本日は、この前自宅で昔の取材資料などを整理していた際に出てきた13年前にロシア・ハバロフスク近郊で撮った写真をアップしたいと思います。何の脈絡も必然性もありませんが、実に久しぶりに手にとったところ、もともと下手で露出もピントもあっていなかった写真が、歳月の中で色褪せてきていたので、この際、デジカメで複写して記録しておこうと思い立ったので。
でも、それだけでは何のことか分からないでしょうから、当時書いた関連記事の一部を添えて紹介します。このとき、私は社会部の戦没者遺族取材班に所属していたのと、もともとシベリア抑留問題を取材していたことから、ロシアに出張する機会があったのでした。
抑留者の魂安らかに シベリア平和慰霊公苑で追悼式 [ 1995年09月13日 東京朝刊 1面 ]
【ハバロフスク(ロシア)12日=阿比留瑠比】帰国を果たせないまま、旧ソ連の大地に眠る約六万人の日本人抑留者の英霊をまつるシベリア平和慰霊公苑と慰霊塔がロシア東部のハバロフスク市に完成し、十二日午後一時(日本時間同午前十一時)すぎから、追悼式が催された。
主催したのは、財団法人「太平洋戦争戦没者慰霊協会」(瀬島龍三会長=伊藤忠商事特別顧問)と厚生省。ロシア側からも同市の要人らが出席した。
…写真は慰霊塔です。ただ、これが建てられた平和慰霊公苑はその後、荒らされたりもしたと聞いています。なかなか、和解への願いも祈りも、簡単には通じないものですね。
シベリア慰霊祭 「悲しみに民族差ない」 日露450人が黙とう [ 1995年09月13日 東京朝刊 社会面 ]
【ハバロフスク(ロシア)12日=阿比留瑠比】異国の地で無念の死を遂げた日本人抑留者をまつるシベリア平和慰霊公苑と慰霊塔での追悼式には日本から約三百人、ロシア側からはハバロフスク市のフィリポス市長ら約百五十人の計約四百五十人が出席した。
追悼式は市中心部のドラマ劇場と、市北部の慰霊公苑での献花の二部に分けて行われた。劇場では停電のハプニングもあり二十数本のロウソクの明かりを頼りに式典が進められた。
十一年間の抑留生活から帰国後初めて四十年ぶりにハバロフスクの地を踏んだという瀬島龍三会長は「感慨無量。これを契機に東アジアの平和、日・ロ両国の親善友好が促進されることを期待する」とあいさつ。
ロシア平和基金のポターポワ・ハバロフスク地方議長は「父やおじがどこに埋葬されたか分からない遺族にとっては戦争は終わっていない。悲しみに民族差はありません。慰霊公苑と塔は両国民の間の友好と平和の象徴です」と、追悼の辞を述べた。
その後、日本人とロシア人全員で戦没者に黙とうをささげ、会場を移した。
公苑には芝生が敷かれ、菩提樹や千島桜、ツツジなどの苗が植えられ、隣接する赤レンガの慰霊塔には天皇、皇后両陛下からの白菊の供花が飾られている。
十一年半の抑留経験を持つ最高齢の元陸軍大佐、草地貞吾さん(九一)は「五十年前、この地に連れて来られたのはやはり九月、電気なんてなかった。停電でかえって厳かに引き締まった。英霊がしてくれたことだと思います」と話した。
…写真前列右から2番目の長身の男性が草地氏で、ハバロフスク郊外の日本人捕虜が埋葬された墓地で手を合わせている場面です。草地氏については以前のエントリでも何度か触れましたが、最長の11年間半もシベリアに抑留され、ソ連側から拷問を受け続けながら、最後まで一度も転ばなかった信念の人でした(山崎豊子氏の「不毛地帯」のモデルの一人とされています)。明治の男には気骨がありましたね。わが身を振り返ると反省しきりです。
このときは、日本から約300人のシベリア抑留関係者や遺族らがハバロフスクに渡ったのですが、飛行機が到着したときは台風の接近で冷たい雨が強く降っていました。
10年以上前のことで、私の記憶もあいまいなのですが、上の写真は確かハバロフスク南方約75キロの場所にあるホール第2墓地のものだったと思います。どこまでも続く白樺林が風に揺れる墓地では、待ちこがれた帰国を果たせないまま異国に眠る戦友や家族のことを思い、多くの人が涙を流していました。
日本人の白い墓石には、個人名は記されておらず、「4/6」といった整理番号だけが書かれていました。その墓石にしたところで、いかにも急ごしらえで整えたという感じで、もともと日本人墓地はどんな扱いがされていたのか…。
今回、このエントリをアップしたのは、生前の草地氏の写真があったので、ぜひ記録に残しておきたいと考えたからでもあります。草地氏も、自身の信念と体験に基づき、大東亜戦争や歴史問題で盛んに発信されていましたが、帰国後は公職に就くことはしなかった人でもありました。もし草地氏に関心のある方がいらっしゃれば、07年3月21日のエントリ「ある関東軍参謀未亡人からの慰安婦問題についての電話」を参考にしていただけば幸いです。