いじめ、についてであります。以前のエントリかコメント欄でも書いたことがあるように思いますが、私も小学校1、2年生のころ、通学班の上級生からいじめられたことがあります。言葉でのいじめのほか、通学途中、ただでさえ3月生まれで体の小さい私を、彼らがからかいながら冬のどぶ川に突き落としたことなどを、今でもとてもはっきりと記憶しています。毎日がとても辛く、苦しかったことは忘れようがありません。

 当時の私は、とにかく3年生になればあの嫌な、怖い上級生たちが卒業すると、「3年生」という言葉に強い憧れと救いを感じていました。それから数年たって中学生となり、少しは体も大きくなってきたころには、かつて自分をいじめた上級生たちを道を見かけたりした際には、体格差が小さくなった今ならどんな抵抗・反撃ができるだろうかといつも考えました。

 ふだんは特に意識することはありませんが、今回の大津市のいじめ自殺事件のような悲惨で限りなく陰惨な事件をみると、約40年前、世界が限りなく狭かったころに、逃れることのできない相手から受けた苦痛、屈辱、絶望、復讐心……など負の感情をまざまざと思い出します。

 大津市の件では、何より問題なのは学校と現場教師であり、事実上、学校と共犯関係にあった市教委であることは間違いありません。私がこのブログでしつこいぐらいに書いてきた山梨県の事例を引くまでもなく、教育委員会の事務局は教師の出向者の集まりであり、教育長の多くは教師の退職後の天下り先であり、今回の事例では詳しく把握していませんが、そうしたもたれ合い構造の背景には教職員組合の存在があります。

 しかし、きょうはあえて、そういうシステムよりも、今現在も好んでか周囲に巻き込まれてか「いじめ」を続けている児童・生徒に言いたいことがあります。今回の大津市の事例のように、刑事告訴にまで至ることは稀で滅多にないことでしょうが、そうはならなくとも問いたいのです。

 あなたは、今いじめている相手から、一生恨まれ、機会あれば復讐される覚悟があっていじめていますか。あなた自身は軽い気持ちであり、いつか相手のことを忘れても、いじめられた側は、絶対に忘れません。この切実で悲壮な思いに時効などありません。相手は常にあなたの存在を不快かつ排除すべきものと思い続けます。将来、仕事や何かの事情であなたと相手が再びあいまみえ、関係を持たざるをえないことだってあるのです。私も、今は生活上、何の関係もないHやSとどこがでかかわりを持てば、決して平静を保てないし、許すこともないでしょう。

 まして、相手を死に追いやるようなことになれば、相手の親・親族をはじめあなたを決して許さない人たちが大量に生まれます。法律がそれを認めないだけで、できるならば、きっかけがあればあなたを殺したいと心底願い、ずっとあなたを呪い続けるのです。今回のように事件化すれば、相手の関係者だけでなく社会もあなたを敵視し、排斥します。

 いじめは、決して軽い気持ちでしたで済む問題ではありません。人の持つ最も強い負の感情を背負い、あるいは浴びせ続けられる結果を生むだけです。そんなとてつもないリスクを背負うことを覚悟してやるほど、いじめなんて爽快でも愉快でも何でもないことだと思います。もともと病的な嗜好を持つならともかく、どうしてもいじめに加わらなくてはならない理由などありません。

 教育現場には、ただいじめが悪いことだと説くだけではなく、いじめは「一生涯の怨恨」を招き、多くのリスクが伴うものであり、そんなことをするのはとんでもない軽蔑すべきバカかルーピーかアレだと諭すことを望みたいところです。

 先日の夕刊フジの記事で、八木秀次氏はいじめ事件について、「教育現場に必要なのは人権教育ではなく道徳教育だ」と喝破していました。鋭い指摘だと思います。私はそれに、いじめなんでいうのは絶対に割に合わない互いにとっての損失だと、損得勘定も加えて教えればいいと思うのです。

 たとえ本質論から外れていようと、今そこにあるいじめを少しでも減らすためには、ありとあらゆるレトリックと法体系、マスコミその他を通じた社会的制裁を行使し、とにかくいじめなんてやってられないよ、という状況を一刻も早くつくるべきだと愚考しています。私は個人的な体験もあり、何が嫌いと言って、いじめや差別ほど嫌いなものはありません。