2010年09月

 

   

 

 大正8年、中国・福建省の漁民31人が尖閣諸島魚釣島で遭難救助された際、中華民国駐長崎領事から玉代勢孫伴氏らに送られた感謝状(仲間均著「危機迫る尖閣諸島の現状」より)

 

 民主党代表選以降、各種世論調査で菅内閣の支持率が急上昇しています。この政権は、何の実績もあげていないどころか、基本的に無為無策そのものである上、しなくていいことばかりしてきました。しかもその間、菅直人首相は己の底の浅さ、無内容さと日和見ぶりを、これでもかというほど見せつけ、岡崎トミ子氏のような問題人物を入閣させもしたにもかかわらず、です。

 ここから、どんな教訓を読み取ることができるでしょうか。

一つは、大方の人は、そもそも政府の施策に特に期待していないので、「何もしない」という姿勢は別に批判の対象にはならない、ということでしょうか。逆に、ときの政府が独自の、新しい施策を実行しようとすれば、メディアに揚げ足を取られたり、批判されたりして、かえって政府の印象を悪くするかもしれません。

また、もう一つは、とにかく小沢一郎前幹事長という「悪役」と対決姿勢をとれば、支持率も上がり、菅氏の地位も安泰になるということでしょう。小沢氏に対しては、一部熱心な信者・ファンがいるものの、国民の大多数は嫌悪感ないし忌避感を持っていることがはっきりしてきました。だから菅氏としては、できるだけ小沢氏を離党させずに党内にとどめ置き、何か国民の失望を買うような困った事態が生じたら、とりあえず小沢氏をたたいて見せたらいいのです。皮肉なことに、小沢氏が党を去ってしまえば、このカードは使えませんが。

小沢氏は今回、「勝てる戦いしかしない小沢さんが、初めて勝算のない勝負に打って出た」(小沢氏の盟友を名乗る議員)わけですが、その乾坤一擲の勝負に負けました。それだけ追い詰められていたのでしょうが、年齢的なこともあり、判断能力その他に相当ガタがきているなという印象も受けました。ここまで露骨に国民に「ノー」を突きつけられると、野党側もその小沢氏と手を組もうという政党・議員は少ないことだろうと思います。

小沢氏は「まだ死んでいない」(側近議員)のはその通りでしょうが、かなり政治的な死に近づいたかな、と思います。小沢氏はかつて、師匠の金丸信元副総理や竹下登元首相のことを、「後継者を育てなかった」と批判していましたが、金丸氏や竹下氏よりずっと自分の身を脅かす後継者が育つのを怖れ、遠ざけてきたのが小沢氏でした。周囲に人材がいないことが、小沢氏の耳に正しい情報や新しい知識が入ることを妨げ、こういう結果につながった気もします。

何より、よりによって菅氏なんかに負けたのは痛かったですね。かっこうわるい。

ともあれ、内閣支持率が6割を超えると、野党も国民の批判を怖れてその政権を攻撃しにくくなります。まあ、小沢氏の政治資金問題を追及する分には、遠慮はしないでしょうが。

代表選後、菅陣営の幹部の一人は「菅さんは本当に運がいい。菅さん自身が別にいい(候補である)わけじゃないのに」と率直に語っていました。今回の代表選は、「無能と無資格の戦い」(政治評論家の屋山太郎氏)といわれましたが、勝った「無能にして運のいい人」はこれから日本をどう導くのか。最高指揮官が運がいいことは、国民・国家にとってはもちろん望ましいことですが、その「幸運」が自分のためだけのものだったら…と少し背筋が寒くなる思いがします。

 

 

 うーん、うーん、うーむ…。

 

 

 

 やんぬるかな、是非もなし。

 

 

 

 …すみません。これ以上、何も言葉が出てきません。サザンオールスターズの歌の歌詞に、

 

 ♪あーあ、どうなれこうなれお後は野となれ山となれ、ったらオールナイトロング~

 

 というのがありましたが、そんな感じでしょうか。

 

 産経紙面のためには職務上、毎日、馬に食わせるぐらい「あーでもない、こうでもない」と原稿を書き、日々表と裏で起きていることを報じていますが、自由に好きなことを書いていいはずのブログではかえって、本当に何も書きたくない心境です。

 

 昨夜、このブログでもよく登場する民主党の幹部の一人は、夜回り取材を試み、菅直人首相からあるポストの打診を受けたか聞いた後輩記者に対し、いい年して子供みたいに「受けてないよ、バーカ、バーカ!」と言い放ちました。

 

 昨日の紙面では、赤坂の繁華街の公衆の面前(当然、記者たちの目の前で、でもあります)で、たまたま通りがかった同期議員らに「勝ち組(首相支持派)が来た。おれらを下に見て!覚えておけよ。おまえらとは一生口をきかんわ!」と罵声を浴びせた小沢一郎前幹事長支持派の議員のエビソードも書きました。これがわが国の「選良」の実態であります。

 

 こんな低レベルな連中を取材し、記事にしなければならない私たちの仕事とは…と考えると、労働の対価として給与をもらうためだけだといっそ、単純に割り切りたくもなります。政権交代って…ああ、やっぱり言葉が続かない。

 

 さあ、割り切ってきょうも原稿を書きまくるぞ!(やけくそ気味です)

 

 本日は休刊日です。明後日の民主党代表選と、それに続くであろう内閣改造・党役員人事、臨時国会、政界多数派工作と代表選の負け組グループの策動…と当分、忙しい日々が続きそうなので、きょうの休みは本当にありがたいです。読者にとっては、休刊日なんて不必要かつ迷惑な存在でしょうが、われわれにとっては、すみません、心底うれしい日なのであります。

 

 というわけで、本日は久しぶりに読書エントリでいこうと思います。前回は7月14日のエントリでしたから、約2カ月ぶりとなります。ひたすら暑く思考力も体力も低下した猛暑の期間のことゆえ、今回も比較的さらっと読めるものが多くなりました(よく考えればいつものことですが)。

 

 まず最初は、まさかもう出ないだろうと思っていた上橋菜穂子氏の「獣の奏者」シリーズ第5弾「刹那 [外伝]」(☆☆☆★)からです。このシリーズは第2作でもう作品として完結しているので、続編はないだろうと思っていたので、うれしい誤算でした。以前も紹介しましたが、文庫版も出ている第一作「闘蛇編」、第二作「王獣編」は、まだ読んでいない人にはお薦めします。いわゆる名作として、歴史に残る作品だと思います。

 

     

 

 エリンの出産など、空白の時代のエピソードがつづられた今回の「外伝」には、「人生の半ばを過ぎた人へ」と題した上橋氏のあとがきがついていました。このシリーズは、いわゆるファンタジーにも分類できるので、児童文学の扱いをされることが多いわけですが、著者はあとがきで「児童文学ではありません」とはっきり記しています。そして、「人生というものがどれほど速く、あっけなく過ぎ去ってしまうものかを実感しはじめた人たちに、楽しんでいただければ」とも書いていました。その通りの作品だと思います。

 

 次は、山川健一氏の「ここがロドスだ、ここで跳べ!」(☆☆☆)です。好きな作者だし、この本はずっと気になっていたのですが、70年安保を一つの主題にしているのにちょっと抵抗があり、ずっと読まずにいたのです。でも。やはり手にとってしまいました。

 

 主人公は70年安保で全共闘に参加し、運動に挫折(というか土壇場で逃げた)し、今はコンピューターソフト会社の経営者として成功しているという設定です。それが、不思議な「鳥男」の導きで「逃げなかった」もう一つの人生を経験し、本当の自分らしさと幸せの意味を知る…というストーリーです。

 

     

 

 最初は主人公に共感できず、物語世界にうまく入っていけなかったのですが、徐々に面白く感じるようになりました。文中、菅直人首相が以前、口癖にしていた「一点突破、全面展開」という言葉が新左翼用語として紹介されていたり、今の時代・社会に照らし合わせて苦笑してしまう場面もありました。

 

 次に紹介する山本甲士氏の「戻る男」(☆☆☆)も、上の「ロドス」と不思議とテイストの似ている作品でした。この本も、一発や作家である主人公が、タイムスリップ(?)して過去の恥ずかしい場面や失敗した経験を「やりなおして」いくことに満足を覚えるいうお話です。

 

     

 

 私自身、「恥の多い人生」を生きてきて、今なお鳩山由紀夫前首相ではありませんが「生き恥」をさらすような日々を送っているわけですが、だからといって過去にさかのぼって人生をやり直したいとはあまり思いません。やり直したって、どうせ似たような結末というか、同じ事を繰り返すのだろうと思うからです。

 

 なのに、続けて設定や雰囲気に共通点のある作品(ラストシーンもどこか似ている)を手にとっていました。うーん。まあ、過去に戻るのではなく、これから違う人生を選び直したいという気分にはときどきなりますけどねえ。そんなこと言っても、もう無理か。

 

 おなじみの佐藤雅美氏の半次捕物控シリーズの新刊「御当家七代お祟り申す」(☆☆☆)は、帯に「シリーズ最高の痛快作!!」とある通り、とても楽しく読めました。でも、帯でもどこでもいいから、シリーズ第何作にあたるのか、これまでの作品名も合わせて書いておいてほしいものです。おそらく全部読んでいるはずですが、はっきりしないので、講談社にお願いします。

 

     

 

 その点、やはり、毎回のように新作を紹介している宇江佐真理氏の髪結い伊三次捕物余話シリーズの新刊「今日を刻む時計」(☆☆☆★)は、巻末にこれまでのシリーズ作品紹介がついていたので、これで第9作だと分かります。ありがたい。登場人物のそれぞれが確実に年輪を重ねていて、感慨を覚えます。

 

     

 

 男女のすれ違いと縁の不思議さが見事に描かれていて、私のような「男女の機微」がさっぱり分からないまま馬齢を重ねてきた者には感心するばかりです。続いて紹介するのもやはり宇江佐氏の市井もの「ほら吹き茂平 なくて七癖あって四十八癖」(☆☆☆)です。六つの連作短編で構成されていて、人の世の暖かさとはかなさが、淡々とした筆致で、かつ感動的に描写されています。時代小説はやはりいいですねえ。

 

     

 

 さて、警察小説の名手、今野敏氏の作品が味わいたくなり(この人は多作なので、けっこう未読作品があります)、横浜みなとみらい署暴力犯係シリーズの2作品「逆風の街」と「禁断」(ともに☆☆☆)をいっきに読みました。

 

     

 

 「ハマの用心棒」と呼ばれ、暴力団に怖れられる主人公と相棒の活躍が痛快です。新聞記者があっさり殺される役で出てくるのは同業者として何とも言えないところですが。いずれ第三作も出るのでしょうから、楽しみです。

 

 「涙腺崩壊」という帯の文句に惹かれ、「よし、それなら一つ泣いてやろうではないか」と初めて朱川湊人氏の作品「かたみ歌」(☆☆★)を読んでみました。不思議なことが起きる、東京の下町アカシア商店街を舞台にした連作短編で、確かに独特の雰囲気があっていいのですが…。

 

     

 

 残念ながら、私は特に泣けず、よってカタルシスを堪能することもできませんでした。趣味・好みの問題でしょうか、私にはむしろ、後味もよくないし、登場人物の一人ひとりに感情移入もできない中途半端な気分が残りました。

 

 なんとなく読み続けてきたあさのあつこ氏の「The MANZAI」も、この第6巻(☆☆)でフィナーレとなりました。主人公たちも高校生となり、それぞれの旅立ちを迎え、大団円…のはずですが、この最終巻はちょっと無理があるような悪ノリのような印象があります。主人公の妄想シーンと現実との境目がよく分からない文章となっていて、私の読解力ではよく理解できません。

 

     

 

 で、恩田陸氏であります。私はこの人の作品は数年前に一冊だけ「夜のピクニック」(☆☆☆☆)を読んでかなり気に入り、映画も観た(これもとてもよかった)のですが、その後、なぜか手が出ないでいたのです。で、夏休みにでもチャレンジするかと、まず、「ネバーランド」(☆☆☆)を読んでみました。

 

     

 

 地方の伝統ある男子校(有名進学校)の学生寮を舞台に、それぞれの事情で実家に戻らずに冬休みをそこで過ごすことになった4人の少年が、、「告白」ゲームをきっかけに今まで知らなかった互いの素顔に気付く。そして事件が起きる…というストーリーですが、題名が意味する「どこにもない国」が作品に通底する切なさを象徴しています。これを読んで勢いがついたので、

 

     

 

 これまた以前から気になっていた恩田氏の超常能力を持つ一族(?)を描いた「常野(とこの)物語」シリーズを三作(☆☆☆)いっき読みしまた(遠野物語をもじった題名ですね)。日本国内で日本国民を簡単に殺すという戦中の日本軍の描き方が、あまりに戦後教育のゆがみそのままでいかがなものかと思いましたが、作品自体はとても楽しく読めました。まだ続いているようなので、続編を期待して待っています。

 

     

 

 調子に乗って、タイトルがいかがなものかと思いつつ「朝日のようにさわやかに」(☆☆)という短編集も買ってしまったのですが、正直、この寄せ集めの実験作のような本はさわやかには読めませんでした。まあ、あの「朝日」がさわやかなわけないし(関係ありませんが)…。

 

 最後に、またまた上田秀人氏の作品「赤猫始末」(☆☆★)を手にとってしまいました。読む本に窮したとき、書店で新刊を見つけると、今まで読んだものと似たようなものだと知りつつつい買い求めてしまいます。さすがに面白いのですが、この本ではよぼと急いで出版したのか、誤字・誤変換をいくつか見つけました。

 

     

 

 このほか、以前読んだことがある本を未読と勘違いして買って読み、途中で「ああ、あのあまり出来のよくなかったやつだ」と気づきつつ、悔しいので最後まで読んだりもしましたが、そういう本なので紹介しません。

 

 さあて、明日からはまた、政治の生臭いドロドロだかギタギタだか、ヘロヘロだかポニョポニョだか、ギチギチだかグタグタだか、そういったものにまみれて仕事をします。来週は、われわれ記者にとっても正念場なので、あまり読書をする時間はとれそうにないので、本日はこれからまた何か読んですごそうと思っています。それではまた。

 

 

 

 最近、ロシア、韓国、中国、米国…と長い歴史的な付き合いかある国々と日本との関係の現状を思うと、ため息が出るばかりです。戦後60年かけて少しずつ前進させてきたはずのものが、わずか数年でどんどん後退し、元の木阿弥どころかさらに悪化・劣化していく。歴史を、冷厳な事実からではなく自分勝手な自己都合と加害者・被害者意識からゆがめ、しかもそれを倫理・道徳で厚化粧してパリパリに固め、身動きとれなくなっていく。しかしまあ、それも国民意識とその選択がなせることなら是非もないと。

 

 とまあ、日々ニュースに接しながらそんなことを思っていて、ある文章を思い出したので紹介します。とてもとても有名な名著といわれる古典の一節なので、まともな政治家や官僚らなら一度は読んだことがあるはずですが、全くその戒めは実践されていないなあと、改めて思いました。少し長くなりますが引用します。

 

 《ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。

 彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。

 ところが、その男がこのような運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道の精神に反する。恋の鞘当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。

 戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである。(中略)

 同じことは戦敗者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら――戦争が社会構造によって起こったというのに――戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。

「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因となった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任――これが肝心な点――にかんがみ、ここでどういう結論を出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。

 これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利害の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。

 戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。(中略)

 政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる政治的な罪とは――もしそんなものがあるとすれば――こういう態度のことである

 しかもその際、勝者は――道義的にも物質的にも――最大限の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な状勢を買い取ろうという魂胆があるから、こういうはなはだ物質的な利害関心によって問題全体が不可避的に歪曲化されるという事実までが、そこでは見逃されてしまう。「卑俗」とはまさにこういう態度をこそ指す言葉で、それは「倫理」が「独善」の手段として利用されたことの結果である。》

 

 …これは1919年1月の講演録ですから、今から90年以上前ということになりますね。しかし、いま、われわれの眼前で展開されている事態にそっくりそのまま当てはまるように思います。私はこのブログで何度も書いてきましたが、人間なんていつの時代も変わらないし、国際関係もそうそう進歩したり、改善されたりするものではないようです。

 

 ただ、少し違うかなと思うのは、わが国の場合は、「説教じみた独善による名誉の侵害」を心底もっともだと受け止め、ありがたがる人が一定数、いるようだということです。日本が周囲から虐げられるほど、もっともっとやってくれと煽る日本人、それどころか自ら火を付けて回る人たちも少なくないようですし。

 

 ここで引用した「職業としての政治」を著したマックス・ヴェーバーが暮らした第1次大戦後のドイツは、そうではなかったのでしょうか。いや、程度の差こそあれ、似たような傾向があったから、こういう講演を行ったのでしょうね。…民主党の代表選でどちらが勝っても、こういう事態がこれからいい方向に進むようには思えないのが残念です。

 

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