2008年10月

 

 はい、お待たせしました。やっと小沢一郎語録の「その七」が用意できました。本日は平成10年12月の自自連立から自自公連立、自由党の連立離脱ときて、森政権下での衆院選が終わるまでです。小沢氏の心境が乱高下している時期というか、高揚したり、落ち込んだりいろいろしていますが、果たして、みなさんの関心を引くような内容がありますでしょうか。早速、ご覧下さい。

 

・平成10年12月25日産経、自由党党首、党の納会で自自連立が成立したことについて

「つらいこともあったが、皆さん頑張って今日まできたことを、お互い喜び合いたいと思う」

 

 =元のサヤに戻り、自民党とまた一緒にやれることがうれしくて仕方がなかったようです。

 

・平成11年1月16日産経夕刊、自由党党首、自民党大会での来賓のあいさつ

「久しぶりに党大会に出席させていただいた。党歌(「われら」)も一緒に歌わせていただき、複雑な心境とともに感慨深いものを覚えた。自民、自由両党は揺るぎない信頼関係を築き、協力し合い、政治、行政、経済など21世紀に向けてあらゆる改革の推進の先頭に立っていこうではないか」

 

 =これを読み返した私もまた、感慨深いものがあります。そんなこともあったなあ、と。でも、初心が続かない人なんですよねえ…。

 

・平成11年2月19日産経、自由党党首、自民党の村上正邦旧中曽根派会長の勉強会で復党の意思について聞かれ

「いまただちに一緒になるとは私の口からは言えないが、理念・政策が一致するなら一緒にやっていくのはやぶさかではない」

 

 =自民党に戻りたくて仕方ない気持ちがにじみ出ているかのようです。

 

・平成11年4月2日産経、自由党党首、インタビューで日米関係について

「本当の日米関係を築くなら、日本は同盟国、友人としてやれるだけの責任と役割を果たさないとダメだ。英国は労働党のブレア首相でさえ最後は米国と行動をともにする。国家としての威信とプライドをきちんと持って同盟国として存立しているということだ。経済面では日本は規制を緩和し、市場をオープンにして、米国など外国資本をどんどん入れればいいのに、政界も財界も腹がすわっていない」

 

 =小沢氏の「腹」はどこに行ったのでしょう。どの口が言うのか、という気もします。

 

・平成11年9月6日産経、自由党党首、民放テレビ番組で憲法について

「憲法は、自由な国民の意思表示によってできる状態でないと有効でない。契約も脅かされたり監禁されたりして署名したものは無効だ。日本国憲法も占領時代につくられた憲法なので、いったん無効にして新しい憲法をつくるべきとの議論もある」

 

 =この現行憲法無効論を一貫して述べているのなら、傾聴に値するとも思いますが、今ではこんなこと決して言いませんからねえ。首尾一貫しない人です。

 

・平成11年10月6日産経、自由党党首、盛岡市での講演で

「自由党はうるさくてかなわんと自民党は言う。日本ではリーダーシップを発揮すると独裁者、剛腕と嫌われ、私も政界で『原理主義者』と嫌われる」

 

 =私も、政治家のリーダーシップとは何かと考えることがよくあります。リーダーの「決断」が混迷した事態を切り開き、新たな展開をもたらすことがある一方、ただのわがまま、独善に映ることもありますね。難しいものですがこの人の場合…。

 

・平成11年11月12日産経、自由党党首、記者会見で自自合流について

「私の方から自民党との合流を打診したことも、要請した経緯もない。われわれは本当にいい日本を作り上げるための政策を国民に訴えている。その政策をよしとして、ともに力を合わせ実行しようという仲間がいれば、何党に所属していようと、手を携えていくのは当然だ。政策実現を可能とする選択を探るのは、政治家、政党として当たり前だ」

 

 =このころ、永田町・霞ヶ関では自自合流は選挙対策上、小沢氏サイドが持ちかけたという話が専ら流通していました。

 

・同上、自由党若手議員との懇談で

「自民党は下手に出ればいくらでもつけあがるが、強気に出ればどこまでも譲るところだ」

 

 =こういう小沢氏の考え、姿勢が、野中広務官房長官(のち幹事長代理)との間にはさまれた小渕首相を追いつめていったのでしょうね…。

 

・平成11年11月15日産経夕刊、自由党党首、民放テレビ番組で自民党との合流論議について

「党としてどうこうとかは、公式にも非公式にもない。お互いのいろんな会話でそういうことが口の端に上ることはあった」

 

 =この人は日本人はあいまいだとよく叱っていますが、自分はどうなんだか。

 

・平成11年12月16日産経、自由党党首、記者会見で、自民、自由、公明の三党連立にとどまることを正式に表明して

「首相や自民党の善意と誠意にもう一度期待して、(定数削減の)実現にかけてみようと考えた。(自自合流問題については)そういう意味の話は小渕首相との会話の中でも出た。ただ今日(の党首会談)は政策合意、約束を何とか実行するようお互いに智恵を出そうということが主だった」

 

 =このころ、小沢氏は何度も「連立離脱」と大騒ぎしてはあっさり引き下がることを繰り返し、夕刊紙だけでなく一般紙でも「オオカミ中年」と書かれていました(命名・山崎拓氏)。こういうありがたくないあだ名も、時の経過の中でみんな忘れていくものだから小沢氏も助かっています。

 

・平成12年1月7日産経、自由党党首、党本部での仕事始めでのあいさつ

「今年は辰年で、占いに詳しい人に聞くと何やかや大変な年だそうだ。自由党は結党の原点を常に忘れず、つらくても我慢して力を合わせて、国民のために大きな役割を果たすことができる年になるよう努力をしていきたい」

 

 =このとき、小沢氏が公の場に姿を現したのは前年の12月15日以降、初めてのことでした。こうしてずっと言動を追っていると、やたらと入院や雲隠れが多いほか、この「つらい」という言葉もよく吐いているのが分かります。

 

・平成12年4月2日産経、自由党党首、自自公党首会談で、小渕首相から連立解消を通告された後の記者会見で

「わが国の議会制民主主義を守るため、自民党も自由党もみんな生まれ変わって、保守再生の形で政治に当たらなければならないとの考えは変わらず持っている」

 

 =自民党との合流、保守新党結成にまだ未練を残した言葉です。ただ、こうした小沢氏のせっかちな強引さが、自自に亀裂を入れ、連立解消につながったのは間違いないと思います。当時、私は小渕首相番記者の一人でしたが、小渕氏が思い悩み、苦悩している様子ははっきりと伝わってきました。そして、小渕氏は倒れ、不帰の人となりました。小渕氏の長男(優子議員の兄)が、弔問に訪れた小沢氏に頭も下げず、ずっとにらみつけていたというエピソードも聞きました。

 

・平成12年6月3日朝日、自由党党首、総選挙インタビューで、1993年に自民党を飛び出してからの軌跡について

「僕も反省してるんだが、自社のアンシャンレジーム(旧体制)の復活を許してしまった。もう少し(非自民政権を)続けていれば、完全に旧体制は崩壊したと思うが、息を吹き返しちゃった」

 

 =そして今は、自分が民主党代表として旧社会党勢力を取り込み、アンシャンレジームを体現していると。

 

・平成12年6月8日産経、自由党党首、総選挙インタビューで公約「戦後保守との決別」について説明し

「自民党は、国際政治や教育、日本の伝統文化の問題でも、本来守るべき価値を大事にせず、経済的に豊かにすることだけを政治の目標にした。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策は、日本を二度と国際政治の場に登場させないように、民族の力を弱体化させるのが目的だったが、戦後経済の復興だけは、一生懸命やってくれという姿勢だった。衣食住、経済を復興させることだけは許されていたから、当時の吉田茂首相は、まずこれに全力を傾けた。吉田首相自身が後に、こんなことではダメだと日記に書いている」

 

 =時代的に、このインタビューには私も一枚かんでいるのかもしれませんが、記憶にありません。ただ、この小沢氏の主張、認識には異存がありません。素直にその通りだと思います。同じ人が、今ではそのGHQの教えを忠実に継承している日教組を支持基盤にしているというのが、何とももの悲しい気がします。

 

・平成12年6月26日産経、衆院選で与党三党が過半数議席を確保したことについて

「私の読みが外れた。もう少し国民は積極的に(選挙に)参加すると思っていた。危機感がそれほど強くなく投票結果に表れなかった。現状のままで何とかならないかということの方が、国民の心理としては上回った」

 

 =いつかどこかで聞いたような、そしてまたいつか聞くことになるようなセリフですね。デジャブのような…。

 

…ちなみに、本日、某自民党議員に聞いた話では、最近の自民党の選挙情勢調査では、自民、民主両党の候補者を比較して、相手より5ポイント以上リードしている候補は自民党には80人しかいないにもかかわらず、民主党には120人もいるとの結果が出ているそうです。これは自民党にはとても厳しい結果で、これでは簡単に選挙はできませんね。ただ、相手との差が0~5ポイントという候補が非常にたくさんいるので、今後の頑張り次第でなんとか…と盛り返しを期待しているところだそうです。また、大物では、山崎拓氏が相手に大きくリードされており、福田前首相は民主党の(全国的には)無名の候補相手に9ポイントしか勝っていない(とはいえ当選圏ですが)と聞きました。全く、どうでもいい余談でした。

 

 

 さて、売れっ子ジャーナリストの上杉隆氏が、週刊朝日の紙上と自身のブログで、「産経新聞外務省担当A記者」について、いいかげんなことを書いています。現在、産経の外務省担当の常駐記者は私しかいませんから、これは私のことなのでしょうし、少なくとも他に該当者はいません。これまでも上杉氏は、なぜか、私について面識もなく知りもしないのに事実に反することを書いたり、しゃべったりしていて迷惑を被っているので、いい機会だと考えてこの際、反論するとともに、上杉氏の執筆手法に関して少し考えてみることにしました。

 

 発端は、10月23日付の産経政治面に載った「週刊朝日に外務省抗議 『記事は事実と異なる』」という次の記事からです。順を追って説明していきたいと思います。

 

外務省の児玉和夫報道官は22日の記者会見で、21日発売の週刊朝日(朝日新聞出版発行)に掲載されたジャーナリスト、上杉隆氏の記事「麻生『外交』敗れたり」は事実に反するとして、水嶋光一報道課長が同社を訪れ抗議し、訂正を申し入れたことを明らかにした。外務省が週刊誌報道に抗議するのはまれだ。

記事は、斎木昭隆アジア大洋州局長が米国による北朝鮮テロ支援国家指定解除に関連し、担当記者とのオフレコ懇談会で「いい加減な記事を書くな」と激高したとあるが、児玉氏は「発言内容も激高したという点も、いずれも事実と異なる」と指摘。また、外務省幹部が「中曽根(弘文)外相ほど無能な大臣も珍しい」と述べたとある点についても、「幹部が上杉氏の取材を受けた事実は確認されず、信憑(しんぴよう)性は疑問だ。記事を掲載した週刊朝日の責任は重大だ」と語った。

週刊朝日は「筆者である上杉隆氏とも協議した上で、今後の対応を考えたいと思います」(山口一臣編集長)とのコメントを出した。

 

 これは、22日夕の児玉和夫報道官の定例記者会見で児玉氏が抗議の事実を明らかにしたことを受け、私が書いたものです。翌日の紙面では、産経のほか、朝日新聞が社会面で「週刊朝日に外務省抗議」という見出しで報じています。

 

 まず、私が記事を書いた理由について2点を述べます。一つは、上の記事にある週刊朝日の上杉氏の記事で、外務省の斎木アジア大洋州局長がオフレコ懇談の席で「いい加減な記事を書くな」と激高したとある部分について、その懇談の場にいた私は斎木氏がそんな発言はしていないことを知っており、事実と異なるという点は外務省の指摘通りだと考えたことです。このコメントは記事の構成の骨格を成す部分でもあり、また、読者の関心もひく場面でしょうから、少なくともそこを外務省が否定したということを伝えることには意味があると思ったのです。それに、斎木氏は確かに不機嫌ではありましたが、激高などはしていませんでした。

 

 もう一点は、外務省による週刊誌への抗議という行為自体が、仮に珍しいものであるならば、それ自体、一定のニュース価値があるだろうという発想からでした。そこで私は、記者会見の席で児玉氏に「外務省が週刊誌報道に抗議することはよくあるのか。それとも珍しいのか」という趣旨の質問をしました。児玉氏は即答は避け、後ほど調べて返答する旨答え、実際、しばらくして「自分が報道課長をしていたときは一度だけだった。極めてまれだと思う」と回答してきました。それとは別に報道課員からも、「調べたところ、過去2年間で2回だ」という電話がありました。とすると、多数の各種週刊誌が毎週発行している中で、1年1回程度の抗議であれば「まれ」の部類であり、記事を書く価値はあるなと判断し、抗議の事実関係だけを記しました。ただし、これはこの時点ではあくまで現場の私の判断であり、実際にデスクに採用され、紙面化されるかどうかは私には分かりませんでしたが、結局、翌23日の政治面に囲み記事として掲載されました。

 

 さらに言えば、これには前段があります。現在、外務省記者クラブの幹事社(2カ月ごとに交替で回す世話係)は産経、日経、NHK、ジャパンタイムズの4社が務めており、この週刊朝日が出た21日に、外務省報道課から幹事社に非公式な接触がありました。それは、「記事内容が事実かどうかはともかく、オフレコ懇談の内容が週刊誌に出るのはまずいという話を一応、伝えます」ものでしたが、私はそのときに初めて記事をざっと読みました。そして、冒頭にある斎木氏のコメントを見て、「私もたぶんこの懇談の席にいましたが、こういう発言はありませんでしたよ。そういうテキトーな記事を元にわれわれに何か言われても困る」という趣旨のことを話しました。正直なところ、記事内容にも外務省がそれを気にしていることについても、この時点では関心がありませんでした。

 

 その後、他の幹事社から「外務省が言ってきたことについてどうするか」という相談があったので、私は「真っ正面から取り上げるまでもないので、幹事社が聞き置く、ということでいいのではないか」と返事をしました。すると、結局、記者クラブの掲示板に外務省側の言い分が張り出されていたようですが、実はそれもろくに読んでいません。各方面に気を遣わなければならない報道課には申し訳ありませんが、私には「どうでもいいこと」だったからです。

 

 そして翌日の夕方の児玉氏の記者会見となるわけですが、私は会見でわざわざ報道課長が週刊朝日まで行って抗議をしたと聞いて驚いたぐらいでした。そこまでやるのか、と。上杉氏の記事は、外務省幹部の匿名コメントを引用して「中曽根外相は無能」と書いているので、役人側もナーバスになっているのだろうと会見を聞きながら感じていたのを覚えています。これが私が記事を書くまでのざっとの流れです。

 

 ところが、これに対し、上杉氏は翌週(28日発売)の週刊朝日で「『外務省が本誌に抗議』に反論する」という記事を書き、そこでやり玉に挙げられたのが産経と私というわけです(朝日も記事を書いたのにそれに対する言及は皆無です)。上のような一連の経緯が、上杉氏の筆にかかると次のようになります。

 

 《「発売前日、産経新聞のA記者が盛んに煽っていました。報道担当に断固として抗議すべきだと――」(記者)》

 

 …呆れるしかありません。大げさなようですが、天地神明に誓ってそのような事実はありません。私は至らない人間ですから、間違いは犯しますし、保身のために言いたくないことをなるべく言わずに済ませようとすることはないとはしませんが、嘘は大嫌いなのです。そもそも私には、外務省が週刊朝日に抗議するという選択肢すら、頭の中に全くありませんでしたし、そんなことにいちいちかかずらわっているほどの暇は持ち合わせていませんから。

 

 これは、匿名の「記者」が話したという形式をとっていますね。仮にその記者が上杉氏の妄想ではなく実在していて、そう話したとして、その確からしさと真実性、脈絡を判断し、記事に書いたのは上杉氏なわけですから、その責任は上杉氏が負うべきものでしょう。A記者とぼかしてはいても、実際問題、私しかそこにいないわけですから、この記事を読んで「阿比留がそんなことをしているのか」と思った人もいることでしょう。万一、上杉氏が、私に悪意があるか、いたずら心を催したどこかの「記者」にだまされた結果だとしても、その迂闊さ、いいかげんさは否定できないものだと思います。一事が万事だとまではいいませんが、いま、雑誌やテレビでもてはやされている売れっ子ジャーナリストの取材・執筆手法は、果たしてこの程度のものなのでしょうか。

 

 また、この2度目の上杉氏の記事は、斎木氏の懇談のもようを日時、場所も特定して細やかに描写し、前回の記事では書いていない斎木氏のコメントにも言及しています。おそらく、その場に居合わせたどこかの社の記者のメモが上杉氏の手元に入ったということだろうと思います。ただ、一方で外務省が抗議した最初の記事にある「いい加減な記事を書くな」と斎木氏が述べたという部分については、この反論記事では一切触れず、間違っていたともやはり正しかったとも触れないようにしています。その点については自信がなくなったのかもしれません。

 

 それなのに上杉氏は今回、自身のブログでも「外務省報道課と一緒になって、ハシャいで攻撃してきた『産経新聞外務省担当A記者』も、事実関係、まちがってますよ~。ちゃんと取材してから、記事を書きましょうね」と私を挑発してきました。

 

 私がいつ、「外務省報道課と一緒」になり、「ハシャいで攻撃」したというのでしょう。また、どこが事実関係が間違っているというのでしょう。これまで私は、たびたび上杉氏に、事実と異なるか、あるいは微妙に事実とずらした表現で取り上げられてきても「まあ別にいいや。この人も商売なのだから」と特に反論はしてきませんでしたが、今後は少し考え直すべきなのかもしれません。「ちゃんと取材してから」記事を書くべきは上杉氏の方ではないでしょうか。

 

 第一、私は何度も上杉氏にあることないこと書かれてきましたが、一度も取材を受けたことも、話したこともありません。おそらくこれまでも、他紙の記者らから聞いた伝聞話を元に私のことも書いてきたのでしょうが、今回の週刊朝日の記事を見ただけでも、それがいかに怪しくいい加減なものか分かることだと思います。そして、そのいい加減な二次情報、三次情報、あるいは妄想がネットその他で独り歩きし、それが私への批判となって迷惑している現状もあります。

 

 ちなみに、この2度目の記事に関し、産経新聞は広報部長名で朝日新聞出版の山口一臣氏と上杉氏あてに「訂正文掲載の申し入れ」を29日付で送りました。以下の内容です。

 

 《御社発行の「週刊朝日」11月7日号に掲載された「『外務省が本誌に抗議』に反論する!」の記事には、読者に誤解を与える、一方的な記述、曲解が多々見られますが、少なくとも、以下の明らかな間違いに関しては、速やかに訂正文を掲載するよう求めます。

 

 1.「発売前日、産経新聞のA記者が盛んに煽っていました。報道担当に断固として抗議すべきだと――」(記者)とありますが、そうした事実はありません。

 

 2.弊社に対し、記事の最後に「ヒマな人たちである。」とありますが、弊社は御社からの《取材のお願い》に対して、きちんとお答えしたにもかかわらず、こうした記載をされるのは極めて遺憾です。ジャーナリストの良心に従い、撤回すべきです。

 

 以上、速やかに対処されますよう要望致します。》

 

 本来、私は争いを好まない平和的な人間(?)ですが、事実でないことを放っておいて、また既成事実化されたらたまらないなと考え直し、あえて挑発に乗って反論してみました。これについての判断は、当然のことながら、読んでいただいたみなさんにお任せするしかありませんが、そもそも事実関係が間違っているのだから、上杉氏には素直に謝罪・訂正してもらいたいと思います。

 

 

 

 

 えー、少しマニアックというか趣味的な話になりますが、きょう、空を見上げていつものように雲を眺め、ああ、「これはまるで『光の鷹』が両翼を広げているようだ」と思いました。ほとんどの方には何のことやら分からないでしょうから読み飛ばしてほしいのですが、最近、新刊(33巻)が出た漫画「ベルセルク」(三浦建太郎著、白泉社)からの連想です。いや、その、別にどうでもいいことなのですが、ずっと好きで楽しみに読んでいる作品のシーンを思わせるような雄渾な雲だなあと感じたもので。

 

 で、これだけだと1本のエントリとしてあまりにも何なので、古い話ですが、15年前の東京新聞の記事を紹介します(最近、資料整理をしていて切り抜きのコピーを見つけたので)。「漫画の教育効果調査 考えさせるきっかけに有効 熱中派は国語が得意?」という見出しで特報面に掲載されたもので、千葉大教育学部の明石要一教授らの研究グループが発表した「漫画好きの子供は勉強もできる」というリポートをもとにしたものです。麻生首相も漫画好きで知られますが、当時この記事を読んで、社会の偏見もあってこういう視点はあまり取り上げられていないけれど、頷けるなあと興味深く感じた記憶があります。

 

 それによると、明石教授らが当時、千葉県内の小、中学生1256人を対象に調査し、漫画に対する熱中派(20%)と無関心派(10%)、「ほどほどに読む」(70%)たところ、漢字の読みや図工が「超得意」と答えた子供は熱中派が最も多く、中間派はほとんどの項目で最下位だったそうです。また、熱中派の子供と国語の成績に高い相関関係が見られたとあります。

 

 記事の中で、明石教授は「漫画を理解するためには、短いセリフの〝行間〟を推理し、読み解く国語力が必要です。また、漫画好きの子供ほど読書量が多いとの結果も出ており…」と語っていますが、これは私の実感とも重なります。漫画を読む人は一般の本も読むし、漫画を読まない人は本も読まないことが多いというのが、私がこれまで生きてきていろんな人と接した結論ですが、世間ではどうも誤解があるように感じています。漫画好きは本を読まない、というような。それは全く違うと思うのですが。

 

 また、「もっと勉強(運動)ができるようになりたい」という願望や、「宇宙に行ってみたい」といった夢を持つ子供の割合も、熱中派が多かったとのことです。私はあくまで東京新聞の記事をもとに書いているだけで、元データは持っていないので、数字は示せませんが、たぶんその通りなのだろうと思います。数年前、海上自衛隊の幹部と話した際には、「宇宙戦艦ヤマト」を観て海自に入った隊員はたくさんいるという話を聞きましたが、防衛問題に精通している石破農水相も大学生時代、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」を12回観たと言っていました。まあ、漫画とアニメは別物ではありますが、その点はちょっとご容赦ください。

 

 この調査は15年前のものであり、その後の携帯電話や携帯ゲーム機の普及で、あくまで私見に基づく推測ですが、漫画を読む子供は本も読み、漫画を読まない子供は本も読まないという傾向はいよいよ強まっているのではないかという気がします。しばらく前までは、電車の中で漫画を読む大人(私もその一人)や学生がよく批判の対象となりましたが、最近は電車内で携帯ゲームやメールをしている人の方が多数派ではないでしょうか。

 

 私は、まだ幼い自分の子供には、ゲームに熱中する時間があれば、寸暇を惜しんで漫画を読めと教えようかと思っています。私自身は、漫画と本とを区別して考えたことはありませんし、またその必要も感じていません。どちらも、面白いものもあればつまらないものもあり、名作は名作だし、駄作は駄作だというそれだけのことだと思っています。

 

 大げさに言うと、漫画は、日本が世界に誇るだけの質と量を兼ね備えた一大文化だと確信しています。私がいまさら言うまでもありませんが…。

 

 どうやら衆院の解散時期が先送りとなってきたようですね。昨日、ちょっと話す機会があった自民党議員も、「地元でも『今は解散なんかやっている場合じゃないだろ!』と言われる。選挙なんてやっている暇があったら、まずは景気をなんとかしてくれ、というのが国民の声だろう」と言っていました。私は9月の自民党総裁選時には、世界経済がこの時期にここまでふらつくとは思っていなかったので、「ほぼ冒頭解散」だと予想していましたし、実際、麻生首相に近い議員からもそう聞いていたので、そんな予測をしていたのですが、大外れとなりました。

 

 というわけで、不定期連載中の民主党の小沢一郎代表の言動をたどるシリーズを、なんとか解散前に終えたいという欲が出てきました。当初は、特に誰かに頼まれてやっていることではないし、途中で選挙になって中断しても別にいいやと思っていたのですが、間に合うものなら間に合わせようと。本日の「その6」は、平成9年12月の新進党党首時代から新進党の分裂・解党、自由党の結成と来て、自民党との自自連立が成立した後の10年12月までの約1年間の言葉を掲載します。

 

・平成9年12月4日朝日、新進党党首、記者会見で、公明が翌年夏の参院比例代表での合流を撤回する方針を内定したことについて

「公明が選挙を別にやるとの話が本当なら大きな影響を持つことになる。(公明党を)解消して(一緒に)やるということで新進党を作った。やらないのなら新進党は成り立たない。地方議員や党本部の職員の問題もあるので、すぐにはできないということだった。私は今でも全面解消して、新進党として一本化するという初心を貫くのがベストだと思う」

 

 =このころはまだ旧公明党・創価学会に未練たらたらですね。小沢氏はたびたび「数合わせ」の論理を批判しますが、一方でそれは当然だとも思っているのでしょう。そうした矛盾を抱えるのは、現実を動かさなければならない政治家として、ある意味仕方がないとも考えるのですが、この人の場合、「オレの言うことは何も変わっていない」と開き直るから始末に負えないというか。

 

・平成9年12月17日読売、新進党党首、党首選候補者インタビューで

「日本の政党は政策でぴしっと分かれていない。基本的な考え方を立て、それに賛成する人が勢力を結集するというのが正しいやり方だと思う」

 

 =本当にそうであればいいな、と私も思います。でも実際はというと、現在の小沢氏率いる民主党が一つの政策でまとまった集団、政党だなんてだれも思っていないし、小沢氏自身もこれっぽっちも信じていないことでしょう。悲しい現実です。

 

・平成9年12月17日産経、新進党党首、党首選候補者インタビューで、創価学会・公明の「政教一致」について問われて

「政党として政治としてあり得ない。そう考えて接したことはない」

 

 =さて、現在ではどう考えて接しているのやら

 

・平成9年12月28日産経、新進党党首、両院議員総会で解党について

「新進党結党以来3年が経過し、いろいろな評価があると思うが、日本政治に大きな役割を果たした。新進党の成果をさらに発展させるべく、『日本再構築宣言』の実践に向けて全力を尽くしたい。2年間ふつつかな党首だったが、おわび申し上げる」

 

 =後に小沢氏は、新進党が崩壊していなければ政権を取れた可能性が高かったと認めているわけですが、そこが不徳の致すところ、なのでしょうね。「あのとき少し我慢しておけば…」と眠れない夜を過ごしたことが何度もあったのではないかと想像します。でも結局、人は変われないというか、「自分自身」を繰り返し体験するしかないのかもしれないと、この人を見ているとそんな気がします。

 

・平成10年1月1日産経、自由党設立委員会委員長、NHK新春インタビューで

「行革、民間の規制撤廃など既得権益を組み替えることは大きな痛みを伴うが、闘う政策集団として勇を奮って乗り越えたい」

 

 =「闘う政策集団」という言葉に、懐かしさを覚えました。確かに自由党のときは、少人数でもあったし、内部に矛盾は抱えつつも、それでもまだ「政策集団」を名乗るだけのものがあったように思います。しかし、その限界を誰より感じていたのが、ほかならぬ小沢氏だったのか。

 

・平成10年3月11日朝日、自由党党首、日本外国特派員協会での講演で

「自由党は今は50数人だが、国民のために明確な政策を示す政党を支持するという認識が高まれば、過半数をとれる。私の気持ちは『我に改革を与えよ、しからずんば死を』となる」

 

 =このころまでは、小沢氏は盛んに「改革」を口に出し、キャッチフレーズにしていましたね。しかし、「改革」はやがて小泉元首相の専売特許のようになり、やがてそれに否定的イメージが被せられるに及んで、小沢氏はあまりこの言葉を遣わないようになった気がします。それにしてもこの講演でのセリフは、まるで劇的効果を狙うことを好む小泉氏が言っているかのようですね。

 

・平成10年3月27日毎日夕刊、自由党党首、10日の日本外国特派員協会での講演の言葉を引いて

「数十人の同志と改革の旗を掲げて自民党を出てから4年半になりますが、正直に申しますと、改革への道のりがこれほど長く、険しく、つらいとは思っておりませんでした。日本ではいまだにアンシャン・レジーム(旧体制)が続いております。それを考えると情けなくなることさえあります」

 

 =金丸信氏らの庇護の下、47歳で自民党の幹事長となって権力を振るい、世の中を少し甘く見ていたことを告白しています。その率直な心情吐露はいいのですが、今では小沢氏自身が自治労、日教組など旧体制の守護神と化しているようで…。

 

・平成10年5月14日日経、自由党党首、インタビュー

「我々は政権や政治勢力を我々の考えを実行する手段と考えている。だから我々の考えが実現できる限り、直接、政権のポストに就こうが就くまいが、協力していく。極端な話、政策で一致するなら共産党との協力も辞さないと僕は言っているし、当然、自民党も例外ではない」

 

 =この時期、この表現が気に入っていたのか、他紙のインタビューでも「共産党との協力」を語っています。まあ実際、次期衆院選では共産党票がどれだけ民主党に回るか注目されているわけですから、違った形でそれは実現しそうですが。

 

・平成10年8月14日毎日、自由党党首、参院選自民党大敗後のインタビュー

「それでも、なおかつ、まだ自民党は直面している危機の本質に気がついていない。要は橋本さん(龍太郎前首相)に責任を全部負っかぶせ、シャッポだけ首を切った。今までの歴史の中でもまれなことだ。自民党は負ければ、(手を左右に動かし)今度はこっちに振って全交換し、生き延びてきた」

 

 =この見方に関しては私も、自民党の在り方の本質を突いていると同意します。昨年の参院選後、安倍元首相とその保守路線に敗戦の責任をすべてかぶせ、思想信条的にその対極に位置する福田前首相に雪崩を打った自民党議員たちの姿が目に浮かびます。それでは何の解決にもならないのに…。

 

・平成10年11月20日産経、自由党党首、自自連立合意後の記者会見で

「私たちにとっても、国民の皆様のためにも大変よかった」

 

 =もともと前言を翻すことなど平気な人なのでしょう。

 

・平成10年11月23日サンケイスポーツ、自由党党首、テレビ番組で将来、首相を目指すのかと問われて

「みんながどうしても必要だというなら拒否しない」

 

 =この時期、小沢氏が「ハイ」になっていたのが何となく伝わるセリフです。有頂天になっていたとも言えますね。

 

・平成10年12月5日産経夕刊、自由党党首、党国会議員候補者コンテストでのあいさつで自自連立について

「連立しても参院では過半数に達しない意味で数合わせにならない。それでも、自民党が連立を求めてきたのは、自由党が主張した政治、行政、経済の各改革を認め、理念と政策の力を借りて今日の日本の危機を乗り越えないといけない、ということだと思う」

 

 =当時、私は政治部の初年兵として首相官邸で小渕首相の総理番をやっていました。夜回り先などで秘書官らから自自連立についての舞台裏や小沢論などをいろいろ聞いたのを懐かしく思い出しますが、このころは私もまだ小沢氏に根拠のない期待感を持っていたのです。いま、この人のつくられ、祭り上げられた「イメージ」「虚像」を批判し、その是正に努めていますが、当時は私自身、幻惑されていました。

 

・平成10年12月11日産経、自由党党首、女性週刊誌「女性セブン」で「ひれ伏してでも」と自自連立を進めた野中広務官房長官について持ちあげ

「政治家個人の確執なんてどうでもいいこと。今回の連立の決断についても本当に腹が据わっていないとできません。その意味で、(小渕恵三)総理も野中さんもたいへんな政治家。僕自身、野中さんに感情的なわだかまりはありません」

 

 =3週間ぐらい前の週刊現代で、野中氏は不動産問題など小沢氏の政治資金問題について「どうして東京地検が動かないのか不思議だ」という趣旨の発言をしていましたが、政治家同士の互いの評価なんて多くはその場限りのものなのだと思います。一時期がっちりと手を結んでもやがて離れ、また知らん顔をして仲良くしてみたり。小沢氏の場合、離れていく人がちょっと尋常ではないほど多いということは言えますが…。

 

 

 

 今朝、通勤途上に撮った朝の太陽です。遠い遠い宇宙空間で燃えさかる太陽が、地球のすべての生命を育み、生かしているのだと思うと、とても不思議な気がします。些事に悩まされることが多い世の中ですが、空を見上げると、くだらないことを気にしても仕方がないなというおおらかな気持ちにさせてくれますね。

 

 後で気付いたのですが、今回は、記念すべき(?)700エントリ目でした。もっと爽やかな別のテーマにした方がよかったかな…。

 

 

昨日、月刊WiLL12月号を読んでいたところ、中山成彬前国土交通相が語る「放言大臣大いに吠える『日教組はぶっ壊せ!』」という記事が載っていました。この中で、中山氏は私が産経紙面とこのブログでたびたび取り上げている山梨県教組と民主党の輿石東参院議員会長を例に引き、次のように語っていました。

 

 《(前略)日本の解体をめざすことを運動方針として掲げている日教組に日本の教育が支配されるようなことがあれば、子供達の未来が危ない。

そのいい例が、民主党の輿石東参院議員の地元の山梨です。彼は日教組出身で、山梨県教職員組合の執行委員長まで歴任しています。

彼は2004年の参院選で小中学校の教職員らから組織的に選挙資金や票を集めていました。学校での政治活動を禁じた法律に違反する行為です。そのため資金集めに関与した山教組役員や校長、教頭ら14人が懲戒処分となった他、計24人が処分されました。

もし民主党が政権をとったらどうなりますか。輿石氏が文科大臣にでもなれば、日教組がますます教育を牛耳ることになる。日本の教育はますます自虐史観を押し付け、日の丸、君が代を否定し、おぞましいようなジェンダーフリー教育が推進され、日本は解体されることになるでしょう。子どもたちにとってこれ以上の不幸はありません。

輿石氏を頂点として、日教組が民主党の支持母体になっているからこそ、私は日教組と民主党を批判しているのです。》

 

 中山氏にはこの調子でがんがんやって、日教組問題に対する国民の関心を喚起してもらいたいものです。で、今朝の産経(東京版)には、2面と4面にこの日教組が関係する記事が掲載されています。2面の方は、大阪府の橋下知事が、教育問題討論会で中山前国交相の発言の評価をめぐり日教組教師とやりあい、怒号ややじが飛んだことを伝えています。橋下氏にもこれに懲りず、どんどん発言してほしいものです。また、4面の記事は教育の正常化を目指す民間団体、全国教育問題協議会の教育研究大会で、やはり日教組批判が噴出したことを記しています。

 

 特に後者の会合では、山梨県の現職教員が、同県で行われてきた輿石氏ら支援のための選挙資金カンパや違法な政治活動について報告しました。記事は12字組で70行という決して小さなものではない(大きな扱いでもありませんが)のですが、例によって与えられた紙面スペースの中では書ききれなかったこと、盛り込めなかったことがあるので、このブログで補足したいと思います。この勇気ある教員は、山梨県の現状について次のような悲痛な訴えを行いました。

 

 「子供たちにルールを守れと指導する教員の団体が、自らルールを破るようなことをやっていいのか。教師は全体の奉仕者であって、特定の政治家、政党の選挙運動員ではない。この当たり前のことが山梨ではなかなか言いにくい。教師が本来の仕事である教育に専念できるようにしてほしい。実際問題、教員は(選挙支援のための)カネを集めるようなことはしたくないんです。学校の先生方を選挙運動から解放してくださいとお願いするのみです」

 

 私がこれまで日教組などの政治活動を批判すると、教師にも思想・信条の自由があると反論される場合がありましたが、この教員の訴えをみれば分かるように、教組が組合員を締め付け、良心に反する行為を続けさせていると言えるのです。組合の指示に従わないと、いじめ、左遷、昇進妨害などのさまざまな嫌がらせを受けることは私はこれまでも書いてきましたが、この教員は、一方で子供の教育よりも組合活動に熱心に取り組むと昇進が「褒美」として与えられている実態も報告してくれました。まさに「アメとムチ」の「アメ」だというわけですね。

 

 彼は「山梨(の教育界)で昇進するためには、組合の役員をするのが一番の早道となっている。教組の役員は早く昇進し、長く管理職に在職できる」と指摘し、パワーポイントで表を示し、昭和63年から平成10年までの山梨県教組役員の昇進状況にかかわる具体的な数字を挙げました。

 

 それによると、この期間の山梨県教組各支部の委員長、書記長、財務部長ら役員計138人のうち、管理職の対象年齢に達していない13人を除く125人について追跡すると、

 

1.     36人(28.8%)が県教育委員会に登用されている(校長・教頭経由を含む)

2.     47人(37.6%)が校長に登用されている。

3.     30人(24%)が教頭に登用されている。

4.     つまり、90.4%がいわゆる管理職に就任している

 

 という結果が出たそうです。つまり一生懸命、選挙資金カンパを集め、輿石氏のポスターを貼り、後援会カードを集め、選挙対策会議を開けば9割方管理職になれるというわけです。組合の意向に従わない教員は徹底的に干す一方、熱心に活動した教員はきちんと処遇し、かつ教員人事を所管する教委へと大量に送り込んで「組合人脈」を築き、組合がすべてを支配するという構図ですね。こんなことが何十年も続いてきたわけですから、それはもうがんじがらめで、内部からの改革などとても望むべくもないのでしょうね。やはり徹底した〝外圧〟が必要だと考える次第です。

 

 ちなみに、同じ会合で森山真弓元文相はこう語っていました。基本的に同感です。

 

「日教組の問題について、中山さんがあのように話して、それが大きな騒ぎになった。確かに、全く所管の違う大臣だったのに、ああいうことを大臣の発言として取り上げられたのはちょっとふさわしくなかったかもしれないが、中でおっしゃっていることは、個人的にはごもっともだと思う。世の中にもうちょっとこの問題に認識をもってもらって…」

 

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