2006年06月

 今朝、テレビをつけてチャンネルを適当に回していたら、「みのもんたの朝ズバッ!」に自民党の加藤紘一元幹事長が出ていていました。話す内容はほぼ予想できたのでチャンネルを替えようかとも思いましたが、まあ聞いてやらんでもないと鷹揚に構えていたところ、二人は次のような趣旨の話(すいません、メモをとっていないので、正確ではありません)をしていました。

 

 みの氏 「東京裁判、でしたっけ。これは今さら否定したり、文句言ったりしてはいけませんよねえ」

 加藤氏 「そういう人が若い人に多いんです。学者や一般の人がいうのはいいけれど、政府のトップや政治家がそれを言ってはいけない」

 

 ふとコメンテーター席をみると、社民党の福島瑞穂党首の姿もありました。番組終了直前、みの氏が「加藤さんが自民党総裁選に出馬したら、大変なことになるでしょうね」とふったら、まんざらでもない顔で平静を装った加藤氏の表情が印象的でした。

 

 それにしても、東京裁判批判が許されないなんて、自分が何を言っているか分かって話しているのでしょうか。これでは、判決を従容として受け入れ、刑場の露と散った方々が浮かばれない。そんなことをいえば、約1000人もの人が処刑されたBC級戦犯の裁判(かなりの部分が冤罪だったとされます)も批判できないことになりかねない。

 

 一般の裁判でわれわれが判決を受けてある刑が確定した場合、われわれはそれを受け入れざるを得ません。しかし、たとえば刑期を終えて出てきたあと、「あの判決は公正ではなかったよね」「量刑はいいかげんだったね」などと批判することや、検証することも許されないということはないでしょう。それとこれとは別の話です。

 

 第一、東京裁判については、裁判を実行したGHQ幹部や戦勝国の判事の中からも批判や疑問の声が相次いでいます。裁判をやった方が反省しているのに、された方が「いや、いい裁判でした」というなんて変ですよね。以下、東京裁判に対する批判や異議をいくつか紹介したいと思います。

 

 「裁判条例は、被告に弁護のために十分な保障を与えることを許していると自分は考えるが、実際には、この保障は被告には与えられなかった」(東京裁判のフランス代表判事だったベルナール )

 

  「東京裁判は結論だけで、理由も証拠もない」(1950年の英国・国際事情調査局発表)

 

 「あの裁判は誤りだった。もしあの裁判がいま(1956年)行われれば、おおむねインド人のパール(被告全員無罪を主張したインド代表判事)のように考えただろう」(オランダ代表判事だったローリング)

 

 「松井石根(陸軍大将)、広田弘毅(元首相)の死刑は不当だ」(首席検事だったキーナン)

 

 「日本が戦争に突入した目的は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」(マッカーサー総司令官)

 

 「戦争の矢面に立った連合国の構成国だけで(法廷を)構成することに決定したことは、果たして賢明であっただろうか。裁判官パール氏の主張が絶対的に正しいことを、私は全然疑わない」(英国枢密院顧問官で国際法の権威であるハンキー卿)

 

 「この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ。日本が置かれていた状況と同じ状況に置かれたならば、米国も日本と同様に戦争に訴えていたに違いないと思うからである」(GHQ参謀第2部長のウィロビー)

 

 「本能的に私は、全体として裁判をやったこと自体が誤りであったと感じた。当時としては、国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論には、私は賛成できなかったのだ」(GHQ外交局長のシーボルド)

 

 「勝利者が敗戦国の指導者を個人的に制裁する権利がないというのではない。しかし、そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係ない。また、そういう制裁をいかさまな法手続きで装飾すべきでない」(米国務省政策企画部初代部長のケナン)

 

 「極東国際軍事裁判所は、裁判所の設立者から法を与えられたのであり、申立人の権利を国際法に基づいて審査できる自由かつ独立の裁判所ではなかった。パール判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなかった。それは、政治権力の道具にすぎなかった」(米連邦最高裁判事のダグラス) 

 

 「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰するからやめたらよかろう。なぜなら、訴追する原告米国に、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任ではなく、(ヤルタ会談で)戦後に千島、樺太を譲ることを条件として日本攻撃を依頼し、共同謀議したもので、やはり侵略であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない」(米陸軍法務官のプライス)

 

 これだけ世界でくそみそに言われている裁判を、後生大事に守ろうとする人たちって、一体なんなんでしょうか。GHQがつくった「閉ざされた言語空間」はまだ健在、ということなのか‥。

 北朝鮮によるテポドン2号発射準備騒動の最中、後輩記者が冗談で「これはもう、自衛隊による空爆しかないですね」と話しかけてきました。気持ちはよーく分かるのですが、少々無理というもの、まさにないものねだりというものです。

 

 私「自衛隊にはそんな装備・能力はありません」

後輩「F15ではだめなんですか。航続距離の問題なら、空中給油機を使えばいいんじゃないですか」

 

 しかし、航空自衛隊のF15は敵の攻撃に備えた完全な要撃型で、対地攻撃能力を備えたストライクイーグルは一機もありません。第一、空中給油機が配備されるのは来年3月の予定で、今はありません。リベラル・護憲派の野中広務元自民党幹事長らが反対し、配備が一年遅れた経緯もあります。平和や近隣諸国との友好という美名のもとに、自国民の危険には目をつむる人たちには困らされますね。

 

 野中氏はかつて、イージス護衛艦の配備やインド洋派遣にも強硬に反対していましたが、敵ミサイルを撃ち落とすためのイージス艦がどうしていけないのか。当時、一部マスコミにもこれに同調するかのような報道がみられ、理解に苦しみました。いざとなったら頼りにするくせに。

 

 日本という国は、自衛隊の手足を法制面と装備面の両方で縛りながら、何かあると自衛隊に頼ろうとします。今回のテポドン騒動で「防衛庁から連絡がない」と八つ当たりしている与党幹部は、日ごろ、どれだけ防衛問題に心を砕き、自衛隊の実情を勉強しているというのでしょうか。

 

 自衛隊をイラクに派遣するイラク特別措置法制定の際にも、当初は自衛隊の任務に「大量破壊兵器の処理」という項目がありました。当時、複数の制服自衛官から「われわれはこれまで大量破壊兵器の研究すら禁じられており、いきなり処理といわれてもできっこない」という悲鳴を聞きました。この項目はさすがに後に外されましたが、防衛族とされる古参議員の自衛隊に対する無理解ぶりは目にあまります。

 

 ちなみに、山崎拓元自民党副総裁について、メディアはよく「防衛族のドン」などと書きますが、ある制服幹部は「山崎さんはわれわれ制服組は遠ざけて会おうとしない。彼は防衛族のドンではなく、防衛予算のドンだ」とこぼしていました。余談ですが。

 

 近年、どこぞの経済団体の対中政策提言にみられるようにカネ、カネ、カネと経済問題ばかりが重要視される風潮がありますが、ポスト小泉候補の一人は数年前に「総理にとって一番重要な仕事は外交と安全保障、それと教育だ」と語っていました。経済で失敗しても取り返しはつきますが、安保で失敗すると国が滅んでしまいます。私はこの言葉は正論だと思います。

 

 さて、北朝鮮がとちくるってテポドンを発射し、国連安保理の制裁を受けたらどうなるでしょうか。北朝鮮人権法の成立もあって、大量の難民が押し寄せるのではと懸念される方も多いようです。しかし、ある防衛庁幹部によると、「難民は多くて千数百人」だそうです。

 

 なぜなら、「北朝鮮には船がないうえ、いかだではそうそう日本海は渡れない。しかも、いかだをつくる木材もない」からだそうです。海流の関係で、日本海沿岸のいくつかの都市付近には難民がたどりつく可能性があることなど随分前から、いろいろとシミュレーションはしているようです。そういう事態がこないことを祈るばかりです。

  

 

 「文芸春秋」7月号の対談に、ゆとり教育の旗振り役として一時期、脚光を浴びた文部科学省の寺脇研氏が出ています。対談の中で寺脇氏は、ジャーナリストの櫻井よしこさんからゆとり教育推進を痛烈に批判されています。私も、決して後知恵でものを言うのではなく、寺脇氏らは何で、ゆとり教育なんて愚策が今日の教育の惨状を招くことが分からなかったのだろうと不思議で仕方ありません。

   11、2年前、短い期間ですが、文部省の担当をしていたことがあります。当時、文部大臣と記者の懇談会で、「ゆとり教育についてどう思うか」と聞かれたことがありました。何せ昔のことですから正確ではありませんが、私はこう答えたことを覚えています。

   「反対です。大臣は現在、10のことを教えても7しか身に付かないから、教える内容を減らすべきだといいますが、たとえば教える内容を7にしたら、7の7掛けで4.9しか身に付かない。そんなもんだと思います」

   しかし、他社の記者にはゆとり教育が受験戦争を緩和するなどとして賛成する者が多く、私の意見は何の影響も及ぼすことはできませんでした。そのころ、大学時代の友人との酒の席で「まるで文部省愚民化政策だ」という話にもなりました。中山成彬前文科相によってゆとり教育が見直されるまでに、教育現場はどうなったでしょうか。弊害は大きかった一方、成果は少なかったというのが実態ではないでしょうか。

 そして今、小学校からの英語必修化が進められています。ヒアリングと日常会話を重視するそうです。変な比喩ですが、「歴史は繰り返す」という言葉が思い浮かびます。もっとはっきりいえば、失敗は目に見えているのに何でわからないんだろうかということです。

 私自身は確か小学校六年生のときに「何で英語やるの?」という本(作者、正確な本の題名はすいません、忘れました)に出会い、英語を学ぶ、身に付けるとはどういうことかを自分なりに考えました。この本は、正確な発音を習得することがどれだけ大変で大事なことかを書いていました。いいかげんな発音と文法で、意味が通じればいいや式の中途半端な英語は、相手の軽蔑を招くという厳しい現実も指摘してあったと記憶しています。逆に、旅行や短期のホームステイなら今の英語教育でも十分でしょうし。

 促成栽培の英語教師に、どれだけ正確な発音や正しい構文使いが期待できるというのでしょうか。現在の小坂文科相は「国際会議で日本が堂々と意見を主張する必要」を挙げて早期の英語教育の意義を強調しています。

 しかし、日本が国際的にうまく自己を主張できないのは、英語力よりもむしろ議論を尊とばない文化・風土の問題でしょう。国際会議に出席する高級官僚の方々には、英語に堪能な人は少なくないはずです。むしろ、日本語で教養を深め、必要とあらば日本語によるディベート授業の時間でも充実させてはどうでしょうか。

 ゆとり教育の弊害と後遺症で、ただでさえ国語や歴史教育に当てる時間は減っているのに、そこに会話主体の英語教育を入れ込んだらどうなるのか。何かと対米追従を批判する人たちは、どうして早期英語教育反対の声をあげないのか。

 偉そうなことを言って、私自身はろくに英語を話せません。でも、話せないのを教育方法のせいにしようとは思っていません。友人の中には、社会人になってから英語のラジオ放送とテープによる独学で、かなりの英語を身に付けたやつもいます。反対に、社内留学制度で英語圏に行き、いまだに英語を苦手としている人だって少なくありません。要は意欲と必要の問題だと思います。

 すべての思考の基礎をなす国語力の低下を万人が指摘している中で、英語を小学生に義務付けるなんて、これほど倒錯した話があるでしょうか。千野境子論説委員長も書いているように「やはり優先すべきは国語だ」と信じます。 

 当たり前のことながら、われわれ記者が書いた記事がいつも掲載されるわけではありません。先日も皇位継承問題について自民党内閣部会が中間整理をまとめた記事がボツりましたが、昨日は日本と締結国との間の和解を意味した昭和27年のサンフランシスコ講和条約に関する政府答弁書の記事が紙面からオチました。まあ、紙面は限られていますから仕方がありません。

 

 というわけで、この場を借りてこの答弁書に突っ込みを入れてみたいと思います。これは、民主党の野田佳彦前国対委員長の質問主意書に答えたもので、焦点は政府はなぜ11条の「judgments」をふつうに「判決」ないし「諸判決」と訳さずに「裁判」と言い張るのか、です。なんでこんな細かい文言にこだわるかというと、これにより、日本が東京裁判の判決結果だけでなく、その理念、精神まで受諾したかのような不思議な論説が、リベラル・左派の人たちから相次いでいるからです。

 

 まず、答弁書の回答をそのまま引用します。

 

 「極東国際軍事裁判所において、ウエッブ裁判長は、judgmentを英語で読み上げた。我が国は、平和条約第11条により、このjudgmentを受諾しており、仏語文の平和条約第11条も同じ意味と解される。なお、judgmentに裁判との語を当てることに何ら問題はない」

 

 一読、苦しいですねぇ。というか論理展開が破綻しているなあと思いました。これじゃあ、答弁書じゃなくて強弁書だよと。

 

 まず、ウェッブが読み上げたjudgmentはどう考えても「判決」でしょうね。「裁判」を読み上げたりしませんから。じゃあ、続く第11条により受諾したjudgmentも文意上、どう考えても「判決」ですよね。さらに、ここでいきなり「仏語文」も同じ意味と書いてありますが、これはどういうことなのか‥。

 

 サンフランシスコ講和条約の正本(正文)は英語、仏語、スペイン語の3カ国語で書かれており、問題の部分は仏語、スペイン語とも「裁判」とは訳せないそうです。これは複数の国際法学者や、大学で語学を教えている先生に確かめました。また、現役の外務官僚(英語ぺらぺら)からも「外務省訳が間違っている」と聞いたことがあります。

 

 仏語文と同じというなら、だれがみてもこれは「判決」でしょう。一体何が言いたいんだ、おい。

 

 また、答弁書は不自然なことに「judgment」と単数形で表記されていますが、原文は「accepts the judgments」とあり、複数形です。なぜわざわざ単数形で書いたのか。ごまかそうとしたのかな、と疑いたくなります。実際、6月4日の当ブログにも書きましたが、安倍官房長官はこの言葉をちゃんと「諸判決」だと述べているのだし。

 

 それで最後に「なお、裁判との語を当てることに何ら問題はない」と言い切っているわけですが、ここには何の説明もありません。これでは、judgmentという単語の持つ意味には「裁判」という意味もあるからいいじゃないかと言っているのと同じです。アホかいな。

 

 どうも最近、GHQによる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争贖罪意識刷り込み計画)の牢獄から解き放たれた人が増えた一方で、まだこの迷妄の中にとどまりたいとあがく不思議な勢力の動きも活発化しているように感じます。

 

 よく、良識ぶって「東京裁判には問題があったが、いまさらそれを言い出しても仕方がない」という政治家がいるのですが、そういう段階でしょうか。まずは東京裁判やGHQの占領行政について、どういうものだったかを認識することが先だと思うのです。

 

 ところが、ベテラン政治家の方がかえって何も事実関係を知らないか、目をそむけたがる(中堅・若手政治家の方が歴史をよく学んでいます)。現在、メディアで盛んに靖国参拝反対論を展開している加藤紘一元自民党幹事長と議論したことがある有力議員からは以前、「加藤さんはだれとだれがA級戦犯とされたかもろくにしらない」と聞きました。その後、加藤氏も勉強されたかもしれませんが。

 今回の答弁書をみて、日本の中には、客観的な事実をなんとか捻じ曲げてでも自らを国際社会で一人に主張することが許されない半人前だと思い込みたい人、あるいは日本を貶めることで自分自身が道徳的に高みに立てるといまだに信じている変な勢力が、まだまだ力を持っているなあ、と改めて感じた次第です。
 

 

 きょうは午前中から不愉快な気分になりました。千葉県のC大学に電話取材を試みたところ、納得しがたい対応を受けたためです。 

 

 まず、最初に電話に出た女性に、「そちらに○○さんという先生が在籍されていたことを確認したいのですが」というと、しばらくして男性に替わりました。

 男性「お名前は‥?」

 私「阿比留です「(さっきの女性に言ったんだけどなぁ)」

 男性「はぁ?(私の名前はあまり多くないので、電話ではたいてい聞き返されるのです」

 私「阿比留です!」

 男性「いずむさん?(なんじゃそりゃ)」

 私「阿比留です!!」

  男性「何に使うんですか」

 私「確認したいだけです」

 男性「今は個人情報の件がありますから」

 私「この先生がいたかどうかを確かめたいだけですよ」

 男性「個人情報ですから」

 私「個人情報って、かつてある教員が在籍したかどうかに答えることが、個人情報保護法のどこに引っかかるんですか」

 男性「‥今たてこんでいますから切ります(ガチャン)」

 

 しつこくもう一度電話した私ですが、相手は再び「切ります」と言って受話器を置きました。

 

 そりゃあ、忙しいのも本当かもしれないし、いちいち取材に応対する義務はないでしょう。でも、こちらの用件を聞いて、私の名前を何度も問うたうえで「個人情報ですから」はないでしょうよ、C大学さん。私に限らず、外部からの電話にそんな対応をとり続けると、いらぬ反感をかうばかりだと思いますよ。また、面倒な取材や問い合わせを避ける言い訳にも利用されているようで、なんだか変な話です。

 

 実は、このブログを始める際にどうすべきか悩んだ(数分間)のが、この個人情報の問題でした。当然、政治家の公の発言などは実名で書きますが、グレーゾーンも多いことでしょう。今回のC大学の件などは、実名でもかまわないのかもしれませんが、そうするとこの場を借りて私怨をはらそうとしたことになりかねない。また、新聞の記事に書かれることは覚悟して話した相手でも、ネットに流れるのはいやだということもあるかもしれない。

 

 個人情報の保護は言うまでもなく大事なことです。情報がネットを通じて瞬く間に共有される時代だけに、情報開示には慎重さも必要でしょう。だけど、中央省庁が幹部人事を発表する際に、年齢や出身校を隠すようになったのは変だと思います。

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