はい、お待たせしました。やっと小沢一郎語録の「その七」が用意できました。本日は平成10年12月の自自連立から自自公連立、自由党の連立離脱ときて、森政権下での衆院選が終わるまでです。小沢氏の心境が乱高下している時期というか、高揚したり、落ち込んだりいろいろしていますが、果たして、みなさんの関心を引くような内容がありますでしょうか。早速、ご覧下さい。
・平成10年12月25日産経、自由党党首、党の納会で自自連立が成立したことについて
「つらいこともあったが、皆さん頑張って今日まできたことを、お互い喜び合いたいと思う」
=元のサヤに戻り、自民党とまた一緒にやれることがうれしくて仕方がなかったようです。
・平成11年1月16日産経夕刊、自由党党首、自民党大会での来賓のあいさつ
「久しぶりに党大会に出席させていただいた。党歌(「われら」)も一緒に歌わせていただき、複雑な心境とともに感慨深いものを覚えた。自民、自由両党は揺るぎない信頼関係を築き、協力し合い、政治、行政、経済など21世紀に向けてあらゆる改革の推進の先頭に立っていこうではないか」
=これを読み返した私もまた、感慨深いものがあります。そんなこともあったなあ、と。でも、初心が続かない人なんですよねえ…。
・平成11年2月19日産経、自由党党首、自民党の村上正邦旧中曽根派会長の勉強会で復党の意思について聞かれ
「いまただちに一緒になるとは私の口からは言えないが、理念・政策が一致するなら一緒にやっていくのはやぶさかではない」
=自民党に戻りたくて仕方ない気持ちがにじみ出ているかのようです。
・平成11年4月2日産経、自由党党首、インタビューで日米関係について
「本当の日米関係を築くなら、日本は同盟国、友人としてやれるだけの責任と役割を果たさないとダメだ。英国は労働党のブレア首相でさえ最後は米国と行動をともにする。国家としての威信とプライドをきちんと持って同盟国として存立しているということだ。経済面では日本は規制を緩和し、市場をオープンにして、米国など外国資本をどんどん入れればいいのに、政界も財界も腹がすわっていない」
=小沢氏の「腹」はどこに行ったのでしょう。どの口が言うのか、という気もします。
・平成11年9月6日産経、自由党党首、民放テレビ番組で憲法について
「憲法は、自由な国民の意思表示によってできる状態でないと有効でない。契約も脅かされたり監禁されたりして署名したものは無効だ。日本国憲法も占領時代につくられた憲法なので、いったん無効にして新しい憲法をつくるべきとの議論もある」
=この現行憲法無効論を一貫して述べているのなら、傾聴に値するとも思いますが、今ではこんなこと決して言いませんからねえ。首尾一貫しない人です。
・平成11年10月6日産経、自由党党首、
「自由党はうるさくてかなわんと自民党は言う。日本ではリーダーシップを発揮すると独裁者、剛腕と嫌われ、私も政界で『原理主義者』と嫌われる」
=私も、政治家のリーダーシップとは何かと考えることがよくあります。リーダーの「決断」が混迷した事態を切り開き、新たな展開をもたらすことがある一方、ただのわがまま、独善に映ることもありますね。難しいものですがこの人の場合…。
・平成11年11月12日産経、自由党党首、記者会見で自自合流について
「私の方から自民党との合流を打診したことも、要請した経緯もない。われわれは本当にいい日本を作り上げるための政策を国民に訴えている。その政策をよしとして、ともに力を合わせ実行しようという仲間がいれば、何党に所属していようと、手を携えていくのは当然だ。政策実現を可能とする選択を探るのは、政治家、政党として当たり前だ」
=このころ、永田町・霞ヶ関では自自合流は選挙対策上、小沢氏サイドが持ちかけたという話が専ら流通していました。
・同上、自由党若手議員との懇談で
「自民党は下手に出ればいくらでもつけあがるが、強気に出ればどこまでも譲るところだ」
=こういう小沢氏の考え、姿勢が、野中広務官房長官(のち幹事長代理)との間にはさまれた小渕首相を追いつめていったのでしょうね…。
・平成11年11月15日産経夕刊、自由党党首、民放テレビ番組で自民党との合流論議について
「党としてどうこうとかは、公式にも非公式にもない。お互いのいろんな会話でそういうことが口の端に上ることはあった」
=この人は日本人はあいまいだとよく叱っていますが、自分はどうなんだか。
・平成11年12月16日産経、自由党党首、記者会見で、自民、自由、公明の三党連立にとどまることを正式に表明して
「首相や自民党の善意と誠意にもう一度期待して、(定数削減の)実現にかけてみようと考えた。(自自合流問題については)そういう意味の話は小渕首相との会話の中でも出た。ただ今日(の党首会談)は政策合意、約束を何とか実行するようお互いに智恵を出そうということが主だった」
=このころ、小沢氏は何度も「連立離脱」と大騒ぎしてはあっさり引き下がることを繰り返し、夕刊紙だけでなく一般紙でも「オオカミ中年」と書かれていました(命名・山崎拓氏)。こういうありがたくないあだ名も、時の経過の中でみんな忘れていくものだから小沢氏も助かっています。
・平成12年1月7日産経、自由党党首、党本部での仕事始めでのあいさつ
「今年は辰年で、占いに詳しい人に聞くと何やかや大変な年だそうだ。自由党は結党の原点を常に忘れず、つらくても我慢して力を合わせて、国民のために大きな役割を果たすことができる年になるよう努力をしていきたい」
=このとき、小沢氏が公の場に姿を現したのは前年の12月15日以降、初めてのことでした。こうしてずっと言動を追っていると、やたらと入院や雲隠れが多いほか、この「つらい」という言葉もよく吐いているのが分かります。
・平成12年4月2日産経、自由党党首、自自公党首会談で、小渕首相から連立解消を通告された後の記者会見で
「わが国の議会制民主主義を守るため、自民党も自由党もみんな生まれ変わって、保守再生の形で政治に当たらなければならないとの考えは変わらず持っている」
=自民党との合流、保守新党結成にまだ未練を残した言葉です。ただ、こうした小沢氏のせっかちな強引さが、自自に亀裂を入れ、連立解消につながったのは間違いないと思います。当時、私は小渕首相番記者の一人でしたが、小渕氏が思い悩み、苦悩している様子ははっきりと伝わってきました。そして、小渕氏は倒れ、不帰の人となりました。小渕氏の長男(優子議員の兄)が、弔問に訪れた小沢氏に頭も下げず、ずっとにらみつけていたというエピソードも聞きました。
・平成12年6月3日朝日、自由党党首、総選挙インタビューで、1993年に自民党を飛び出してからの軌跡について
「僕も反省してるんだが、自社のアンシャンレジーム(旧体制)の復活を許してしまった。もう少し(非自民政権を)続けていれば、完全に旧体制は崩壊したと思うが、息を吹き返しちゃった」
=そして今は、自分が民主党代表として旧社会党勢力を取り込み、アンシャンレジームを体現していると。
・平成12年6月8日産経、自由党党首、総選挙インタビューで公約「戦後保守との決別」について説明し
「自民党は、国際政治や教育、日本の伝統文化の問題でも、本来守るべき価値を大事にせず、経済的に豊かにすることだけを政治の目標にした。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策は、日本を二度と国際政治の場に登場させないように、民族の力を弱体化させるのが目的だったが、戦後経済の復興だけは、一生懸命やってくれという姿勢だった。衣食住、経済を復興させることだけは許されていたから、当時の吉田茂首相は、まずこれに全力を傾けた。吉田首相自身が後に、こんなことではダメだと日記に書いている」
=時代的に、このインタビューには私も一枚かんでいるのかもしれませんが、記憶にありません。ただ、この小沢氏の主張、認識には異存がありません。素直にその通りだと思います。同じ人が、今ではそのGHQの教えを忠実に継承している日教組を支持基盤にしているというのが、何とももの悲しい気がします。
・平成12年6月26日産経、衆院選で与党三党が過半数議席を確保したことについて
「私の読みが外れた。もう少し国民は積極的に(選挙に)参加すると思っていた。危機感がそれほど強くなく投票結果に表れなかった。現状のままで何とかならないかということの方が、国民の心理としては上回った」
=いつかどこかで聞いたような、そしてまたいつか聞くことになるようなセリフですね。デジャブのような…。
…ちなみに、本日、某自民党議員に聞いた話では、最近の自民党の選挙情勢調査では、自民、民主両党の候補者を比較して、相手より5ポイント以上リードしている候補は自民党には80人しかいないにもかかわらず、民主党には120人もいるとの結果が出ているそうです。これは自民党にはとても厳しい結果で、これでは簡単に選挙はできませんね。ただ、相手との差が0~5ポイントという候補が非常にたくさんいるので、今後の頑張り次第でなんとか…と盛り返しを期待しているところだそうです。また、大物では、山崎拓氏が相手に大きくリードされており、福田前首相は民主党の(全国的には)無名の候補相手に9ポイントしか勝っていない(とはいえ当選圏ですが)と聞きました。全く、どうでもいい余談でした。