いじめ、についてであります。以前のエントリかコメント欄でも書いたことがあるように思いますが、私も小学校1、2年生のころ、通学班の上級生からいじめられたことがあります。言葉でのいじめのほか、通学途中、ただでさえ3月生まれで体の小さい私を、彼らがからかいながら冬のどぶ川に突き落としたことなどを、今でもとてもはっきりと記憶しています。毎日がとても辛く、苦しかったことは忘れようがありません。
当時の私は、とにかく3年生になればあの嫌な、怖い上級生たちが卒業すると、「3年生」という言葉に強い憧れと救いを感じていました。それから数年たって中学生となり、少しは体も大きくなってきたころには、かつて自分をいじめた上級生たちを道を見かけたりした際には、体格差が小さくなった今ならどんな抵抗・反撃ができるだろうかといつも考えました。
ふだんは特に意識することはありませんが、今回の大津市のいじめ自殺事件のような悲惨で限りなく陰惨な事件をみると、約40年前、世界が限りなく狭かったころに、逃れることのできない相手から受けた苦痛、屈辱、絶望、復讐心……など負の感情をまざまざと思い出します。
大津市の件では、何より問題なのは学校と現場教師であり、事実上、学校と共犯関係にあった市教委であることは間違いありません。私がこのブログでしつこいぐらいに書いてきた山梨県の事例を引くまでもなく、教育委員会の事務局は教師の出向者の集まりであり、教育長の多くは教師の退職後の天下り先であり、今回の事例では詳しく把握していませんが、そうしたもたれ合い構造の背景には教職員組合の存在があります。
しかし、きょうはあえて、そういうシステムよりも、今現在も好んでか周囲に巻き込まれてか「いじめ」を続けている児童・生徒に言いたいことがあります。今回の大津市の事例のように、刑事告訴にまで至ることは稀で滅多にないことでしょうが、そうはならなくとも問いたいのです。
あなたは、今いじめている相手から、一生恨まれ、機会あれば復讐される覚悟があっていじめていますか。あなた自身は軽い気持ちであり、いつか相手のことを忘れても、いじめられた側は、絶対に忘れません。この切実で悲壮な思いに時効などありません。相手は常にあなたの存在を不快かつ排除すべきものと思い続けます。将来、仕事や何かの事情であなたと相手が再びあいまみえ、関係を持たざるをえないことだってあるのです。私も、今は生活上、何の関係もないHやSとどこがでかかわりを持てば、決して平静を保てないし、許すこともないでしょう。
まして、相手を死に追いやるようなことになれば、相手の親・親族をはじめあなたを決して許さない人たちが大量に生まれます。法律がそれを認めないだけで、できるならば、きっかけがあればあなたを殺したいと心底願い、ずっとあなたを呪い続けるのです。今回のように事件化すれば、相手の関係者だけでなく社会もあなたを敵視し、排斥します。
いじめは、決して軽い気持ちでしたで済む問題ではありません。人の持つ最も強い負の感情を背負い、あるいは浴びせ続けられる結果を生むだけです。そんなとてつもないリスクを背負うことを覚悟してやるほど、いじめなんて爽快でも愉快でも何でもないことだと思います。もともと病的な嗜好を持つならともかく、どうしてもいじめに加わらなくてはならない理由などありません。
教育現場には、ただいじめが悪いことだと説くだけではなく、いじめは「一生涯の怨恨」を招き、多くのリスクが伴うものであり、そんなことをするのはとんでもない軽蔑すべきバカかルーピーかアレだと諭すことを望みたいところです。
先日の夕刊フジの記事で、八木秀次氏はいじめ事件について、「教育現場に必要なのは人権教育ではなく道徳教育だ」と喝破していました。鋭い指摘だと思います。私はそれに、いじめなんでいうのは絶対に割に合わない互いにとっての損失だと、損得勘定も加えて教えればいいと思うのです。
たとえ本質論から外れていようと、今そこにあるいじめを少しでも減らすためには、ありとあらゆるレトリックと法体系、マスコミその他を通じた社会的制裁を行使し、とにかくいじめなんてやってられないよ、という状況を一刻も早くつくるべきだと愚考しています。私は個人的な体験もあり、何が嫌いと言って、いじめや差別ほど嫌いなものはありません。
コメント
コメント一覧 (42)
とかくこういう事件が起きた時、日ごろ「人権、人権」と叫ぶ人たち、「平和、平和」と叫ぶ人たちはダンマリを決め込むんですよね。(民主党の輿石さんや前文科大臣の地元の川端さんとかも)
> 損得勘定も加えて教えればいいと思う...
自身の記憶を辿れば、刑法41条における「14歳に満たない者の行為は、罰しない」という規定を文言通り捉えて"触法"に奔る様な糞ガキが多いという認識があります。
卑劣な行為を行って悦に入る様な残虐性を持つだけの素地はその行為に及ぶ時点迄に養われている場合が多いし、本来該当の親世代にあたる我々自身が道徳無用論の中で義務教育を施されて来たという背景もある故、相当社会的な要素を損得勘定に盛り込まねば難しいのかも知れません。
まあ言える事は現状の人権教育なんぞ、不当な差別の廃絶に何ら寄与してない...と言う事ですね。 「権利の行使は公共の福祉を犯さない限りに於いて容認される」という原則から考えさせるべきだとは思うのですが、"公共の福祉"という万能語を使うが故に危険な面もあるからなぁ...寧ろ宗教の方が効果的なのかなぁ...と思ったりします。
>何が嫌いと言って、いじめや差別ほど嫌いなものはありません。
この一文を除いて、全ての部分に同意しますが、さてこの一文について、阿比留さんと私の認識が果たして同じなのかどうかと、少し迷っております。
私の持論として(傲慢な言い方ですが)…
「いじめ」も「差別」も同様に、人間と、その社会に絶えず付随する属性なのだと思います。なので、好き・嫌いという表現について、少し引っ掛かりを感じるのです。
私も(は)、「いじめ」、「差別」は人間の行動として最も忌むべきものだと思っています。だからといって、自分がその加害当事者ではあり得ないとは思えないのです。そうだと分かって「いじめ」た覚えはありませんが、自分のこれまでの人生全てを顧みて、「いじめ」も「差別」もしたことがない、とは断言出来ません。いやむしろ、きっとどこかでそういうこともあったのだろう、今現在もあるのかも知れないと、そういった懐疑や自戒を忘れてはならないのだろうと、絶えずそう考えて生きているつもりです。
事件が起きれば「加害」と「被害」の構図を規定せざるを得ません。しかし実際には、その関係性は私達の日常の中で絶えず図らずもそこに陥るリスクを、全ての人間が携えて生きているのだと思います。
…と言ったことは、格好良く言えば哲学的に過ぎ、実際にそんなレベルのことを実生活や、今回起きてしまった事件の中で引き摺っていたのでは、ご飯も食べていられません。
とにかく犠牲者を生まないためのセーフティネットを張ることが現実的な対応であり、法治国家という前提でいったい何が出来るのか、ときどきの政府は何をすべきなのか、その仕組み作りに真摯に取り組まない政治家など不要です。
「いじめ」や「差別」という現象(従って可視的なもの)を憎むのではなく、そういった人間の性を忌み嫌い、憎む精神を出来るだけ多くの人が共有出来るようにと、そこを真摯に問う社会こそ成熟したそれだと考えています。
一般論としての、「いじめ」抑止について阿比留さんの訴えは有効だと思います。ただ、もし私が阿比留さんと今をともに生きる友人であれば、阿比留さんを負のエネルギーから解放出来るのは阿比留さん自身が、過去と他者を赦すことしかあり得ないと、甚だ生意気ながらそう言うと思います。
「いじめ」について家族と話し合っておりました。
タイムリーにエントリをいただきました。
大津の悲劇に対し、周辺の教育者、警察、大人たち、それにいま警察に事情を聴取されているという加害容疑の数人の中学生と、その家族などに共通していると思うのは、①「自分は悪くない」と責任を逃れる、②「自分は知らない」ととぼける ③「出来ることならば、自分は関わりたくない」と見て見ぬフリをする...です。
まるで、アレの言動とそっくりです。
悲しいかな、いつの時代も下々は「えらい上の人々の言動」を真似するのですね。
一体いつから日本人はこんな卑怯な国民になったのでしょうか。
やはり、戦後間もなくから始まった日教組教育のツケが回ってきたのだと考えます。子供たちは誤った家族観を植え付けられ、愛国心を削がれ、誤った平等主義と、己の権利を主張する術を学ばされてきました。大津の場合に限らず、いま社会の指導層にある60代の人々は、どっぷり、この日教組教育の畑で育てられた世代です。
”教育者”といわれる人間の中にも「教育に政治的中立はありえない」とか「教師は労働者であって、聖職ではない」などとアスキューな発言をする者がいて、なお且つ日本の政治の中枢に存在することは、不幸なことです。
いま日本人に必要なものは、世上に蔓延る形だけの心ではなく、武士道とまでは言わないが、真の心、すなわち「礼儀を重んずる」「卑怯を憎む」「恥を知る」侍たちの精神ではないでしょうか。
60余年の日教組教育を正すには、やはり同じ歳月が必要でしょう。が、どうしても往年の日本人の美徳を取り戻したいものです。
悠長なようですが、それが「いじめ」を憎み、「いじめ」を根こそぎにできる人間を育てる近道だと考えます。
とまれ、早く総選挙の日が来ないでしょうか。
その記事はネット上で読んで、本当に共感しました。
「いじめる側にも人権はある」などと主張する輩にはぞっとします。
ネット上での加害者へのバッシングを問題視する記事も溢れていますが、こうなったのは事実を誤魔化し、隠蔽し、エセ人権主義を振りかざす学校・教育委員会などに対する怒りが噴出した結果でしょう。反省の見られない加害者やその保護者、無能な教師や教育委員会には、それなりのペナルティが科せられることを願わずにはいられません。
昔は、いじめは今より多かったと思いますが、苛められたら、武道系を始めるか、強くまともな子を仲間にするかで抵抗しませんでしたか?これで殴り合いになる事もありますが。最近の報道を見る限り、教室でも いじめを見ぬ振りをしている様ですね。ここが最大の問題・・・一般社会でも同じですが。
教育の再構築が急務でしょう。日本の子供にプライドを持たせ、守り、育てる、この当然の事ができない悪質な教育委員、教員は当然クビだね。
国旗・国歌反対なんて論外、偏向歴史教育も論外、悪質な政治活動も論外、特定国の走狗になるのも論外。日本の税金で雇われている公務員だろう、いやなら辞めたら良い。
とはいえ、あざができたり怪我したりしたこともなく、
今となってはたいした事はされてなかったと思いますが、
それでもその時は死ぬことと殺すことばかり考えてました。
1年間、死ぬことと殺すことを考え続けたんです。
加害者は、そういう恨みを自分が持たれることを考えるべきです。
被害者はあなたに復讐するとは限りません。
親や恋人、子供に何もないとも限りません。
例えば、加害者の子供の前で自分の首をナイフ掻っ切って自殺するとか。
もし自分の余命が半年なら、そういう復讐をすることをためらう自信はありません。
阿比留氏の論法では中国・韓国とも日本を永遠の敵と思うしかない。
「被害者やその関係者がどれだけ恨むか呪うか、殺意を抱くか」と。
なら南京問題や慰安婦問題で日本は呪いや殺意を甘受するしかない。
自殺した理由がいじめなのかどうか、事実がどうなのか分からないのは同じだから。
そして、このネット上のバッシングはなんとかするべき。同姓同名とかの赤の他人に迷惑かけてる。これっていじめだろうに
それは論点のすり替えです。
それを言うと今の日本人は原爆を落として
多数の民間人を虐殺したアメリカを永遠に敵だと思わなければなりません。
また、ネット上のバッシングは確かに問題ですが
明らかにいじめとは違います。
わざとなのかは分かりませんが、何故そのような見当違いの方向に持っていこうとなさるのでしょうか?
それはそれとして、私としては今回の話は
いじめなどという生ぬるいものではないと思います。
報道やネットで言われていることが事実ならば
複数による犯罪です。
犯罪者から子供を守るべき人達が全く動かなかった。
そのために結果、犯罪者に殺されてしまった。
色々言われていますが、結局こういうことだと思います。
朝日新聞の「いじめられている君へ」とかいう、
何の救いにもならないしょうもないシリーズを読んで、
またこの人たちは自己満足の自己陶酔で小遣い稼ぎしとるわ、
とげんなりしているところでしたので、八木氏の慧眼には救われますね。
従軍慰安婦問題も、いじめとカツ上げの構図にほかなりません。
電力会社の社員は発言すら許さない、というのもまったく同じですね。
しかしまあ、日教組だの教育委員会だのの、
とにかく自分たちには責任はなく、責任はないというためには、
いじめはなかった、少なくとも気づかなかった、原因は他にもある、
と屁理屈をこじつけなければならず、にっちもさっちもいかなくなれば、
たとえアンケートにあっても気づかなかっただなんて、
下手なうそでもとにかくいいぬけるしかない、と、
誰かがが法律上の助言をしているようすですが、
まあなんというか、くそったれ、の一言ですね。
日教組が支持基盤の政党やマスコミの、
なんとやんわりとした対応・報道だろうか、
と、ニュースを見ながら毎日驚愕しております。
>犯罪者から子供を守るべき人達が全く動かなかった。
>そのために結果、犯罪者に殺されてしまった。
>色々言われていますが、結局こういうことだと思います。
私も、次第にそういう印象を強めています。atoms3001さんがおっしゃっていたように、〈①「自分は悪くない」と責任を逃れる、②「自分は知らない」ととぼける ③「出来ることならば、自分は関わりたくない」と見て見ぬフリをする〉という小役人根性の持ち主ほど、普段は、やれ平和だ、やれ人権だとキレイごとをならべているのですが、いざとなれば、我が身可愛さから、保護すべき生徒が犯罪に巻き込まれて命を落とした可能性から、目を背ける、とても醜い心根の持ちであることが多いことも今回再認識しました。ここで民主党批判をする気はないのですが、それにしても、滋賀県大津市の教育関係者一同と歴代の民主党執行部の言動パターンがそっくりなのには、思い半ばに過ぎるものがあります。
阿比留さんの、自分の体験を交えた「イジメは損」という考え方に、心からの賛意を表します。いじめられ、命まで奪われた側の怨み・つらみは、一生消えません。そういうリアルな人間認識に基づかなければ、被害を受けた人間に対する深い共感は生まれません。そこに根ざさない論は不毛であるとも思います。加害者を「許す」ことの方が人間として高級だ、などという考え方は、弱者の辛さに根ざさない非人間的な寝言であると思います。
大津の事件は刑事事件として、国民注視の中で真相を明らかにすればよい。
他の生徒は、自分がアンケートに書いたことは嘘、とみられたことに抗議すべきであろう。
わしらの時代は、番長がいたから、同じ校内でいじめなどさせなかった。他校にいじめられたときは、番長がでばった。
自分の経験では、同じ地区の小さい子が、「あの子がいじめる」と言ってきたので、その子を注意した。やさしく・きびしく。
好きだった子のランドセルを蹴飛ばしたことがあった、本人は愛情とうけとらないね、いじめられた思ってるかも。AKBの板野友美タイプでした。
1。PTAの会長の息子が関係しているとの事ですが本当でしょうか。親がその権力を笠に着てもみ消そうとしてはその会長の息子の将来に全然ためにならない。
2。いじめは周りの人が必ず気がついている。グルである可能性がある。其れを訴えても誰も信じてくれない。担任の先生、校長、教育委員会、警察もこのケースはグルでした。是ではこの子供は自殺するしかなかったのも頷けます。
3。親は自分の子供の成績が下がりだした、携帯電話の使用度が極端に減って恐れているようだ、痣が耐えない、不登校がち、引きこもりがち、金銭の使い方に変化が出て来た、おびえている、食欲が無い等自分の子供の変化に気をつけるべきです。
4。アメリカにSOUTHERN FRIED STINGと言う探偵団がありその素晴らしい働きはこのようないじめの対策に役に立つのではないかと思います。疑わしい場合尾行して
虐めの実態ををビデオに治め親を現場に呼び寄せ、ときには警察にも知らせます。日本にもこのような職業があっても良いのではないか。どの街にあっても良いのではないでしょうか。もみ消される事はありません。子供の命に関わる問題で徹底して根絶すべきです。
いじめを撲滅させる。
パワハラ、セクシャルハラスメント等
もいじめの一種であり
企業は健保、労働組合
学校は生徒会、PTA
いじめ撲滅運動をヘルプラインで
取り組む!
心の健康が
肝要。
全くご指摘の通りです。
中学生の頃、いじめた相手にかかって行ったら体の小さい俺は、ものの見事にやられた。いじめる奴は強い。次の日からは腫れあがった左目に眼帯もせず、五寸釘をポケットに忍ばせ、いじめた奴を恨めし顔で見続けていたら、奴は俺を避けるようになった。当時の担任の先生も俺の腫れあがった顔を見ても知らん顔であった。
こんなくだらん事をまだ覚えとる。('_')
中東諸国の例を挙げるまでも無く。
日本とて法治国家である為に目立たないだけで「復讐の目」は
有るのですよと(^_^メ) 乱世になると尚更殺意が頭を
もたげてくる、社会危険の兆候です。
大昔には「掟」という概念が御座いまして・・・・・・・
死刑廃止論を叫ぶ者に限って「加害者の人権」とか抜かして
いる印象もありますしね(^_^メ)
本質は「復讐を許さない社会作り」であり、サヨクの考え方
だと却って復讐を促す危険性を孕んでいますね(^_^メ)
「制裁」は正しく為さなければ成りません。
そんな辛い体験があるんだ。それを公表するなど、誰もしたくないだろうな。でもあえて公表したのは、今後のいじめをなくす、最も有効な手段のひとつを知らしめる為。
そう勝手に解釈しました。
阿比留さんの勇気、というか、強い意志を感じます。
ますますファンになりました!
応援してます。
それにしても、皆様の書き込み、色々な考え方があるんだな〜・・
同様にいじめられっ子にいじめっ子の気持ちも分かりません。
だから阿比留さんの理論は間違いです。(笑)
阿比留さんの仰るように、いじめられっ子が成功者となって、
かつて虐められた相手に復讐する。
ありそうでありえない話です。
そもそもいじめられっ子が社会的に成功する例が少なく、
阿比留さんは例外なんですよ。
じゃあいじめを無くすにはどうするか。
いじめっ子にいじめられっ子の気持ちを分からせることです。
パトカーの追跡をマスコミが叩くから、パトカーが追跡できなくて、
パトーカーから逃げる凶悪犯が増えた。
教師の体罰(暴力ではありません)をマスコミが叩くから、
萎縮して体罰を使えなくなった教師がいじめを止められない。
大津事件では、PTA会長の息子の怯えた教師がことを大きくしてしまった。
ビラを配るPTA会長です。
今回の事件は、サヨクとマスコミに責任の大半はあると思いますね。
日教組や教育委員会のもたれあいなんて事後処理の話です。
いじめを無くすのは現場の教師。
その教師を萎縮させたのはマスコミです。
そう言えば永田町でも壮大ないじめが・・・(笑)
教育委員会側の味方、加害者にも人権が・・・などと言うんでしょうね。
これは、天下分け目の戦いになるかもですね。
ところで、もうクールビズ限界で、あたまがルーピーになりそうだ、クーラー点けてもいいかな。
>ここでいつも苛められている~あほぅ♪はいつまでも忘れません。
反論されるのを「苛められる」などと認識するなら、コメントを書かなければ良いのです。 そうすれば「苛められ」ませんよ。
反論される事を「苛めらている」と言う認識の人間がいるから、イジメとか差別とかの問題が曖昧になるのです。
人間誰でも賛成出来る意見とできない意見、敬する人と軽蔑する人、好きな人と嫌いな人があります。
他人をどのように評価するか、他人とどのように付き合うかは、人それぞれ自分の意思で自由に判断する権利があるのです。
だから他人に侮蔑されるとか嫌われるとか、或は馬鹿な意見を述べて、それに反論される事を「苛め」とか「差別」などと言うのはナンセンスなのです。
しかし人権侵害救済法案などは、この曖昧さに付け込んで言論の自由や表現の自由、思想の自由などを奪おうとしているのだから、この曖昧さは実に厄介です。
ワタシは子供の「苛め」の問題はもっと定義を厳密化するべきだと思います。
「苛め」と言って済むのは「仲間外れにされる」「悪口を言われる」ぐらいまでで、今回の大津の事件のような物は集団暴行、恐喝、自殺教唆などの犯罪として教育ではなく司法の手で処理すべきだと思います。
学校で開かれる集会に他の生徒の親が来て教員をなじる、という
パターンが繰返されます。
今回もそういった責任有る立場の大人が責められるのは当然でしょう。
でも自殺した少年が踏みとどまれなかった最大の原因は、まわりの
子供たちから見捨てられたことだと思います。
ずっと友達だとおもっていた子、幼なじみ、親しくはないが同級、
同学年のその他大勢の子供たち。
彼らはいじめが始ったとたん、潮が退くように彼の周りから去って
行ったのではないかと想像しています。周囲の子供たちの多くが
虐めの事実をしっていたのに、誰ひとり救いの手をさしのべなかった。
巻添えをおそれ、見て見ぬふりをした。
事が起ってからアンケートで何を訴えようと、それは手遅れなのです。
今や学校の教員たちを譴責する側に立っている他の生徒の親たち。
あんたたちの子供も、虐めの犯人と同罪なんだよ、、、と指摘して
おきたい気持です。
社会人を含めた一般論では「苛め」の線引きが難しいですね。業種によっては教育の一環として入門者に対して一年間「いけず」をするという慣例もあるもので。
> 今いじめている相手から、一生恨まれ、機会あれば
> 復讐される覚悟があっていじめていますか。
意識的に苛めたことは無いつもりですが、何が相手の恨みを買うかは判らないのが現実ですから、復讐される覚悟と返討ちにする覚悟はあります。
相手に敬意を表わす意味での「手加減なし」が相手からは苛めになってたりするのでなかなか難しいです。
> いじめられた側は、絶対に忘れません。
それは疑問です。いや我が身に引き換えてですが、
若者の頃は、体の傷は治りが早く心の傷は治りが遅かったのですが、歳を取ると体の傷はなかなか治らないのに、心の傷はいとも簡単に治ってしまうものでして、今日「殺したろか」と思うことも翌日はどうでも良くなっているものですので。
理不尽に対する耐性もつけなくてはならないし、何処からを悪の行為と見なすか、絶対基準をたてることは難しいです。ただ「やりすぎ」は防ぎたいですね。
一案として、制度としての復讐、乃至、決闘を設けるのは如何かと思います。
超単純には、決闘を申し込むと、申し込んだ側に不利な確率で賽が振られ、双方のどちらか一方が殺される。有利とは言え、申し込まれる側も怖ろしいのでやり過ぎは抑制されます。
まずもって、加害者側(子供に)に駄目なものは駄目だという大人の意思表示が必要です。
いじめが死に至らしめたのであれば、死でもって贖ってもらう。それが人の道理です。
駄目なものは駄目なのです。【いじめ】に人権、理屈はいりません。【いじめ】は【卑怯者】のすることです。
【卑怯】は許さない社会が日本です。
これは元を辿れば教育問題であり、戦後教育を一から見直すべきだと考えます。
いじめ、なる行為が無くならずとも何か寄る所が無いとこうした悲惨は繰り返されるでしょう。
これは日教組や教育委員会などを問題ありと思いつつ見逃してきた私たち自身の問題でもあります。
否には否を突き付ける事がこれから必要だと思っています。
民主党における仙谷菅らによる小沢一郎イジメは酷かったです。
政治家があのようなふるまいをするから、子供が真似をするのではないでしょうか?
あれだけいじめられれば、小沢氏が離党するのは当然です。
イジメって、根絶できるものなんでしょうか?
私は疑問に思っています。
>イジメって、100%悪いことでしょうか?
100%悪いことと私は思います。
もし「こんなケースは?これも悪いこと?」というのがあるならそれはイジメではありません。
コメント欄をざっと見ての感想ですが、何度かに分けてエントリーされた方がよいと思いました。
「いじめ」という言葉で一括りにしてしまうと、どうも世代による捉え方の違いや、阿比留さんの捉え方、そして今回の事件、とかなり違っているような気がします。
(中には別枠の話で終始されているものもありますし。)
また、今回の事件についても、あらゆる「当事者」(該当の生徒両方側・それぞれの親・教師・学校当局・上部組織・警察など)について、検証する必要のあるもので、色眼鏡や紋切型でただ1者だけを「あいつがわるい」「これが原因」というものではないと考えます。
今回の件に関しては、今回の事件が起きるまでに教室の内外で起きていたことは「いじめ」のレベルを超えて「犯罪行為」もその中に存在した可能性が高いので、今や警察も看過できない状況になったのだと思っています。
いずれにしろ、複数回エントリーなさる方がより篩にかけられてよいと思います。
当時、同級生にM君という無口で大人しく成績が悪い少年がいて、この子
が我々の虐めの対象になった。
ガキ大将が中心になりM君をからかい、叩いたりして、私も一緒になって
いじめていた。
虐めが何日か続くと、ある日M君が突然切れて反撃してきた。
私たちグループの子分達には目もくれず、ガキ大将に突進して取っ組み
合いの喧嘩になった。
激しいもみ合いのうち、M君が鼻血を出したので私たちが引き離して喧嘩
を止めたが、その喧嘩の後私たちは決してM君には手を出さなかった。
私たちはM君の反撃が怖かったから虐めを止めたのだ。
もしあの時、M君が反撃してくれなかったら、私たちは彼が自殺するまで
虐め続けていたのかもしれない。
虐めの根底には未熟な暴力の快楽があり、根絶は不可能と思われる。
中学生程度では暴力の快楽には勝てないし、虐められる相手の心情を思
いやる想像力も発達していない。
我々が虐めを止めたのは恐怖心だった。
現在の教育界は虐めがあることを必死になって隠蔽し、虐めが発覚すると
蜂の巣をつついた様に大騒ぎする、滑稽としか言いようがない。
人間の世界に虐めがあるのは隠しようがない現実である。
その事実に向き合って虐めを克服する勇気や処方箋を子供達に教える事が
教育者の務めではないのか。
私は虐めを受けている子供たちに言いたい。
死ぬ勇気があるのなら、1度でいいから死にもの狂いで反撃してほしい。
君が必死に反撃すれば相手は必ず怖がって虐めを止める。
そして虐めをしている子供たちに言いたい。
一生後悔するから止めろ。
どぶ川 ですか。最近とんと見かけません。みなコンクリートとアスファルトになってしまいました。メダカやザリガニを思いだす懐かしい言葉でした。
『Back to the future}1985の中で主人公 MARYの父、若いGEORGE McFLYがガールフレンドLORAINEとのダンスパーテイでBIFFにいじめら強姦されようとした時に
G McFLYはガールフレンドを守れずに、BifIFF一味に散々辱めをうけた。
1。ヒヨンな所からGEORGEが力を得て BIFFをノックアウトする。
2。Georgeは目出度くガールフレンドと結婚して実業家として成功した。 BIFFは自動車のデテエイルマン/洗浄者 AUTO DETAILMAN/WASHERになってMCFLYによ呼びつけられて車庫の前でジョージの車を洗って、やり方が悪い、手を抜いた、誤摩化したと散々虐められてやり直しをさせられた。立場が入れ替わり復讐の話、
>
>イジメって、100%悪いことでしょうか?
>イジメって、根絶できるものなんでしょうか?
>
>私は疑問に思っています。
この論点については、よもぎねこさんの視点でおおむね解決できるのではないでしょうか。
>「苛め」と言って済むのは「仲間外れにされる」「悪口を言われる」ぐらいま でで、今回の大津の事件のような物は集団暴行、恐喝、自殺教唆などの犯罪と して教育ではなく司法の手で処理すべきだと思います。
つまり、教育が対象とする「苛め」が、心身の具体的脅威にまで程度がはなはだしくなった事態は、「苛め」とは区別して、「犯罪」として司法の対象になる、という考え方が常識になることが必要なのではないでしょうか。
その場合、〈教育関係者の責任は、「犯罪」の被害者である生徒の保護者に事実を告げることである〉という考え方を徹底することが必要と思われます。
つまり、われわれ自身が「自分で抱えきれない問題を抱えようとするのが良い教師」という共同幻想から訣別しなければならないのではないかと私は考えます。
そうすると、現場の教師たちもいい意味で大分楽になるはずです。現場の教師のストレスを増やす方向で世論が沸騰するのは、彼らが預かる生徒たちや保護者にとって得策ではないと考えます。
>つまり、われわれ自身が「自分で抱えきれない問題を抱えようとするのが良い教師」という共同幻想から訣別しなければならないのではないかと私は考えます。
>
>そうすると、現場の教師たちもいい意味で大分楽になるはずです。現場の教師のストレスを増やす方向で世論が沸騰するのは、彼らが預かる生徒たちや保護者にとって得策ではないと考えます。
とても参考になる視点を、ありがとうございました。
どこまでがイジメか? という定義すら無い状態で、また、イジメが、どんな状態でどのように発生・エスカレートするのか、といった基本的な観察をすっ飛ばして、精神論・道徳論・日本的教育批判・戦後教育批判…などばかりで、疑問を感じていました。
2。担任に言っても全然相手にしてくれない。
3。加害者の親はPTA会長で担任も校長も、教育長も、警察も金で丸め込まれている。
4。お前が黙っていれば丸く治まる。
5。友達に相談しても聞いてくれない。友人は恐れているのか、友人もどうしようもない事を知っているからか。
八っぽう塞がり、いじめていじめて虐め尽くされた。自殺の練習までさせられては。可哀想に。誰かが言っている様に是は明らかに犯罪。担任、校長、教育委員長も含めて隠蔽に加わったPTA会長も処罰されるべき。警察よ本腰を入れて処理せよ。PTA会長に丸められたら我々が承知しない。
いじめの問題についての記事、有難う御座います。
教育現場の学校の実態に恐れおののくばかりです。
連日の新事実発覚には日本国の滅亡を見るようで恐怖の連続です。
教師の堕落の背景には、教育委員会を始めとする日教組の暗躍を感じます。
教育長の言動には、治外法権と化した教育現場の崩壊を目の当たりにします。
7月20日の新聞記事に被害者が児童相談所等の2施設に行ったと言うことで
開いた口が塞がりません。
世の中全てに見放されたか、あんな良い子が、、、、
教育委員会の去就が問題でしょう。
少年法改正も視野に入ります。
文科省の体制側の防止策が何の役にも立たなかった。
日本人は何時から、勧善懲悪の心を忘れたのだろう。
大多数が由としても、吾一人は別の道を歩まんとする気概は何処へ
失せたのだろう。
教育が皆同じと言う個性を忘れた所に、個人への蔑視がある。
日教組教育の弊害は、皆同じアンポンタンにある。喩えるなら、障害は
少し違う個性のあり方という事実を認めない固まった見方にある。
君が気持ち良くても、私には苦痛と言う相手を思いやる気持ちの
喪失に、幼児性を持続している。大人になりきれない教師が、
子供の多様性、今回の事件では生命まで蔑ろにした。
死者に対する冒涜は限りなく憤りを感じる。
子供の世界に、大人の不真面目さや御都合主義が食い入り、
予見しない事態を生み出した。
いや、自殺教唆なら望む方向へ導いたと言い得るだろう。
世論は状況に、適正なペナルテイを要求している。
この子供達が将来に渡って、生み出す弊害も大きいが、
大人達の醜悪な姿は、この世の者とも思えない。
修羅餓鬼道と見るべきか、これほど、腹の立つ事件も無い。
子を持つ親達は、「子供をいじめから守る方法」と言う文章を
争って読むであろう。大事な我が子を守るために。
学校サバイバル教本ですね。
文科省、警察、教育委員会、大津市、教員、罪は尽きない。
>だれが責任がある、ないなんて問題ではない。
>学校が悪い、先生が悪い、教育委員会が悪い、親が悪いと言ってる場合じゃないでしょう。
輿石のこの発言は、輿石が、ルーピーや小沢や菅のように、
中身のないパープー発言をした、ということではなく、
まさにこれが日教組や社会党の考え方なのだ、
サヨクの思考そのものである、
ということが重要ですね。
責任が他者にある場合は、徹底的に糾弾し、
責任が自分側にあるときは誰にも責任がなく、
誰も責任を取らなくていいようにできる能力。
これが彼らの世界で必要とされる能力であり、
すなわち彼らの世界で出世するために必要とされる能力です。
輿石のこの発言は、
今回の件の担任やら学校やら教委やらの態度そのものですね。
厳しく統率された組織です。まさに軍隊並み。
軍隊、全体主義が大好き組織ですから。
あるいは「差別」の言葉の持つ意味が私と阿比留さんで違いがあるのかな?