2010年06月

 

 さて、菅直人首相についてです。産経は6月22日付の連載企画「新民主党解剖」(上)で、菅氏と30年以上の付き合いで、ときに政治行動をともにしてきた閣僚経験者のコメントを引用して「何やりたいのか分からない」という見出しをつけました。強い権力志向で小学生時代からの「将来は総理になる」という夢を実現したのはたいしたものですが、外交・安保などで野党時代とは全く異なる「現実路線」に転じた菅氏の目指すものの見えにくさを表現できると考えたからです。

 

 で、やはり菅氏について取り上げた28日付の朝日夕刊(金子桂一記者の署名記事)を読んでいると、見出しは「上り詰めた さあ何をする」となっていました。菅氏自身は「最小不幸社会(私のパソコンで『さいしょうふこうしゃかい』と打って変換すると『宰相不幸社会』と出ます)を目指す」とかなんとか言っていますが、まあちょっと何を考えているのかわかりにくい部分がありますね。また、朝日の記事の本文にはこうありました。

 

 《…あくなき上昇志向は、聞いた者の記憶に鮮やかに刻み込まれた。(中略)そしていま、権力の中心に座って何をするのか。(中略)そのままなだれ込んだ選挙戦。梅雨特有の蒸し暑さのなか、声をからす菅を見つめる聴衆の中に身を置いてみても、妙に冷めた感覚が残る》

 

 なかなか凝った文章を書く人のようですが、それはともかく、首相の考えと手腕、政治手法はそれぞれ、日本社会の未来に直結するのだから重要ですね。私はこの点に関して、22日付のエントリ「本当に国家解体を目指す革命政権だったようです」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1665058/)であれこれ書いてみたわけですが、その中で、こんなエピソードを紹介しました。

 

 《菅首相はかつて、周囲に「民主主義とは、政権交代可能な独裁だ」と持論を話していた》

 

 これは別に、ただ事実そうだからそう紹介しただけだし、菅氏の考え方の一端を象徴的に示していると考えたのですが、訪問者の中には私が「誇張」や「デマ」を書いているのだと誤解した人もいたようです。なので、最近の国会答弁で、実際に菅氏が似たようなことを滔々と述べている部分を改めて掲載します。

 

 菅氏が副総理・財務相時代の3月16日の参院内閣委員会での、自民党の古川俊治氏とのやりとりです。(国会議事検索システムですぐ引っ張れます)

 

 古川氏 …本来であれば、多数決のやっぱり限界というものを考えていただいて、多くの議員の意見を取り入れる、あるいは超党派の活動というものもある程度は進めていく。これが国会の審議を活性化することだと思いますので、私はそうあるべきだと思っているんです。そういう民主主義が本来の国会と内閣の在り方ではないかという気がするんですが、いかがでしょうか。

 

 菅氏 …私は、ちょっと言葉が過ぎると気を付けなきゃいけませんが、議会制民主主義というのは期限を切ったあるレベルの独裁を認めることだと思っているんです。しかし、それは期限が切られているということです。ですから、四年間なら四年間は一応任せると、よほどのことがあればそれは途中で辞めさせますが。しかし、四年間は任せるけれども、その代わり、その後の選挙でそれを継続するかどうかについて選挙民、有権者が決めると。

 

 …一つの考え方だろうとは思います。しかし、「何をやりたいのかはっきりしない」人に、ひたすら独裁的にことを進めてもいいんだと言われても困りますね。その手法を徹底されて、われわれ国民がうれしいかありがたいかもまた、別の問題だろうし。それにしても、菅氏のいう「あるレベル」って、どの程度のレベルなんでしょうね。気になるところです。

 

 一方、民主党内では選挙戦真っ最中だというのに、小沢一郎前幹事長が公然と菅氏や現執行部を批判するなど、参院選後に向けた波乱の兆しも見え始めています。独裁体質を持つ者同士、余計に反発し合うのかもしれませんが、なんだかなあ。

 

 

 いやあ暑いですねえ。梅雨時ですから仕方がありませんが、じめじめと湿度も高く、全くどうにかならないものかと思います。道を歩くと水中を行くようです。こんな天候下で街頭演説をしている候補者の皆さんも、さぞや大変だろうと同情します。

 

 さて、それはともかくとして、私はいま発売中の「新潮45」7月号に「トップの言葉 存在の耐えられない[政治答弁]の軽さ」という雑文を書いています。主に鳩山前首相の言動を検証したもので、菅政権となった今では、ちょっとタイミングを外したうらみはあります。で、私はその中でこんな見方を記しました。

 

《鳩山氏に話を戻すと、以前に話したこと、特に都合の悪いことはほとんど忘れてしまうのではないかとも思える。一方、外務省幹部によると、「鳩山氏はとても記憶力がいい」そうだ。

 外国要人との会談前などに鳩山氏にブリーフィングをすると、実際の会談では紙を読まずに「九割方、説明した内容を正確に相手に伝えられる。ここ数代の首相の中でその能力は、最も優れている」(同幹部)という。

 おそらく、記憶力はとてもいいが、思慮と知識はかなり浅く、他者(国民)とのコミュニケーション能力はもっと低いということだろう。》

 

 まあ、単に私にはそう見えるという話なのですが、先日、作家の江藤淳氏が平成9年に出した著書「国家とは何か」を読んでいて、これと相通じるような記述を見つけました。それは、鳩山前首相の曾祖父、鳩山和夫元衆院議長の回想を紹介した部分でした。

 

 《和夫が大学時代を回想した談話筆記にきわめて興味深い記述があります。「法科の僕は、極くの坊ッちゃんで、唯々本を読んで先生から教へられた事を記憶するだけで、世才がない」(「太陽」明治32年6月15日号)と。この点は、案外和夫の子孫たちにも、受け継がれているのではないか

 

 鳩山氏が辞任を表明した民主党両院議員総会での「ヒヨドリ」のエピソードにしても、ツィッターに記した「私に『裸踊り』をさせて下さったみなさん、有り難うございました」というつぷやきにしても、他者と意思疎通するということがそもそも根本的に分かっていない感じでしたしね。ちなみに、鳩山氏は21日のラジオ出演の際に、この「裸踊り」についてこうも述べています。

 

 「こういった発想は既存なメディアではわからないと思う。既存のメディアではないところで国民の意思は動いている」

 

 既存のメディアがいろいろな問題をフォローできずにいる点はその通りですが、私にはこの鳩山氏のコメント自体が何を言っているのかよく分かりません。というか、もうわけが分からない。8カ月間だけとはいえ、本当にとんでもない人を首相としていただいていたもんだとしみじみ感じます。

 

 何にしろ、「言葉」を扱うのは、つくづく難しいものだと思います。しかし同時に、言葉はとても面白い。作家の筒井康隆氏の本の中で、「新聞記者のごとき文章…」として新聞記事の文章を悪文、駄文の典型として批判している箇所がありましたが、そうであっても、言葉にかかわる仕事は楽しいとも感じています。

 

 そこで唐突ですが、大学時代には友人に「言葉尻をとらえて感動する」と言われた私が、高校時代に出会って感動し、今も思い出すとつい、にやついてしまう言葉を二つ紹介します。ともに、高橋留美子氏の漫画「うる星やつら」からです(記憶で書いているので、多少、不正確かもしれません)。高橋氏は天才だと思っています。

 

 一つは、主人公の諸星あたると、主人公と敵対関係にある教師とが互いに気付かないまま、すぐそばで互いを陥れるための落とし穴を掘り続けている場面です。

 

 「(お互いがすぐそばにいることを)そのとき二人は、知るよしもなかった。なぜ知るよしもなかったかは、知るよしもない」

 

 ああ、言葉とはこういう風に遊ぶものだなと感動したものです。もう一つは、登場人物の一人の男装の女子高生、竜之介がなりゆきでクイズに出ることになり、困ってこうつぶやく場面です。

 

 「しまった。オレは知性はあるが教養はねえ…」

 

 知性と教養との違いをこれほどわかりやすく、たった一言で説明してしまうとはと感じ入りました。これらを読んでもう27年くらいたつわけですが、面白いと思ったことは忘れないものであるようです。普段は上司の指示や仕事の段取りを忘れてばかりいますが。ああ、また感動に出会いたいなあ。

 

 でもまあ、菅首相の言葉には、今のところあまり期待できないかなあと感じています。まだ分かりませんが。

 

     

 

     

 ⓒ『ベルセルク』(白泉社、三浦健太郎著)26巻より

 

 《怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。》(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

 …本日は近所のブックオフに本を売りに行き、17冊を持っていって1120円で買い取られました。この金額は決して満足のいくものではありませんでした(毎度のことです)が、査定の待ち時間の間に店内をうろうろしていて、先日の読書エントリでどこかに消えてしまったと書いた白石一郎氏の十時半睡シリーズ「観音妖女」と「刀」がそれぞれ105円で店頭に並んでいたので買い求めました。

 

 安く買いたたかれたと感じていたわけですが、読み直したかった欲しい本を思わぬ廉価で入手でき、実は幸せな日であったと気付いた次第です。

 

 先日のことですが、産経新聞は民主党の枝野幸男幹事長の事務所に、政治資金にかかわる取材を文書で申し込みました。内容は、

 

 枝野氏の資金管理団体「21世紀都市文化フォーラム」は平成8年から11年までの4年間に、「全日本鉄道労働組合総連合会」(JR総連)と「東日本旅客鉄道労働組合」(JR東労組)から計404万円の寄付とパーティー券購入を受けている。

 一方、5月11日に閣議決定された政府答弁書は、JR総連とJR東労組について、「影響力を行使し得る立場に(殺人など刑事事件をたびたび起こしている極左暴力集団である)革マル派活動家が相当浸透している」と指摘している。

 そしてこの答弁書には、枝野氏も行政刷新担当相として署名している。

 

 ということを指摘した上で、次のように問うたものです。

 

     革マル派活動家が「相当浸透している」JR総連とJR東労組から寄付とパーティー券購入を受けたことを不適切と考えるか

     JR総連とJR東労組から提供された政治資金について、返還した事実はあるか、または今後返還する考えはあるか

 

 で、枝野事務所からの回答は以下の木で鼻をくくったようなものでした。

 

 《ご指摘の政治資金については、収支報告書において届け出をしているとおりであり、政治資金規正法に則り、適正に処理しております》

 

 質問と回答がかみ合っていませんが、まあこんなところかな、とも思います。この件に関しては22日付の産経紙面で報じました。まあ、枝野氏個人だけではなく、民主党もJR総連から毎年のようにパーティー件を買ってもらっているわけですが…。

 

 ちなみに、この枝野氏の人物像について取材していて、東北大法学部時代のクラスメートの一人に話を聞こうとしたところ、「すみません、私からは何も言えません。申し訳ありません、ノーコメントです」と警戒心もあらわに拒否されました。一体なにを怖がっているのかと不思議でした。

 

 ちょっと興味深いと思ったのは、上記の5月11日の政府の閣議決定に対し、JR総連が民主党に対し、「『政治活動への妨害』に対する要請書」なる文書を送っていることです。答弁書は事実無根であり、誹謗中傷だから、「適切なご指導をお願い申し上げます」とあります。ふーん…。

 

   

 

   

 

 

 …で、話は飛ぶのですが、コメントをくださる方にお願いです。コメントを書かれる場合は、できるだけ、私宛なら私の名前を、そうでないときはその対象者のハンドルネームを明記して書き込んでいただけないでしょうか。誰に対して何を言いたいのかよく分からず混乱してまうことがよくあるのです。

 

 さて、一見現実路線をとっている菅政権・民主党政権を考える上での一つのキーワードは、「政治学者の松下圭一氏」ということになろうかと思います。今朝の産経の新民主党解剖第6部「革命政権の行方」でも書きましたが、菅首相は11日の所信表明演説でこう述べています。

 

     

 

 《私の基本的な政治理念は、国民が政治に参加する真の民主主義の実現です。その原点は、政治学者である松下圭一先生に学んだ「市民自治の思想」です。》

 

     

 

 また、菅首相は著書「大臣」の中でこうも書いています。相当、傾倒していることが分かりますね。

 

 《私が政治家となって政治、行政の場で活動するにあたり、常に基本としていたのは、この本(松下著「市民自治の憲法理論」)に書かれている憲法理論だったと思う。それは大臣になったときも同様だった。「松下理論を現実の政治の場で実践する」というのが、松下先生の〝不肖の弟子〟である私の基本的スタンスだった。》

 

     

 

 そして、興味深いことに、仙谷由人官房長官もこの松下氏の信奉者なのです。仙谷氏は早野透著「政治家の本棚」の中で、松下氏の著書についてこう語っています。

 

 《仙谷氏 (前略)まくら元に置いて、年中読んでいましたね。

早野氏 松下さんのこの本は、民主党の路線につながる基本哲学ですね。

仙谷氏 あの時代にいまの社会を見通していた。天才的ですね。》

 

   

 

 菅首相が仙谷氏らとともに平成4年、社会党、社民連、連合議員らを集めてつくった政策研究会「シリウス」の第一回勉強会で、講師を務めたのも松下氏でした。当時、社会党参院議員としてシリウスに参加していた小林正氏は、こう語っています。

 

 「あのころ、仙谷氏は『ポスト・モダン』という言葉をしょっちゅう口にしていた。つまり、王政などの『プレ・モダン(前近代)』から主権国家の『モダン(近代)』の時代となり、今後は最終的に国家が崩壊し、『ポスト・モダン』(近代の次)の時代となる。仙谷氏の考えは、国家は国際的には国際連合などに統合され、国内的には地域に主権が移っていくというもので、国家の解体思想だった。国家という責任の主体はなくなっていくのだが、しかしそこにもリーダーは必要だ。私たちは、それは結局、独裁になるのではないかと反論した」

 

     

 

 …菅首相がかつて周囲に「民主主義とは、政権交代可能な独裁だ」と持論を話していたのと合わせ、非常に興味深いと感じました。そこで、実際に松下氏の言葉を著書からいくつか拾って紹介したいと思います。

 

 《国家観念を主権主体として擬人化する考え方は今日破綻したとみています。(中略)国家法人説をふくむ国家観念の主体性は破綻します。》(「日本の自治・分権」)

 

 《私たちは、明治以降、戦後もひきつづいて、あまりにも国家観念に呪縛されつづけてきました。この明治国家は、今日の分権化・国際化のおおきなうねりのなかで、解体・再編が必要となっています》(同)

 

 《神秘的実体感をもっている明治以来の「国家」観念も色あせ、国家イメージは「市民」と「政府」のイメージへと分解し、政府イメージも自治体政府と中央政府へと分節化されていき、政治の脱魔術化が可能となるのである。》(「市民自治の憲法理論」)

 

 《政府信託論では市民はいつでも政府への信託を解除できます。これが選挙ないし革命です。》(「日本の自治・分権」)

 

 《(住民)選挙は抵抗ないし革命の日常化という意義をもつ》(「市民自治の憲法理論」)

 

     

 

 …こうして見てくると、「国というものが何だかよく分からない」「日本列島は日本人だけの所有物ではない」と語る鳩山由紀夫前首相にも共通するものがあると感じます。以前のエントリでも触れましたが、鳩山氏のブレーンとされた平田オリザ氏は2月のシンポジウムでこう語りました。

 

 「鳩山さんとも話をしているのは、政治家は非常に言いにくいことだけれども、21世紀は、近代国家をどういうふうに解体していくかという100年になると」

 

     

 

 私は今朝の民主党解剖で《旧来型の社会主義革命とは別の、独自の革命像を追い求めているのか》と書きましたが、この人たちは本当に革命と国家解体を目指していたのだということが、改めてよく分かりました。これがわが国を支配している人たちの現実なのだと思うと…日本はどこへ向かうのでしょうね。

 

     

 

 …しっかし、菅氏や仙谷氏、また枝野幸男幹事長らは、鳩山氏と違って本音を隠してことを進めるずるがしこさを持っていそうですからねえ。なかなか付き合うのがしんどい政権だと実感しています。やれやれ。

 

     

 

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