2008年04月





   《二億年続く悦びはなし 二億年続く哀しみもなし》(夢枕獏著「聖玻璃の山」)


 いよいよ政局の動きが本格化してきたなと感じる記事が、昨日の新聞各紙に載っていました。読売新聞は「平沼氏に連携呼びかけ」、日経新聞は「小沢氏、平沼氏に秋波」という見出しでミニ・ニュースの扱いでしたが、産経は3段見出しで「連携、新党構想も 小沢・平沼氏が会談」と踏み込んでいます。いずれも、郵政民営化法案に反対して自民党を離党し、無所属となった平沼元経済産業相が民主党の小沢代表と都内の日本料理屋と会談したという内容です。読売の記事にはこうありました。

 《同席した民主党の川上義博参院議員によると、(小沢氏が)平沼氏に新党結成を勧め、「民主党と手を取り合っていこう」と連携を呼び掛けたのに対し、平沼氏は明確には答えなかった。》

 また、日経は次のように書いています。これもおそらく、川上氏に取材したものと思われます。読売と微妙に言葉遣いが異なっていますが、意味はほぼ同じですね。

 《出席者によると、小沢氏は平沼氏に「一緒に手をつないでやろう」などと、次期衆院選での協力を呼び掛けたという。(中略)自民、民主両党に対抗する保守の第三極を目指す「平沼新党」の構想も話題に上った。》

 産経も川上氏に取材した内容をもとに記事にしていますが、ちょっとニュアンスが異なり、平沼氏が民主党との連携に前向きであるようにも読めます。果たして実際はどうなのでしょうか。下に引用した記事にある平沼氏の「やろう」が、単に新党結成だけを指すのか、民主党との連携まで含むのかというと、私は前者のにように思うのですが分かりません。川上氏が本来は秘密性が高いはずの会合内容について、記者にこれだけしゃべっているということは、そうやって宣伝した方が民主党にとって得だと考えたのでしょうが、それだけにどこまで正確なものであるかも分かりませんし。ともあれ、産経はこう伝えています。

 《川上氏が「『平沼新党』をつくり民主党と新しい政治、新しい日本をつくろう」と呼びかけたところ、平沼氏は「やろう」と応じ、小沢氏も「ぜひそうしてもらいたい」と語ったという。》

 さて、では小沢氏は平沼氏と手を携えて何をやりたいというのでしょうか。まさか小沢氏が主張している外国人参政権の実現を一緒にやろうというわけではあるまいし、政策的には、郵政民営化に反対するぐらいしか共通点が咄嗟には思いつきません。まあ、選挙のためには共産党とも手を結ぶ小沢氏ですから、とにかく「数」を集めたいのかもしれませんし、日教組や自治労と密接になりすぎてすっかり定着してきた「小沢氏=サヨク」というイメージ、立ち位置を微妙に修正したいのかもしれません。

 平沼氏は小沢氏の呼びかけに言質は与えなかったようですが、平沼氏としても、将来に明確な展望はなく、いろいろな可能性を模索しているのでしょう。でもまあ、会談の同席者が北朝鮮に近いとされる川上氏だというのも、なんだかなあ。話がとたんにしょぼく感じられるわけですが、それも無理がないぐらい政界には本当に人材がいません。ゆめゆめ、どこからか万能のヒーローのような政治家が現れて国を救ってくれるなんて甘いことを考えてはいけないと思います。

 ただ、いずれにしろ、福田政権はもう長くはない一方、このまま座視していては国会の停滞はいつまでもどこまでも続くという状況の中で、次期衆院選をにらんだいろいろな動きがここにきて顕在化しつつあるように感じます。こういう動きは今までも水面下ではずっとあったわけですが、隠しようもなく表に出てきたというか、そろそろ各自が発信し始めたというか。小沢氏だけでなく、自民党側からも今後は平沼氏にいろいろと働きかけがあるだろうと思います。で、私も、今朝のフジサンケイビジネスアイに、こんなコラムを書いています。

 《小泉純一郎元首相による平成17年の郵政解散に反対して離党、無所属となった平沼赳夫元経済産業相による新党結成が、ここにきて現実味を増している。周囲がじれったくなるほど慎重な一面もある平沼氏だが、自民、民主両党による「バカとアホの絡み合い」(国民新党の亀井静香代表代行)とさえ呼ばれる国会のありさまに、とうとう決起する腹を決めたようだ。
 「平沼君は、衆院解散前に新党をつくるよ。今回は間違いない」
 こう語るのは、かつて参院のドンとして平沼氏も所属した自民党村上派を率いた村上正邦元労相だ。村上氏は、KSD事件で受託収賄罪に問われ、最高裁で実刑判決が確定、近く収監されるが、つい最近も平沼氏と新党結成について話し合っている。
 村上氏はこれまでもたびたび、平沼氏に保守勢力を糾合する新党結成を呼びかけてきた。その際、平沼氏はいつも聞き役に回っていたが、今回初めて「分かりました。やります」と答えたのだという。
 具体的には、郵政選挙で落選した元国会議員や地方議員、国政に志を持つ各界の有為な人物を集め、新党を結成した上で次期衆院選に臨む考えだ。
 平沼氏は自民党の安倍晋三前首相、麻生太郎前幹事長、中川昭一元政調会長らに近く、拉致議連会長としての活動を通じ民主党や無所属の保守系議員にも影響力を持つだけに、新党は今後の政局の「台風の目」となる可能性もある。現在、福田康夫首相(自民党総裁)、民主党の小沢一郎代表ともに党内のリベラル・左派勢力を重用し、保守派が求める政策に背を向けているだけになおさらだ。
 村上氏は平沼氏に「国民新党のようにキャスティング・ボートを握ろうなんて小さなことは考えず、自分が主役となるつもりでがむしゃらにやれ」とアドバイスしたという。これに呼応するように、平沼氏は雑誌「月刊日本」5月号のインタビューで、次のように意気込みを語っている。
 「拙速は避けなければならないが、解散が近づき、新党を求める声が大きくなれば、私は解散前に新党を結党する心積もりだ」(喜雀)》

 …この原稿は25日に書いたものですが、コラムは事前出稿なので、ニュース原稿とは違って掲載までには少し時間がかかり、きょうとなりました。このコラムはおそらくネットでは配信されないので、ここで紹介させてもらったというわけです。

 記事やコラムは、趣旨を簡潔に絞らないと何が言いたいのか分からなくなってしまうので、このコラムは話を少し単純化していますが、まあ決断が早い方ではない平沼氏も、ようやく腹を固めてきており、それを取り込もうという動きもまた出ているということでしょう。ただ、簡単にこれで保守理念に基づく清新な政党が生まれ、自民、民主以外の投票の受け皿ができると喜ぶにはまだ早いと思います。

 新党構想に対しては、小沢氏が早速こなをかけたように、自民、民主両党からも、またそれぞれさまざまな思惑と選挙区事情を持つ個々の議員(候補)からも、いろいろな接触、働きかけ、恫喝、哀願、排斥…などが次々に押し寄せるでしょうから、新党はできたものの、結局、よく方向性が分からない自民か民主の補完勢力が誕生しただけ、ということもありえます。また、何度も書いてきたように、保守勢力はある程度結集したものの、発言力も影響力も乏しい小数政党ができただけに終わり、帰って保守派が減った自民、民主両党の左傾化が強まったただけということだってあり得ますね。

 すべてはこれからなので、あまり期待もせず、かといって最初から冷たく突き放すこともせず、今後の展開を注視していきたいと思います。いずれにしても、今後の政局で福田氏がメインプレーヤーになることはないでしょう。ただでさえ薄い存在感が、ますます希薄になっていくのかなと見ています。


 あす4月29日は「昭和の日」ですね。昨年のこの日は前回のエントリで写真をアップしたようにアラブ首長国連邦で海上自衛隊の護衛艦に乗ることができたので思い出深いのですが、きょう、まったく関係のないサミットの原稿を書いていて、この日に関する別の記憶が甦ってきました。それは9年前、当時の小渕首相が、大方の予想を裏切ってサミット開催地に沖縄を決定したのが4月29日だったということです。

   

 あのとき、私は首相官邸で小渕首相の総理番と自治省を担当していました。新聞各社は、当然のことながら8年ぶりに日本で、しかもそれまでの東京開催と違って初めて地方で開かれるサミットの開催地がどこになるのか抜こうと必死でした。読売は22日の夕刊1面トップで「首相は開催地を福岡でとする意向を固めた」と打ってきていましたし、産経はその前の15日に「大阪府開催が有力に」と書いていました。またその前日には朝日が「福岡市有力」とやっていましたし、確か福岡が地元の西日本新聞も福岡開催が決まったというトーンの記事を載せていました。

   

 でも、これらはみんな周辺情報で、小渕氏の固い決意はどこの社も見抜けていなかったようです。あとで事情を聴くと、政務、大蔵、通産、外務、警察といた首相秘書官の中でも、外務省出身の秘書官だけが、密かに米国への事前根回しために「沖縄案」を知らされていただけで、小渕氏は本当に自分の気持ちを周囲にも漏らしていなかったとのことでした。米軍基地が集中する沖縄で開催するには、やはり米国の意向は無視できないところだったのでしょう。

   

 私はと言えば、あとで振り返り「あれはヒントだったのかも」と、痛い思いをしたのを覚えています。サミット開催地決定の前日の28日夜、担当していた野田毅自治相兼国家公安委員長の自宅に夜回りに行ったところ、他社の記者はだれもいませんでした。玄関で呼び鈴を押して待っていると、出てきた野田氏は私に「心配しなくていい。絶対にどこの社も開催地は当たらないから」と言い残して自室に引っ込みました。鈍い私は「絶対にどこも当たらない」という言葉から、ただちに「沖縄だ!」と思いつくことができなかったのでした。

   

 当時、開催地に立候補していた8候補地のうち、沖縄は警備上の観点からは「ダントツで最下位」だったほか、各国首脳と随行団、プレスなどを泊める宿泊施設も少なく、空港から開催予定地までの交通の便も悪いというありさまで、まさか沖縄がメイン会場に選ばれるとは思わなかったのです。その意味では、野田氏の言葉はある意味で大きなヒントともなっていたのですが…。

   

 記者が夜回りその他で取材先からネタを聞きだそうとするときに、まったく白紙で何も知らずに「どこですか」と聞くのと、「沖縄ですね」とぶつけるのでは、相手の対応も自ずと異なります。あそこでピンときて、また違う政治家や政府関係者にその情報をあてれば、あるいは…とも思うと悔しいのですが、取材力のない私のことですから、やはり無理だったかな、とも思います。こういう「あのときこうしていれば…」という瞬間はいくつもあります。このときの官房長官だった野中氏が自民党幹事長となり、その職を辞する前も、ある人から「野中さんの辞める意思は固いよ」と確度の高い情報を得たのですが紙面化できませんでした…。今でも記者として未熟だと感じていますが、これまでやってきたことを振り返ると苦笑いするしかありません。

   

 それでは、どうして小渕氏は条件的に不利な沖縄に決めたのか。それは、もともと学生時代から沖縄復帰運動に携わり、初入閣も沖縄開発庁長官だった小渕氏の沖縄に対する個人的思い入れも強くあったのでしょうが、一番の理由は別のところにあったそうです。それは、小渕氏が、先の大戦で沖縄特別根拠地隊司令官を務めた大田実少将(死後、中将)が、自決する1週間前に大本営海軍次官あてに送った次の電文を、深く胸に刻んでいて、いつか沖縄に恩返ししようと考えていたからでした。

   
 
 《沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ》



 小渕氏はサミット開催地を沖縄に決めた約5カ月後には、ニュージーランドで現地在住の大田中将の4女、昭子さんに会い、「大変苦労された沖縄県民の方々のためにも、来年、沖縄でサミットをやると決めたことは間違いでなかった」と語りかけました。しかし、翌年の4月には小沢一郎氏率いる自由党との合併問題で野中広務官房長官と小沢氏の板挟みになり、脳梗塞に倒れ、5月に帰らぬ人となり、沖縄サミットの議長を務めることはありませんでした。私は沖縄サミットの取材に行き、そこでは元気な様子の森首相(当時)の姿を見ることになりました。その時に記念品としてもらった肩掛けバッグを今も仕事用に使っています。

 昨年の安倍前首相による洞爺湖サミットの決定については、幸いなことに産経は大阪夕刊の1面トップですっぱ抜くことができました(東京では夕刊はありませんが)。しかし、その安倍氏もやはり病に倒れ、福田首相がホスト役を務めることになりました。何の因果か、私は洞爺湖サミット取材班に組み込まれ、7月には北海道でまたもサミット取材をすることになりました。さて、「死に体」内閣とも言われ始めた福田政権は、そのころどんな様子で、また福田氏は各国首脳とどんなやりとりをするのでしょうね。果たして議長として議論をリードしていくことができるのか。

 …本日の写真は、昨日、いつも通勤時に通る道を散歩した際に撮った路傍の草花です。みんな本当に小さな小さな花でしたが、ひっそりと、でも元気に咲いていました。私は勝ち誇り、自分を見せつけようとしているかのような大輪の花より、小さく目立ず、だれも気付かなくてもしっかりとそこに居続けているような、小さな花がとても好きです。


   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   


 きょうは、北京五輪開会式の不参加を呼びかけている「国境なき記者団」のロベール・メナール事務局長が、いよいよあすに迫った長野での聖火リレーに合わせて来日します。長野では、中国による五輪開催に反対する横断幕を掲げるなどして抗議活動を行うとみられますが、長野に多数(2000人?)が集結するとみられる中国人留学生らの反応も懸念されます。聖火リレーに関しては、弊紙も多数の記者を現地に派遣して手厚い取材をする予定ですが、さて、どんなリレーになるのでしょうか。

 このメナール氏の来日をめぐっては、今朝の閣議後の記者会見で、鳩山法相は「上陸拒否に当たる方だとは思っていない」と述べ、受け入れる考えを示しました。また、福田首相も閣議後、鳩山氏に対し、「日本は開かれた国なので入管の原則に従って粛々と(進めてほしい)」と語り、通常の入国審査で臨むよう指示しました。ええ、至極真っ当で当たり前の話です。これだけを見ると、政府も中国の圧力に負けず、きちんとした姿勢を保っているように感じられます。

 でも、実はここに至るまでの過程では、政府はなんとかメナール氏の入国拒否ができないものかと方途を探り、法務省にも検討させていました。法制度上、どうしても拒否できなかったので、最後に格好を付けたというのが実際のようです。ですから、そんなにほめられた話ではないのです。今月21日には、福田氏に近い政府筋が記者団にこう本音を漏らしていました。

 「できるなら日本に入れたくない。(入れないと批判があるだろうが)メナール氏が何か起こしてしまった場合を考えると、どっちがいいかだ」

 これが、福田氏本人の意向を直接受けての言葉かどうかは分かりません。そうであっても不思議はありませんが、トップを取り巻く部下たちが、トップの考えを先取りして実行し、歓心を買おうとすることはよくあることですから。ただ、いずれにしろ、この政府筋の入国拒否を探る考えは非公式に法務省側に伝えられ、法務省も過去の事例などを調べていろいろ検討したようです。それは、24日の自民党津島派総会での、鳩山氏の次のような言葉にも表れています。

 「国境なき記者団の入国規制の議論があるが、入管法には、私、法相が特に事情があるときに認めないことができるとある。ただ、戦後をみると、昭和30年代に1度あるが、それも閣議了承がさなれている。そういうことを勘案すると今回は相当厳しい

 この入国拒否は「相当厳しい」という言い方には、本心では拒否したいのだが、というニュアンスが表れていますね。喜んで受け入れるのであれば、こういう表現にはにりません。また、津島派の会合でわざわざこの話を持ち出し、こういう言い回しで説明するということは、「津島派のみんなも同じ、なんとか拒否できないかという気持ちだろうが」という含意が透けて見えるように思います。急遽とりやめになりましたが、当初はこの派閥の小坂憲次元文部科学相が聖火リレーで走る予定だったこともあるかもしれませんが。

 そしてこの件は、こうした外交がからむ問題に関しては、これまた当然のことながら、政府内が一枚岩ではありえないということも示しているように思います。上に記した政府筋のように、迷うことなく「入れたくない」という人もいますし、この問題に関する閣僚らの発言を読むと、最初から原則に従って入れるべきだと考えているらしき人もいます。新聞もテレビも私も、簡単に「政府は」と主語に使っていますが、その中でも意見の対立・相違や葛藤、駆け引きは常にあり、最終的になんとか一つの方向性を出しているに過ぎません。

 そのバラバラな考えや思惑を一つにまとめる代表的な方法が、閣議決定ですし、また何より首相のリーダーシップでもあるのですが、福田首相に関しては「首相を支持すると言っている人が首相を信用していないから困ったものだ」(自民党幹部)という状況です。民主党について、頭がたくさんある「ヤマタノオロチ」だと言った政治家がいましたが、自民党にはもしかすると頭自体がろくに存在しないのかもしれません。

 さて、このメナール氏をはじめ、長野で予想される抗議活動や北京五輪反対の横断幕、プラカードの類について、外務省は中国側に「日本は民主主義国家なのだから、そういうものがあっても仕方がないだろう」と説明しているそうです。中国側のメディアは、おそらく横断幕などは映らないように映像をとるか、映ってしまったらカットして本国では流すのでしょう。まあしかし、本当に必要かどうかその意義も目的もよく分からない聖火リレーなんかのために、世界中が大騒ぎしている現状もなんだか空しいですね。国際社会が成熟にほど遠い、むしろ野蛮で力がものをいう前近代的社会であり続けていることが、改めて浮き彫りになった感があります。

 何にしろ現実を直視することは大事ですから、このカラ騒ぎも、国際社会と中国という国の現実に目を向けさせたという点ではよかったのかもしれませんが…。夕刊当番をしながら急いで書いたため、このエントリが説明不足になっていたらごめんなさい。本当は、福田首相に五輪開会式不参加を求め、日本政府の人権問題への及び腰の対応に苦言を呈したメナール氏の発言なども紹介したかったのですが。

↑このページのトップヘ