国会では、衆院予算委委員会が開かれ、白熱した議論が戦わされています。きょうの安倍首相は、野党議員の質問に手厳しい反論を行うなど、けっこう攻撃的に見えます。内閣発足当時は7割近かったご祝儀支持率が4割程度にまで落ちたことで、かえって万人にいい顔をしてみせる必要がなくなり、思いのままに振舞えるようになった部分があるのかもしれません。
それはともかく、きょうも国会議員会館をうろうろしていて、ある秘書さんから「これを見てよ」と雑誌のコピーを手渡されました。それは今から8年前の文芸春秋99年9月号に載った論文で、タイトルは「日本国憲法改正試案」。自由党党首だった現民主党代表、小沢一郎氏が書いたものでした。
「戦後日本のタブーを破って現職政治家が初めて条文を書いた」とのコピーを読みながら、そうだよなあ、あのころ、小沢氏はばりばりの改憲論者とされていたよなあと何だかある種の懐かしさを感じました。ほんの7、8年前のことなのですが、当時は現在より憲法の不可侵性は強かったですね。
でも、このように国会議員の中でも先頭に立って憲法改正を唱えていた小沢氏が、今では憲法改正を掲げる安倍首相に対し、「今、政治がなすべきことは憲法改正か、生活維新か」と1月29日の代表質問で追及しているのですから、歳月のうつろいと無常を感じます。
小沢氏は、自民党が5月の憲法記念日までに成立させたいとしている憲法改正手続きを定める国民投票法案についても慎重姿勢をとっています。参院選を前に、対立軸を明確にするためだということは分かっていますが、何だか寂しい話しです。文芸春秋に載った論文の中で、小沢氏はこう誇らしげに書いていました。
《我々自由党では、憲法改正の国民投票法制化を提案している。国民投票の期日、国民への周知、投票の方式、経費、罰則などを規定したものである。国民投票に関する運動は、原則として自由にした。まずは議論を動かしたいのである。》
私は、最近の小沢氏の言動や例の資金管理団体による巨額の不動産購入については批判的なことを書いてきましたが、この論文の憲法論には納得できることが多いです。もちろん、国連への傾斜ぶりはちょっとついていけませんが。小沢氏は現行憲法についてこう記しています。
《時代が変わればルールも変わるはずなのに、50年以上も憲法は改正されていない。新しい時代に必要な価値観を書き加えられることもなく、化石同然の代物を後生大事に抱えている。それなのに現行憲法が完璧であるかのように主張する人達が多い。》
《占領下に制定された憲法が独立国家になっても機能しているのは異常なことである。民法においては、監禁や脅迫により強制された契約が無効であることは自明の理である。(中略)正常ではない状況で定められた憲法は、国際法において無効である。》
非常に明快ですね。まあ、憲法を神聖不可侵の教典としてあがめる旧社会党系議員の後押しで民主党代表となった今では、こういうことはなかなか言えないのでしょうが。それは分かりますが、残念な話ですね。次の言葉は、安倍首相の問題意識とも共通すると思うのです。
《21世紀を向かえようとしている今、日本は大きな転換期にあることを否定する人はいないだろう。日本的な馴れ合い主義では、内外の変化に対応することはできない。(中略)まず法体系の根幹である憲法が様々な不備を抱えたまま放置されていることから改める必要がある。憲法改正論議こそ時代の閉塞状況を打破する可能性がある。》
ここに表れている問題意識は、まさに教育基本法を改正して防衛庁を省に昇格させ、いままた憲法改正を掲げている安倍首相と同じ方向を向いているのではないでしょうか。小沢氏は街頭演説などで、「安倍内閣は復古主義的だ」などと盛んに批判していますが、論文の中では公共の福祉に関連して「時には個人の自由が制限されることもはっきりさせておく必要がある」とも指摘しています。何やら空しく、物悲しい気すらします。
小沢氏はこうした自らの憲法論を封じ、今国会を「格差是正国会」と位置づけて参院選を戦うようですが、成功するでしょうか。政府・与党内からは「10億円を超える不動産を資金管理団体に買わせる人が格差を訴えても…」という声も聞こえてきます。
安倍首相は今後、これまで以上に保守政治家としての「安倍らしさ」を全面に出してくると思います。小沢氏も、少し昔の自分に立ち戻った方がいいような気がします。余計なお世話だと分かっていますが…。