きょうは、近く産経新聞が組む予定の特集記事の取材で靖国神社を訪れ、いまや中国や韓国、国内の左派勢力の攻撃の標的となった感のある博物館「遊就館」を見てきました。旧館時代には何度か見学したことはあったのですが、新たしくなってからは初めてです。
さて、結論から言えば、一部サヨクの人や、日本語が読めるのがどうか怪しい外国人が「戦争を美化している」などと批判するような、特殊な歴史観などは見当たりませんでした。零戦や九七式戦車などが展示してあることを持って軍国主義とこじつけるのでもない限り、よく整理された普通の博物館だと思います。一緒に行った同僚も同様の感想を述べていました。
まあ、米国人が嫌がるだろうなというものを強いて挙げれば、「ルーズベルトの大戦略」という解説文ぐらいでしょうか。これには「(景気回復に苦慮していた)ルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、それらよってアメリカ経済は完全に復興した」とあり、米国から見れば認めがたいだろうな、とは思いました。
とはいえ、他の記述はおおむね淡々としたもので、別に米国を一貫して悪と描いているわけでもなく、そんなに特別な表現も過激な歴史観も見つけられませんだした。南京の大虐殺記念館の1000倍はおとなしい展示内容ではないでしょうか。
興味深かったのは、昭和15年当時の日本が、重要物質を輸入に依存していたことが円グラフで示されていた部分です。例えば、鉄類はアメリカ66.9パーセント、中国15.6パーセント、インド7.5パーセント。石油はアメリカ76.7パーセント、蘭領東インド24.9パーセント‥など。
確か小学生のころの夏休みの平和授業で、こういうグラフをもとに日米間の国力の差を示され、「資源もなく、国力も20分の1なのに無謀な戦争をした日本はバカなのだ」と刷り込まれたことを思い出しました。私は、「じゃあ、なんで無謀な戦争をしたのか」と子供ながらに思い、のちに「仕方なかった」との結論に達したのですから、日教組教育も必ずしも成功例ばかりではありませんね。
それはともかく、「靖国の神々」と題されたコーナーでは完全に引き込まれました。英霊たちの遺影と遺書などが展示されているのですが、昭和23年9月にジャワ島で法務死(BC級戦犯として処刑死)した佐藤源治陸軍曹長の詩「僕は唱歌が下手でした」には、切なくて涙が止まりませんでした。
一、僕は唱歌が下手でした
通信簿の乙一つ
いまいましさに 人知れず
お稽古すると 母さんが
優しく教えてくれました
二、きょうだいみんな 下手でした
僕も弟も妹も
唱歌の時間は泣きながら
歌えば皆も先生も
笑って「止め」と言いました
三、故郷を出てから十二年
冷たい風の 獄の窓
虫の音聞いて 月を見て
母さん恋しいと 歌ったら
皆が泣いて 聞きました
四、僕のこの歌 聞いたなら
頬すり寄せて 抱き寄せて
「上手になった良い子だ」と
ほめて下さることでしょう
これのどこが軍国主義や戦争賛美だというのでしょう?いま、政治の世界では、靖国神社を無宗教化するなんて話が堂々とまかり通っていますが、靖国が神社でなくなったら、このような英霊は神ではなくなり、御霊はいなくなってしまいます。私は別に信心深い者ではありませんが、そんなことはとても許せない気持ちです。
神道的なカミの観念、多神教の宗教観は、縄文時代から脈々と受け継がれてきた日本の文化遺産ではないかと思います。中国に言われたから変えましょうというものではないはずです。
フィリピン沖で神風特攻隊員として戦死した植村真久海軍大尉が、おそらくまだ乳飲み子であろう愛娘にのこした遺書にはこうあります。この人は亡くなったときはまだ25歳でした。
「お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に強く念ずれば必ずお父様のお顔が、お前の心の中に浮かびますよ」
靖国で会おうと約束して散っていった英霊との約束を、いま生きているわれわれの勝手の都合、しかも、たかが中国にがたがた言われた程度のいい加減な理由で反故にしていいわけがない。遊就館に行き、そういう思いを改めて強くしました。