まあ、いろいろあります。ここ数日は、従兄弟の結婚式であるとか私的なことに主に時間を費やしていました。政治マターに関しては、各紙の朝刊をチェックし、政治部内の取材メモをメールで読みチェックする程度で、半ばぼーっとして過ごしました(いつもか?)。

 で、何の脈絡もありませんが、つい最近、後輩の杉本康士記者と話していて、今西錦司元京大教授の「私の進化論」の話になりました。

  私は学生時代に今西氏の著作がけっこう好きで繰り返し読んでいて、ダーウィン的な適者生存の論理より、今西進化論の「キリンは首を長くしたいから長くしたいのだ」「牛の仲間が鯨になるためには、進化の過程でどっちつかずの環境にも生存競争にも不適応な長い年月が必要で、適者生存でそうなったのではなく、なんとしてもそうなりたいからそうなったのだ」という説明(あくまで私のうろ覚えです)の方がはるかに説得力があるように感じていました。

 当時、今西氏と吉本隆明氏の進化論に関する対談なども読み、あまりに全くかみ合っていないのに笑うしかなかったのも印象深かったですね。さすがの吉本氏もどこかたじたじという感じで……。そういえば、やはり政治部の後輩の比護義則記者も学生時代、今西氏の著作をけっこう読んだと言っていました。

 そんなことを杉本記者と話していたところ、月刊WiLL9月号の「蒟蒻問答」欄で、たまたま久保紘之氏(弊紙OB)が今西氏に言及して、「今西錦司の言葉を捩れば『(すべてが)駄目になるべくして駄目になる』。何も政治だけが突出して駄目になっているわけではない」と語っていました。

 以前のエントリでも書きましたが、まあたまたまなのでしょうが、一つの人名なりキーワードなりが頭に浮かぶと、そういうときに限って周囲の会話やメディアでそれまで何年も見聞きしなかったようなそれと次々に出会うことがあります。無意識にそれを探しているから、そうなっているだけなのかもしれませんが、こういうところからモノを考えるヒントをもらうこともたびたびです。

 そこでせっかくなので、今西氏の著書「私の自然観」から、最初に読んだ四半世紀前より重大な意味があるなあと感じている部分を引用します。野生のチンパンジーの使うシロアリ捕食の際の道具と人類のそれとの比較の中での話ですがねまあ、私が重要と思ったというだけで、別にだからどうだというわけではないのですが。

 《(前略)われわれが一般に道具と呼び、人類学者が物質文化というものは、もうすこし永続性のある道具でなければならない。では、そういう道具として、人間の最初につくったものは、なんであったろうか

私は、それは武器であった、と思うのである。みずからを守り、猛獣とわたり合うために、人間自身の身体にどれだけの武器が用意されていたか。ニホンザルでもチンパンジーでも、いざとなったら噛みつく牙をもっているが、人間にはそれすらない。人間にとって武器は絶対に必要であった。それも、一人一人の人間に必要であった。そのうえ、それは四六時中肌身離さず持ち歩くことが必要であった

 ……人間の業というか宿命というか、どういう社会が理想であるかという問題とは別に、人という生き物はそもそもどういう成り立ちを持つ、どういう存在であるかということは、やはり押さえておかなければならないのかなあ、と思ったり、思わなかったり。

 あと、誰の言葉か出典がなかなか探せないのですが、やはり学生のころに読んだ動物行動学者か生物学者の言葉で、

 「自然は生き物を生かすようにはできているが、楽に生かすようにはできていない」(これまたうろ覚え)

 というのもとても「ああ、なるほど。そりゃそうだな」と納得して記憶に残りました。自然状態は楽園でも何でもないと。……すみません、本来は正確な言葉を引用すべきところですが、本日の私(これまた本日に限らない)は多少、酔っていることもあり、昔読んだ本が散逸し、今の書棚に必ずしも残っていないこともあり、勘弁してください。

 現実政治と関係のないことを長々と書きましたが、ただ、こういう学生時代にあれこれ考え、仲間と議論した話も、私の中では現在の政治現象を含めていろいろとモノを考える背景、世界認識の基礎になっています。ホント、本は大切だと思う次第です。