2009年08月

 

 いま、NHKの開票速報を見ながら、予想したよりは自民党が踏みとどまったなと感じています。午前1時55分現在で、自民党が119、民主が306で残り2議席という状況です。民主党が320ぐらいいって、自民党は100を割るかな、という感触があったもので。

 

 まあ、いずれにしろシロクロはっきりつけるために小選挙区制を導入したときから、こういうことが起こり得ることは(少なくとも理屈の上では)分かっていたわけですしね。今さらカナダ議会の例を持ち出すまでもなく。そして、こういう政権選択ができるのが民主主義なのだろうと。

 

 今回、自民の獲得議席が100を割れば、内部からぼろぼろと抜け落ちて党自体が崩壊してしまうかもな、と見ていたのですが、まあ、これぐらい取れば、2大政党というのはおこがましくても、一応、野党の役割を果たすことはできるでしょう。巨大民主党による一党独裁(しかも小沢氏独裁)はいかがなものかと懸念しいました(まあ、今回の数字でも似たようなものですが)。それと、当選しなくていい人がけっこう当選しちゃった中途半端感もありますが…。

 

 さて、本日もそうでしたが、明日からまた忙しくなりそうです。本当に、この先どこに行って何が飛び出すのか分からないおもしろみはありますね。目隠ししてジェットコースターに乗せられるような怖さはありますが、いつか出口には到着するのだし。混乱も混沌も楽しみたいと思います。心機一転して…。

 

 

 

 えー前回のエントリでは分不相応にもプラトンの名著「ゴルギアス」(加来彰俊著)を引用したわけですが、実はこの本の巻末にある「解説」は、私がこのブログのコメント欄で何100回ものご指摘を受け、かつ私自身、幾度か取り上げてきたマスコミの問題への言及があります。この本の中でプラトンは、ソクラテスの口を通じて立身栄達の術とされ、もてはやされている「弁論術」(とその背景にある実利主義的人生観)を徹底的に批判しています。

 

 で、その解説の中で訳者は次のように書いています(太字は私がつけたものです)。この本の第一刷は1967年6月となっていますから、解説もその際に書かれたものかもしれません。あくまで訳者の私見ではあるのでしょうが…。

 

 《※この点を現代のわれわれの問題にもうすこし近づけていえば、弁論術はさしずめ今日のいわゆるマス・コミュニケーションの術に相当するだろう。そして、大量消費と生活享受が合い言葉となっている現代社会で、マス・コミュニケーションの種々のメディウムが行っている仕事の大半は、ちょうど弁論術の仕事がそうであったと言われるように「迎合」にあるといって過言ではないだろう》

 

 さてそこで、今度は前々回の読書エントリで紹介した清水義範氏の作品に登場してもらいます。彼のごく短い短編に「最低の国家」というものがあるのですが、例によってつい連想して思い出してしまったもので。この作品は、評論家と思われる人物の一人語り(エッセイ)の形をとっており、とにかく日本の対外的振る舞い、経済援助を含めた外交、マナー、センスなど片っ端からあげつらい、「日本は最低の国家である」と批判しています。そして、こう締めくくられます。

 

 《ああやだやだ。日本は最低の国家である。

 だからもちろん、日本の政治家は最低である。

 日本のマスコミも最低である。

 そして、今、この文章を書いている私も含めて、日本の言論人も最低である。

 えっ?

 そうでしょう。もちろん、そういうことになりますわねぇ。

 そりゃそうでしょう。日本がいかに最低の国かということを書きまくる評論家が、そういうことを書くから自分だけは別だなんて、そんな虫のいい話は通りませんわねぇ。少なくとも私は、そんな厚顔無恥なことはしませんよ。

 国際的には我が日本は、手のうちようがないほどに三流の国なのです。政治も経済も文化の面でも、なっちゃいないのです。

 それを指摘されると日本人は、なんだかマゾヒスティックに快感を覚えてしまうのである。もともとあまり自信のない方面のことだけに、けなされてかえってスッキリするのである。

 だから、その専門家のような、日本けなし評論家というのが、伝統的に存在するのである。ああいう人々は、なぜ日本をけなすかというと、とどのつまりは、けなしたほうがウケるからである

 そんな言論人が高級なわけないですよね。

 いかにも最低の国家にふさわしい、最低の言論人です。

 ここのところの論旨、読み違えないでもらいたい。私は別に、日本のことをよく書く言論人が高級だと言っているわけではない。

 ただ、日本は最低の国である。

 そして、そういうことを盛んに書く評論家も、もちろん最低の言論人である。

 だから、私も国際的に最低の男である、と。

 そういうことになるではないか。》

 

 …私が、自分自身のありようも含めてマスコミの現状・問題点、また構造的な限界をどう見ているかについては、最近では6月30日のエントリ「重村早大教授の近著と『ステレオタイプ』とは何か」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1109373/)や7月14日の「純宣伝PR・『民主党解剖』が17日発売となります」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1130948/)などで識者のコメントや私の感想を通じ表明しています。ただ、なかなか意図が伝わらないというか理解してもらえないようなので、今回のエントリを書いてみました。

 

 しかしまあ、何せ私自身、迎合的な「最低の国家の最低の記者」に過ぎず、いかんともし難いものがあります。そういうことになるではないか、と。鳩山政権かあ、きっと批判や懸念を書きまくることになるのだろうな…。あっ、別に私自身、本心から日本を最低の国家だと考えているわけでは全くありませんから誤解なきようお願いします。

 

 

 今朝の産経は1面トップでFNN(フジニュースネットワーク)との合同世論調査結果を「政権交代は確実」「民主、300議席確保へ」と報じています。私も昨日、各選挙区の情勢に関する政治部の検討会議に出席しましたが、つまるところは、まあそういう結果が数字に表れているということです。最近の各紙の調査をみても

 

・20日付朝日 「民主、300議席うかがう勢い」「自民苦戦、半減か」

・21日付日経 「民主 圧勝の勢い」「300議席超が当選圏」「自民、半減以下も」

・21日付読売 「民主300議席超す勢い」「自民激減 公明は苦戦」

・22日付毎日 「民主320議席超す勢い」「自民100議席割れも」

・23日付東京 「民主、300議席超す勢い」「自民は100前後か」

 

 などと、みんな300議席超の民主党大勝利を予測しています。これだけ各紙がほぼ同様の見通しを示す場合には、まず大きく外れることはありません。私は、ちょうど半年前にあたる今年2月23日のエントリ「雑感・麻生内閣の支持率と自民党と日教組」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/927304/)と、関連する同27日のエントリ「前回の雑感エントリの続きのようなものです」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/932584/)で、「自民党は、もうどうあがいても、いかに野党の問題点を指摘し、批判してみても、勝てないでしょう」と書いています。近年の自民党のあまりに退行的で旗印が見えず、後手後手の印象ばかり残る政治に、国民の支持が集まる道理がないとみていました。

 

 ですので、今回の各紙の世論調査結果にも「時はうつろうものだな」とある種の感慨は覚えたものの驚きはありませんでした。政局の関心事は今後、民主党が本当のところどんな外政・内政を行うのか、官僚内閣制打破をなしうるのか。それは国民の幸福に資するのか。自民党は党として存在し続けられるのか雲散霧消していくのか、巨大与党となる民主党に対する対抗・牽制勢力足りうるのか。小沢一郎氏による一極支配が強化される民主党内のガバナンスはどう機能するのか…などに移っていきますね。少なくとも、ここしばらくの政治状況より良くも悪くも関心が持てそうなので、きちんと監視していきたいと思います。

 

 衆院選後には、政治部内でも選挙後に部内異動が予定されていますが、上司は「今度の自民党担当は楽だぞ。5時には仕事が終わる。その代わり、残業代はなしだ」と冗談を飛ばしていました。これ、経費削減が社の至上命題である今、半ば本気でもあるのでしょう。私もどうなるかなあ…。

 

 さて、話は飛びますが、昨日から本日にかけて思うところあり、学生時代に読んだプラトンの「ゴルギアス」をおおよそ四半世紀ぶりに読み返しました。何か、現在の政治情勢に通じるものがあったような気がしたもので。で、改めて約2400年前に書かれたこの本を通読し、やっぱり人間というのは変わらないし、そうそう進歩もしないものだなあと痛感しました。この点はまあ、プラトンに限らず、古典を読んだ際にはいつもそう考えさせられるのです。きっとこれから先も人間は同じことを繰り返すのだろうなあと。プラトンの描いたソクラテスの言葉をちょっと引用します。

 

 《人びとのほうは、この連中が国家を大きくしたのだと言っているが、事実はしかし、あの昔の政治家たちのせいで、国家はむくんでふくれ上がり、内部は膿み腐っているのだということに、気がつかないでいるのだ。なぜなら、あの昔の政治家たちは、節制や正義の徳を無視して、港湾だとか船渠だとか、城壁だとか貢租だとか、そういった愚にもつかないもので国家を腹いっぱいにしてしまったからなのだ。だからあとで、あのいま言われたような病気の発作が起こった場合には、人びとはその責任を、ちょうどその時傍にいて忠告する人たちに負わせて、この災厄の真の責任者である、テミストクレスやキモンやペリクレスのほうは、これを褒めそやすであろう》

 

 《ぼくとしては、理解に苦しむようなことが、今日でも行われているのを目にするし、また昔の人たちについても、そういう例を聞いているのだ。というのは、国家が、政治家たちの中の誰かを、不正を行っている者として扱おうとするとき、そうされる人たちは腹を立てて、何というひどい目にあわせるのかと、不平を鳴らすのをぼくは認めるからだ。その人たちの言い分では、国家のために数々のよいことをしてやったのに、その国家によって、自分たちは不当にも滅ぼされようとしている、というわけなのだ。しかし、これは全くの嘘である。なぜなら、国家の指導者たる者が、自分の指導しているまさにその国家によって、不当に滅ぼされるというようなことは、どんな人の場合にも決してありうるはずはないからだ。》

 

 《ぼくとしては、これまでこんなふうに考えていたのだ。ほかの人たちのことはいざ知らず、民衆に呼びかけることを仕事とする人たちや、ソフィストたちだけは、彼ら自身が教育してやっている当のそのものを、自分たちに悪いことをするものとして、咎め立てすることは許されないのである。さもなければ、同時にまたその同じ言葉でもって、彼らがよくしてやったと主張している当のその人たちを、実は少しもよくしてやっていなかったのだと、自分たち自身をも非難することになるのだから、とね。》

 

 …プラトンの対話篇では、ソクラテスは文字通り対話(議論)を通じて実にうまく相手を説得していくのですが、相手もそう簡単には納得してくれません。ときには反発して感情的にもなるし、面倒くさそうにも投げやりにもなります。その際の相手の反応もまた、実に興味深いものでした。私自身、面倒くさがりだし効果に疑問を持っているのであまり議論が好きでないこともあり、ソクラテスの追及にいやいやそうに答える相手の方に感情移入されられる部分もあります。プラトンという人は、学生時代に何冊か読んでいましたが、今回初めてそうした描写、掛け合いの面白さに気づきました。例えばソクラテスと議論になった相手は、こんな風に反論したり、うんざりしたりしています。

 

 《ポロス いや、そんなところへ話を持っていくなんて、ずいぶん失礼なやり方ですよ》

 

 《ポロス いや、それは、あなたに同意しようという気持ちがないからですよ。しかし、僕の言うとおりだと思っておられることは、間違いないですけれどもね》

 

 《ポロス あなたはもう、すっかり反駁されてしまっているのだとはお思いになりませんかね、ソクラテス。この世のだれ一人認めないような、そのようなことを言われるに至ってはですよ》

 

 《カリクレス あなたという人はほんとうに、ソクラテスよ、真理を追求していると称しながら、そのような卑俗で、俗受けすることへ、話をもっていかれるのだからなあ》

 

 《カリクレス (傍白)この人ったら、いつまでたっても、馬鹿話をやめることはないだろうなあ……まあ、いってくれたまえ、ソクラテス。あなたはそれほどのいい年をしていながら、語句の穿さくをしたり、また、人が言い損ないでもすれば、それをもっけの幸いと考えたりして、恥ずかしくはないのかね?》

 

 《カリクレス 認めるから、もう訊かないでくれ》

 

 《カリクレス 何だかわからんけど、あなたは賢い人ぶって屁理屈をこねているのだね、ソクラテス》

 

 《カリクレス ソクラテスという人は、いつでもこうなのですよ、ゴルギアス。些細な、ほとんど取るに足らないようなことを問い返しては、反駁して来るのです》

 

 《カリクレス どうしてそうなるかは知らないけれど、あなたの言うことはもっともであるように思われるよ、ソクラテス。けれども、ぼくの気持ちは、世の多くの人たちが感じているものと同じなのだ。つまり、これですっかり、あなたの言うことを納得したわけではないのだ》

 

 《カリクレス 議論に勝ちたい一心なのだね、ソクラテス》

 

 …ソクラテスという高名な哲学者の姿が、まるでちょっと迷惑な議論好きの頑固親父のように生き生きと浮かんできます。この本の中でプラトンは、政治に急いで携わろうとするより、まず自分の徳を磨け、現在も過去もろくな政治家はいなかったとぶつぶつ言っているわけですが、さて…。

 

 

 歴史的な衆院選まであと1週間と迫りましたが、本日はあくまでマイペースに、6月28日以来、実に8週間ぶりの読書エントリとします。これまで大体4週間に1度ペースで本の紹介をしてきたので、ずいぶんたまってしまったこともあり、ずっと気になっていたのです。本日は休みなので、例によっていいかげんでテキトーな読書評を書き散らすことにしました。

 

 日頃は分かったような顔をして自ら「俗」にまみれ、「俗」が受肉化したような政治家たちの言動を追い、取材するのが仕事なので、やはり現実からひとときでも離れる読書は欠かせません。そうしないと私のように精神的キャパの小さな人間はどうしても煮詰まってしまいますから。いやあ、読書はいいなあ、ホント。精神がリフレッシュされます。

 

 で、今回はまずは、昨年11月9日の読書エントリで「感銘を受けた」「圧倒された」と記した「獣の奏者」の続編「探求編」と「完結編」(ともに☆☆☆★)からです。うーん、楽しみにしていたし、実際とてもおもしろかったのですが、やはりいったん完結していた前2作「戦蛇編」と「王獣編」があまりも物語として〝完璧〟だったもので、どうしてもちょっと蛇足感がぬぐえず…。ちなみに、昨年の段階では☆マークでの独断と偏見による評価は入れていませんでしたが、前2作に関しては☆5つの最高点をつけたいと思います。 

 

   

 

  次の「武士道エイティーン」(☆☆☆★)も出るのを楽しみにしていた作品でした。「シックスティーン」「セブンティーン」(この二つは☆☆☆☆)と、2人の女子高生を主人公にしてきたこの爽やかな3部作も完結してしまい、寂しい気すらします。作者の誉田哲也という人は、「ジウ」のようなどろどろな暗黒的小説と、この武士道シリーズのような青春小説をよくもまあ、見事にかき分けるものだと感心するしかありません。

 

     

 

  次は事件の後遺症で心を病み、休職中の刑事が主人公という珍しい設定の警察小説です。北海道警を舞台にした一連の佐々木譲氏の作品は安定感があって安心して手を出せますが、この「廃墟に乞う」(☆☆☆)も読ませました。まあ、休職中の刑事がこんなに頼られるものか、自由に動けるものかという点には少し引っかかりも感じましたが。

 

     

 

  人気作家、今野敏氏の新刊「同期」(☆☆☆)は、どうなんだろうなあ、読み手によって評価が分かれそうです。警察組織の中での同期の絆を軸にストーリーは展開するのですが、個人的には、この人はもう少し年齢が上のキャラクターを主人公にしたときの方が上手いという気がします。「隠蔽」シリーズや「安積班」シリーズのように。表紙絵は、警視庁ですね。ここの1階の食堂では、担当記者時代、よくカツオ丼を食べました。

 

     

 

 今度の作品「三匹のおっさん」(☆☆☆)は、 気になってはいたものの今まで読んだことのなかった有川浩氏のものです。定年世代の幼なじみ3人組が、持ち前の正義感に暇つぶしも兼ねて地域限定正義の味方として活躍し、それを通じて家族関係もいつのまにかよくなって…という読んでいて気持ちのいいストーリーでした。いつか続編が出るかも。

 

     

 

  三浦しをん氏の作品では、これまでもこの読書エントリの中で、駅伝ランナー、便利屋、林業初心者…を描いた小説を紹介してきましたが、今回の「仏果を得ず」(☆☆☆)の主人公は文楽の太夫ときました。よほど取材が好きでかつ取材が「できる」人でないと、こうも違った分野を書き続けて成功できるものではないだろうなあと思います。しかし、女性作家が描く若い男性というのは、女性の強さに比べてどうしてこうぐずぐずと情けないのかな、とどうでもいいことも感じました。まあ、そういう風に写っているのでしょうし、実際そうなのかもしれませんが…。

 

     

 

 で、次は2001年に「翼はいつまでも」(最高!)で「本の雑誌」ベスト1に選ばれた川上健一氏の「ジャパン・スマイル」(☆☆☆★)です。帯に「あなたの心に元気がともる101の小さな物語」とある通り、見開き2ページの温かい、主に家族をテーマにしたショートストーリー101話で構成されていて、内海隆一郎氏の「人々シリーズ」をさらに短くしたような印象もあります。で、読み始めてときどき記憶にある話があったのですが、「ビッグコミック」に連載されていた際に読んでいたようです。

 

     

 

  清水義範氏は一時期、片っ端から読んでいた作家なのですが、今回は久しぶりに書店でこの「首輪物語」(☆☆★)を見つけて手を出しました。表題作は見てすぐ分かるように「指輪物語」のパスティーシュ小説で、このほかNHKの「プロジェクトX」だとか民放の旅行合コン番組だとか、いろいろとパロディ化した作品が収録されています。清水氏の短編はいくつか非常に私のツボにはまるものがあり、特にサルカニ合戦を司馬遼太郎の文体で描いた「猿蟹の賦」は本当に笑いながら泣けます。石臼がいかにして蟹の説得を受け入れるかなど…。

 

     

 

 日経新聞が☆5つをつけていたというので読んでみたのですが、この「日無坂」(☆☆★)もどうかなあ。確かに、大店を継いだ父と道を踏み外した息子との確執と相克、家族の描写に感慨を覚え、頷かされる場面もありますが、全体としては中途半端なような。もっと枚数を費やして書き込んでもよかったように感じました。私の趣味や読解力の問題なのかもしれませんが…。

 

     

 

 このところ、しばしば読んでいる原宏一氏の「極楽カンパニー」(☆☆☆)には、改めてサラリーマンにとって会社とは何だろうかと考えさせられました。登場人物が「会社勤めの様式美」を語るシーンなど、読んでいてかけあいがとてもおかしいのに、同時にうならせられるというか。この作品も、定年を迎えた会社人間たちが「会社ごっこ」を始めたころから始まる騒動の顛末を描いたものですが、私がここ数年読んだ本には本当に定年(後)を舞台にしたものが多い気がします。それだけ、そういうニーズがあるということなのでしょうね。

 

     

 

 最後に、前回の読書エントリで初めて取り上げた上田秀人氏の作品を一気に。みんな徳川時代の幕府官僚でありサラリーマンである武士(旗本、御家人)を 主人公にしたものです。主人公の役職・身分の設定はそれぞれ違うのですが、基調はみんな一緒(失礼!)なのでまとめて紹介します。評価はまとめて「☆☆☆」です。

 

   

 

  この上田氏は、ある意味、正統派の時代小説エンターティナーですね。立身出世、ほのかな恋、剣劇、忍者、大奥、徳川家の秘事…と徹底的に読者を楽しめることを意識して書いているのだろうなと感じました。上田氏は、現職の歯科医でもあるそうですが、どうしてこう武士という名のサラリーマンの悲哀、組織のあり方に詳しいのかな、とも感心させられました。読み出したら「やめられませんな」となります。

 

     

 

 

      

 

  

     

 

 本日はついでに漫画作品も一つ、「蒼太の包丁」(実業之日本社)を紹介しておきます。その質の高さ、おもしろさに比べ、知名度・認知度がいまひとつでもったいないと思うからです。すでに21巻まで出ているのですから、固定ファンはそれなりに多いと思うのですが。もっとメジャーになっていいはずです。

 

     

 

 主人公は北海道出身で、東京の料理屋で働いています。料理人を主人公にした漫画はけっこうありますが、その中でもかなり完成度が高く、かつ何よりおもしろい作品の一つだと思います。といいつつ、きょうはあとでブックオフに売りにいく予定なのですが。本棚に置いておくスペースはないし…。

 

 今朝、通勤途上、手直しを任されている後輩記者の原稿をどういじくろうか、どんな視点を入れようかなどと歩きながらぼんやり考えていたところ、いつものごとく頭の中は千々に乱れ、だんだん衆院選後の日本はどうなるだろうかという漠然とした方向に思考が向かいました。

 

じゃあ、そのとき、具体的な何かを深く考え、検討していたかというとそんなことはなく、脳裏にはただ写真で見た終戦直後の「焼け跡」のイメージが浮かんでいただけで、そこから思考はさらに混沌としながら飛躍し、いきなり学生時代に愛読した坂口安吾の「堕落論」を連想しました。そして私は、何がそうなのかは自分でも分からないまま「そりゃそうだよなあ」と一人つぶやきながら歩く危ない中年のおっさんとなったのでした。

 

安吾については、2008年3月15日のエントリ「特攻隊を賛美した坂口安吾とGHQ検閲と朝日コラム」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/512524/)でも書いたことがあるので、一部重複しますが、というわけで本日は、後輩の原稿はちょっと放っておいて「堕落論」「続堕落論」から現在の私の心境というか、混乱した発想に近い部分を抜き出してお茶を濁したいと思います。

 

 《人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。このこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(中略)自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなど愚にもつかない物である》(堕落論)

 

 《生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるだろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ》(続堕落論)

 

 …人間は堕ち、義士も聖女も堕ちるわけですから、私もまた堕ち、このブログも堕ち、ついでに原稿が落ちても何の不思議もありませんね。これは人間のせつない実相がそうさせるのであって、ある意味必然であります。

 

 さて、少し早いけど昼飯でも食べにいこうかな、と。食べるものは昨日から決めていたことだし。

 

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