本日、就任後、沖縄を初訪問した野田佳彦首相は、先の大戦・沖縄戦の沖縄特別根拠地隊司令官、大田実海軍少将(死後に中将)が自決した海軍司令部壕跡を訪れました。大田氏が自決1週間前の昭和20年6月6日、ここから「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と海軍次官宛に電文を送ったことを重視してのことです。

 

 私はこの壕跡訪問を評価します。ただ、このことの意味は軽くありません。これは、野田首相が自ら沖縄に対し、その功に報いて特別の配慮をすると約束したことになるからです。私は、何の腹案もないまま「最低でも県外」と口走ったリハビリ中の鳩山由紀夫元首相や、副総理時代に安易に「沖縄は独立した方がいい」と放言した菅直人前首相と同様に、野田氏も沖縄に対して本当は関心を抱いていないのではないか、米軍普天間飛行場移設問題も実はとうに諦めているのではないかと疑っていました。

 

 しかし、大田中将の名前を口に出した以上、いかなる形であっても、沖縄問題にもっと真剣に、徹底的に取り組む責務が生じたと思います。沖縄県民の奮闘をねぎらい、その労と犠牲に報いることを願って自決した大田中将を持ち出した以上、逃げてはいけません。

 

 実は、今回の海軍司令部壕跡訪問は野田首相自身の発想ではなく、ある人からの助言、強い勧めによるものであることは事前に聞いていました。でも、それに頷いて行った以上は、それ相応の覚悟を示してほしいと思います。

 

 大田中将の言葉を重視した首相と言えば、故小渕恵三元首相がすぐに浮かびます。小渕氏のエピソードに関しては、私は200856日付の産経のサミット特集紙面にこんな記事を書いているので参考までに掲載します。

 

 沖縄開催 首相動かした「言葉」

 日本でのサミット開催地は平成5年までの3回とも東京だった。首都以外にすると、各国首脳の移動や警備などで大きな労力が必要となるためだ。5年の開催地は当時の外相、渡辺美智雄がオープン間もない千葉・幕張を検討したが、官僚が「労力が倍以上になる。絶対につぶす」(外務省幹部)と抵抗し、東京に落ち着いた経緯もある。

 これに風穴を開けたのが、11年4月に九州・沖縄でのサミット開催を決断した当時の首相、小渕恵三だった。開催地に立候補していたのは北海道、千葉県、横浜市、大阪府、広島市、福岡市、宮崎県、沖縄県の8自治体。実は沖縄県は、外務省や警察庁が宿泊、交通、警備の問題などを検討した結果、最も低い評価だった。沖縄に米軍基地が存在することも、各国首脳が集う場所としてふさわしくないとの見方もあった。

 これらマイナス材料をはねのけ、小渕が沖縄開催にかけたのはなぜか。小渕は早大の学生時代に沖縄返還運動に携わったり、米施政権下の沖縄に渡航し、地元経済界の重鎮で沖縄サミット開催時の知事、稲嶺恵一の父である一郎氏の知遇を得たりと、沖縄には深い縁がある。初入閣も昭和54年の総理府総務長官兼沖縄開発庁長官としてだった。

 それ以上に、小渕には先の大戦で米軍との過酷な地上戦の現場となり、戦後も長く米国の施政権下にあった沖縄に報いたいという熱い思いがあった。

 「小渕が最後まで考えていたのは、大田中将のあの言葉だった。小渕はこれを重くとらえていて、沖縄への恩返しという意味もあった」

 こう証言するのは、小渕と長年にわたり共に歩み、小渕の首相時代に政務秘書官を務めた古川俊隆だ。大田中将の言葉とは、沖縄特別根拠地隊司令官だった大田実少将(死後に中将)が自決の1週間前の昭和20年6月6日、海軍次官あてに送った次の電文だ。

 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 この言葉を胸に刻み、小渕は昭和天皇の誕生日である平成11年4月29日、諸条件で他の候補地に劣る沖縄をあえてサミット開催地に決定した。サミット開催による経済効果とともに、沖縄が世界の注目を集めることを考慮しての決断だった。

 決定直後、古川が沖縄県内の小渕後援会幹部らに電話で連絡すると、「相手は一様に『本当ですか』『まさか』と、喜ぶより先に驚いていた」という。

 小渕は同年9月、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議のため訪問したニュージーランドで、同国に在住する大田中将の四女、昭子さんに会い、「大変苦労された沖縄県民の方々のためにも来年、沖縄でサミットをやると決めたことは間違いではなかった」と語りかけた。

 さらに「気配り」で知られる小渕は、沖縄での開催を米クリントン政権がどう受け止めるかを気にかけ、当時の海老原紳秘書官(現駐英大使)を中心に、極秘裏に米側の意向を探るとともに、複数のルートから周到な根回しを行い、沖縄サミット実現にこぎ着けた。

 だが、小渕自身は12年4月2日、脳梗塞(こうそく)で倒れ、5月14日に死去し、沖縄サミットを自らの手で主催することはできなかった。代わってサミット議長を務めた後任首相の森喜朗は、サミット後の所信表明演説でこう語った。

 「小渕前総理が万感の思いを込めて開催を決定された九州・沖縄サミットで、(中略)沖縄から明るく力強い平和へのメッセージを発出し、21世紀の扉を大きく開けることができた」

 

 ……小渕首相によるサミット開催地の沖縄決定については、当時、政治部の駆け出し記者だった私自身にも苦い思い出があります。小渕氏が沖縄決定を限られた閣僚らに伝えたころ、私は夜回り取材でその閣僚の一人の自宅に行き、開催地はどこかをただしたことがあります。

 

 相手は玄関に出てきて、苦笑いしながら「絶対にあんたたちの予想が当たらないところだよ」と言いました。そのときは、「そう言われてもなあ」とそれ以上詰められなかったのですが、いざ沖縄が発表されてみると、あの言葉はかなり大きなヒントだったと気づきました。それほど、沖縄の候補地立候補県の中での評価は警備上の問題や宿泊施設その他の問題で低かったのです。

 

 小渕氏はコンセンサス重視型の政治家の代表例として知られていますが、ここはというときは、自分の信念を押し通し譲りませんでした。もとより、小渕氏には小渕氏の利害や計算もあったでしょうが、それはとりあえずおいておきます。

 

 また、当時は橋本政権、小渕政権と首相も閣僚も沖縄に対する思い入れが強い人が多かったのも事実です。私自身もこのころ、何度も沖縄に出張する機会があり、普天間移設反対派の名護市議を訪ねたところ、取材というよりも2時間半にも及ぶ本音のやりとりになったことがあります。

 

 私が、「いろいろと足らざる点や不満はあろうが、現在の小渕政権で勧めないと次以降、これだけ沖縄を重視し、関心を持つ政権はなかなか現れないと思う。ここで取れる成果を取ったらどうか」という趣旨のことを縷々述べたのに対し、本土で暮らしたこともある相手は「それは分かっているが、沖縄の県民感情としてどうしても受け入れられないものはある」と反論し、議論は平行線をたどりました。ただ、印象としては議論のたたき台、共通土台はあると感じました。

 

 ごく当たり前のことですが、反対を唱える人にもそれぞれさまざま事情もあるし、反対といっても100%そうかというと必ずしもそうではありません。感情のもつれも利害関係もあれば、引き際を計算する部分もあります。そういう機微な問題を、ガラス細工を積み上げるようにして何とかことの成就寸前まで持っていった先人の努力を、知識も根拠も見識もない「最低でも県外」でぶちこわした人の罪はいかばかりか。

 

 その後継者たる野田首相には、まずは鳩山、菅両元首相の対応への批判と総括を行ってほしいものですが、まあ無理でしょうね。それができたら少しは見直すのですが。