れなら仕方がない。

 

 メディアといっても、新聞は私が入社した21年前からすでに斜陽産業といわれてピーピー言っていますし、人員は減らされるばかりで、仕事量ばかり増えているのが実情です。テレビも最近は経営が苦しいし、何でもカパーできるような状態にはありませんし、紙面だって有限でとても狭いのです。

 

 さらに経験上言うと、いかに重要なことを1面トップ、解説付きで書こうと、そのときの社会の空気次第で関心を持たれず、埋もれていくことの方が多いのです。人は私も含め、自身の関心があまりない記事は読まないか、読んでもあまり頭に入らないものだと思います。日々、無力感を覚えつつ仕事をしているのが実際のところです。それでもやれることをやるしかありませんが。