2010年11月

 

 さあて、世の中いろいろなことが動いていて、取り上げたい出来事はたくさんあるのですが、今回は自民党の丸山和也弁護士が、仙谷由人官房長官に対し、3000万円の損害賠償を求める訴訟を起こした件にスポットを当てようと思います。この問題をめぐる仙谷氏の発言は、菅政権のあり方、外交を考える上で示唆に富んでいて、このままあいまいにしておきたくなかったからです。

 

 法廷で、さまざまな事実が明らかになることを期待します。訴えられた当事者である仙谷氏もきょう午後の記者会見で、丸山氏の提訴についてこう述べました。

 

「訴状を見ておりませんので。訴状が送達されましたら拝見して、丸山さんも法律家、こちらも法律家ですから、正々と粛々と、裁判所で、何て言うんですか、処理をしていただくと。こういうことになるんじゃないでしょうか」

 

 なるほど、まだ訴状を見ていないというわけですね。それでは、先ほど社会部の司法記者クラブから訴状のコピーをファクスしてもらったので、ここで紹介したいと考えます。全文は長いので、多少端折ることをご容赦ください。

 

第1 請求の趣旨(略)

 

第2 請求の原因

 

 1 当事者(略)

 

 2 侮辱行為

 

(1)本件は、被告仙谷が、記者会見において、原告の参議院第176回国会決算委員会(以下「参院決算委員会」という。)における発言に関して、「こういういい加減な人のいい加減な発言については全く関与するつもりはありません。」と述べて、原告を侮辱した行為について、損害賠償及び謝罪広告を求めるものである。

以下、当該侮辱発言に至る経緯を述べる。

 

(2)参院決算委委員会における原告及び被告仙谷の発言

参院決算委員会の委員である原告は、平成22年10月18日の同委員会において、内閣官房長官の立場で出席した被告仙谷に質疑し、その中で、尖閣諸島沖で中国漁船船長が自船を日本巡視船に衝突された事件で逮捕された同船長が処分保留で釈放された件に関し、被告仙谷が、原告との電話で発言した内容を引用した。

すなわち、当該電話で、原告が、法に従って粛々とやると言った以上、少なくとも、中国人船長を起訴し判決をとってから送還すべきだった旨述べたのに対し、被告仙谷は「そんなことをしたらAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が吹っ飛んでしまう」と発言したこと、及び、原告が、こんなこと(処分保留で釈放してしまうこと)をしていたら、将来日本は中国の属国になっていくのではないかと述べたことに対し、被告仙谷は「属国化は今に始まったことじゃないよ」と発言したこと等である。

ところで、本件電話は、原告から被告仙谷への中国人船長釈放に対する抗議の電話であり、その内容は上記のとおりであり、いわゆる当事者間の私的な内容やプライベートに関するものは一切含まれていなかった。

原告の質疑に対し、被告仙谷は、同委員会の場においては「最近健忘症にかかっているのか何か分かりませんが」電話でそのような会話をした記憶は全くない旨答弁した。

上記委員会における中国人船長釈放の件についての原告と被告仙谷との質疑、答弁の内容は、国民の関心事であり、広くテレビ、新聞等のメディアによって報じられた。

 

(3)記者会見における被告仙谷の侮辱発言

ところが被告仙谷は、平成22年10月19日午前の閣議後に行った記者会見の際には、前日の参院予算委員会での応答とはうってかわって原告の質疑について、「こういういい加減な人のいい加減な発言については全く関与するつもりはありません」と発言(以下「本件侮辱発言」という。)した。

本件侮辱発言は、テレビ、新聞に取り上げられて、大きく報道され、原告がいい加減で、いい加減な発言をするという印象を全国民に植え付けた。

本件侮辱発言中、「いい加減」という価値判断は、原告に向けられた悪質な人格否定表現であり、原告の社会的評価を低下させる侮辱にあたり、民法上も国家賠償法上も当然に違法である。

被告仙谷は、上記委員会での質疑に対し、委員会外で原告の人格を中傷するという手段で抵抗したのである事の真偽を明らかにしたり、主張に反駁したりするのではなく、単に発言者の人格を攻撃して貶めるやり方は、およそこの国の政権の中枢を担う者にはあるまじき行為であって、公的な記者会見の場で行うべき発言では絶対にない。これは、原告に暴露された内容が、内閣官房長官という立場上不都合な内容であったためにとった矮小な自己保身、報復行為といえる。

そもそも、健忘症なのか原告との会話内容の記憶がないなどの実にふざけた答弁をしたのは被告仙谷であるにもかかわらず、逆に質問者の原告を「こういういい加減な人」などと中傷することは、本末転倒も甚だしく断じて許されるものではない。

 

 3 被告らの責任

 

(1)被告国の責任(略)

 

(2)被告仙谷の責任

 

   上記のように、被告仙谷の本件侮辱発言は、明らかに故意になされたものである。しかも、マスメディアも官房長官発言として全国報道することを余儀なくされる記者会見の場を奇貨とし、報復及び自己保身のために、これを利用したものである。(中略)

   また、本件侮辱発言は、刑法上の侮辱罪にも該当すべき重大な違法性を有する。そして、被告仙谷は、国会議員かつ国務大臣であると同時に、弁護士資格も持っており、本件侮辱発言の違法性を明確に認識した上で発言している。(後略)

 

4 損害

   

   被告仙人の本件侮辱発言は、同日中に全国に報道され、広く国民の知るところである。これに対し、被告仙谷からは今日まで原告に対する正式な謝罪もない。

   原告は、被告仙谷の侮辱発言及びその全国報道によって、深い屈辱感、不快感等の精神的苦痛を味わった。

   また、原告は、国会議員、弁護士及びマスコミ人として、いずれも社会的信用、評価という起訴の上に活動しているところ、政権の中枢人物による本件侮辱発言である「いい加減な人」との評価は、原告の信用の土台を著しく毀損するものであり、原告の地位の低下を招いたことは明らかである。これら一連の精神的損害が3000万円をくだることはない

 

 5 謝罪広告の必要性(略)

 

 6 まとめ(略)

 

…いかがでしょうか。自民党内では、丸山氏は「ちょっと偏屈な人。一匹狼」(ある参院議員)といわれていますが、その丸山氏の怒りが伝わってくるような訴状ですね。仙谷氏が述べたというAPEC最優先の発想や中国の属国化を容認するような発言の真実性と背景が、この訴訟によって明らかになることを期待します。

 

それにしても、仙谷氏って、どうしてこういつもいつも、自分で敵を増やし、自分の首を絞めるような言動をとるのでしょうね。今国会では、あれほど民主党と連携したがっていた公明党を、かえって遠ざけるようなやり方ばかりしていましたし。28日付の読売新聞のコラムが、仙谷氏のことを暴力装置ならぬ「暴言装置」だと書いていましたが、ホント、そんな感じですねえ。

 

中国に対しては柳腰で誘いをかける媚びを見せるのに、国内ではやたらと無意味に突っ張っては事態を混乱させ、どんどん悪くして…。この人は、いったい何がしたいのだか。

 

 

 きょうは日帰りで岐阜に行く用があり、昨日の土曜日もなんだかんだと仕事があってかなり疲れているので、手短に記したいと思います。産経は本日の朝刊で、民主党の松崎哲久衆院議員が今年7月、航空自衛隊入間基地で開催された納涼祭で空自隊員とトラブルを起こした問題について、防衛省の聞き取り調査報告に基づいて続報(図入り)を書きました。

 

 この件に関しては、産経が11月18日付紙面で「松崎議員 自衛官を〝恫喝〟 逆走指示『だれだと思っている』」という見出しの記事を掲載したところ、松崎氏は自身のホーム・ページで「民主党議員を片端から悪者に仕立て上げようとの魂胆が見え透いていて」「新聞報道の名に値しない」と反論してきました。

 

 また、民主党の参院幹部は後輩記者にわざわざ「松崎は産経を訴えようかと言っているぞ。あることないこと書けばいい」と言ってきました。国会の議論の場でも、政府・与党側から事実関係を確かめもせずに産経の記事を貶める声が聞かれていました。

 

 さて、そういう経緯を踏まえて、今朝の産経は防衛省の聞き取り調査に基づき、「松崎議員 自衛官〝恫喝〟の詳細 『おれは歩きたくない』数回たたく」との記事を載せたのですが、いつも私が言うように、新聞紙面は狭く、十分言い尽くしたとは言えない記事となってしまいました。

 

 当初は、上から「70行(12字組)」という指定が降りてきて途方にくれたのですが、理解あるデスクの尽力(他の記事を削るなど)もあり、なんとか「90行」としてもらいました。でも、それでも、すべては書き尽くせません。よく、読者から「どうしてこの点を書かないのか」であるとか、「なんで取り上げない」とかご批判をいただくのですが、ネットと違って新聞紙面はいかに内容を圧縮し、または枝葉を切るかが勝負でもあるのです。

 

 …短信とするはずが、前置き説明が長くなってしまいましたが、今朝の記事で書き尽くせなかったことを記します。記事では、以下のようになっている部分です。

 

 《調査はまた「隊員Bは胸をつかむように押されたと言っている」としたものの、「同僚隊員からは死角で、目撃証言は得られなかった」とした》

 

 この部分について、防衛省の報告書は、さらに以下のようにあえて付け加えているのです。

 

 《なお、周囲には、民間人がたくさんおり、現場を見ていた

 

 …これは、素直に受け止めれば、自衛隊員の証言としてはトラブルの当事者となった本人の証言しかないけれど、大勢の人たちがその場を目撃しているんですよ、ということをやんわりと言っているわけでしょうね。また、報告書はトラブルの仲裁に入った狭山市議の実名も書いています。

 

 さらに、当事者である隊員が、その場で上司に「あやまれ」と指導されたにもかかわらず、謝罪を拒否したということも記されています。松崎氏はHPで「ムッとしたが挑発に乗ったらダメだと分かっているから立ち去った」と書いていますが、防衛省調査の具体性に比べ、いかがなものかと。

 

 北沢俊美防衛相は26日の参院予算委員会で、自民党の世耕弘成氏が「この事実関係はどうなっていますか。松崎議員と入間基地のトラブルは」という質問に、こう答えました。

 

 「自衛隊、防衛省でする方は終了している。松崎議員の方の(民主党による)調査はいま進行中であり、途中だ。これは整合性を図らなければいけないから片方だけとは言えないのでご理解を願います」

 

 …さて、産経が入手した聞き取り調査の報告書は18日付です。それから8日もたった時点での北沢氏の答弁は、なんとか事態をうやむやのうちにごまかそうという姿勢があるように思えて仕方がありません。国会は、12月3日に閉会するので、それまでしのげばいいのだという。

 

 おそらく、民主党側は松崎氏に対する調査などほとんどしていないだろう思います。野党時代から、身内にはとことん甘い党でしたから(違っていたら謝ります)。

 

 今回の国民の表現の自由を奪い、堂々と民間人に検閲を行う言論統制的な防衛事務次官通達が出されたきっかけの一つは、この松崎氏と空自のトラブルがあるとされます。仙谷由人官房長官は「たとえ民間人であっても、自衛隊施設内では言論の自由は制限される」と、記者会見で明言しましたが、そんな憲法解釈がどうやったら成り立つのか理解できません。

 

 おそらく、これまでずっとそうだったように、「官房長官である俺が法律だ」とばかりに法を恣意的に歪め、政権と己自身の保身を図っているだけなのでしょう。本当に、国民も安くみられたものです。まさに、菅政権は「自由と民主主義の敵」だというしかありません。

 

 しっかし、本当に徹頭徹尾、あらゆることを国民の目から隠そうとしますね、この政権は。隠蔽こそわが命、とでも信じているのでしょうか。…なんか疲れてぼーっとしてきたのでここまでとします。すみません。

 

 

 事業仕分けを「政治の文化大革命」、自衛隊を「暴力装置」に例え、自らは「赤い官房長官」といわれる仙谷由人官房長官の言動を見聞きし、また、同僚記者らと取材を続けてきて、最近ようやく得心がいったことがあります。それは、ああ、この人は社会主義思想から現実主義への「転向」を意識しながらも、往生際の悪さから十分に転向できなかった「ピンク色の官房長官」なのだな、ということです。

 

 菅直人首相も野党時代はよく、自身の政治手法を「一点突破、全面展開だ」と新左翼用語を用いて表現していましたが、仙谷氏は著書の中ではっきり、「若かりし頃、社会主義を夢見た」と書き、その理由を次のように記しています。

 

 「社会主義社会には個人の完全な自由がもたらされ、その能力は全面的に開花し、正義が完全に貫徹しているというア・プリオリな思いからであった」

 

 私は高校時代に、趣味に合わないながらもマルクス・レーニン主義も少しは勉強しようかとかじった際、即座に「これはうそだ。どのような形で社会が発展しようと、もてる男はもてるし、もてない男はもてない。そうである以上、ここに描かれているような社会は実現しない」と感じました。

 

ですので、仙谷氏がどうしてこんなありえない夢想に囚われたのか不思議ですが、まあ時代の流行でしょうか。ただ、仙谷氏は「挫折の季節」を経て弁護士となり、やがて政治家を志すにあたって、現実主義のアプローチを選んだようです。今年7月7日の講演ではこう語っています。

 

「全共闘のときの麗しい『連帯を求めて孤立を恐れず』を政治の場でやると、すってんてんの少数派になる。政治をやる以上は多数派形成をやる」

 

自分の本音を剝き出しにして周囲と摩擦を起こすより、主義主張はひとまずオブラートに包み隠して、まずは小沢一郎氏と同じように「数の力」を蓄える、というところでしょうか。一方で仙谷氏は22日の参院予算委員会では、次のように述べました。

 

 「東大全学共闘会議(全共闘)の救援対策を担ったことは隠しも何もしない。若かった時代の考え方に、思い至らなかったこともあるが、誇りを持ち、その後の人生を生きてきた」

 

 政治家志向の辣腕弁護士であった仙谷氏は、自民党から選挙に出ないかと誘われたこともあったそうですが、その際は「元全共闘の自分が自民党から出るのは潔くない」と断ったという話があります。社会主義の限界を悟りつつも明快な「転向」はせず、それではと社会民主主義に傾倒していったのも、彼なりの筋の通し方であったのかもしれません。

 

 しかし、私のような学生運動を知らない40代半ばの人間には、このような態度は「潔さ」をはき違え、過去の自分とその活動を正当化し、しがみついているだけのようにも見えます。若いころに果たせなかった自己実現に、今になっても固執して国政を歪めないでほしいと率直に感じるところです。

 

 そんなことを思っていたところ、かつて新左翼の理論的指導者といわれた吉本隆明氏が著書「わが『転向』」(文春文庫)の中で次のように書いていたのを思い出したので引用します。

 

 「いまのようにロシア・マルクス主義を源泉とする『マルクス主義』が世界的な大敗北を喫している中で、徹底的な否定を潜らなかったら、理念の再生なんてありえないんです。ところが、そのつっかい棒に対して一度も否定的批判をしたこともなくて、この大転換期を通り抜けようとする姑息な知識人ばかりがいる」

 

 「一度もロシア・マルクス主義に対して否定的な批判をしたりしないできて、またぞろ自分の理念を水で薄めれば通用すると思っている」

 

 まあ、吉本氏がここで批判しているのは柄谷行人氏や浅田彰氏や本多勝一氏や社会党護憲派の国弘正雄氏や上田哲氏で、仙谷氏について述べたものではありませんが、つい連想した次第です。

 

 こんなこと、本来はどうでもいいことで余計なお世話でしょうが、「陰の総理」と呼ばれる菅政権の仕切り役の話なので、少々こだわってしまいました。結論は、柳腰でピンク色か。しかしまあ、世の中なんだかなあ…。

 

 

 柳田稔法相の更迭、北朝鮮による韓国砲撃事件と続き、落ち着かない日々を送っています。私はこれまでも何度か書いてきた通り、3年前の参院選を終えた時点で、日本は今後10年は時を失うのだろうと考えていたので、今さら現状に慌てふためいて消耗しても仕方がないのですが、それでも、現政権のあり方にはつい、「なんだかなあ…」とため息をついてしまいます。

 

 そこで、今回も闇夜を照らす一筋の希望の光であり、すべてのストレイ・シープたちの導き手であるすんなりとした姿が色っぽい「柳腰さん」にお出ましいただきました。その未来を見通す含蓄あふれる言葉をかみしめ、明日への活力を取り戻そうと思います。きっと彼なら、日本の目指すべき将来像を明確に示してくれることでしょう。

 

  ただでさえ、民主党政権は統治能力を失い、国民の信頼もなくしているのに、ここにきて北朝鮮がまた暴発しました。この危機の時代に、ひたすら頼りない政権与党の姿をみると、絶望すら覚えてしまいます。菅内閣の対応は余りに遅く、昨日夕の菅直人首相のぶらさがりインタビューでは、北朝鮮への批判と怒りすら表明されず、ただ当惑し、おどおどした首相の顔が印象に残っただけでした。危機管理への取り組みが感じられません。

 

柳腰さん この一年半ぐらい、政党のマネージメントとかガバナンスというものがなんなのだろうか、とにも角にも民主党にはそのようなものが一切ない、そのような感覚で政党人として政治家として今日までまいりました。(2006年4月27日の勉強会あいさつ)

 

  そうですね。もともと主義主張も方向性もバラバラだった集団を、小沢一郎という人がある種の恐怖政治で一つにまとめていたのが、その重しがなくなっていよいよ収拾がつかなくなりましたね。でも、党側だけではなく、首相官邸も烏合の衆という印象です。その小沢氏に9月の代表選で菅首相や仙谷由人官房長官は一応、勝ったわけですが、その先のことは考えていなかったのか。

 

柳腰さん 社会保険庁の問題をみましても霞が関総体の問題をみていましても、あるいは官庁と政治との関係をみていましても、いわゆるマネジメントが全くない。首相官邸にもない。こんなマネジメントを、あるいはガバナンス、経営のやり方をやっていれば民間ならとっくの昔に倒産しているということは誰の目から見ても明らかだと思いますが、そこのところを切り替えることができない。(07年6月26日、同)

 

  政権交代によって、これまでの膿を出すことができ、新たに生まれ変わることができるのではないかと期待した人も多かったのですが…。自民もダメ、民主もダメという空気が生まれてきました。それなのに国会では、仙谷氏をはじめ菅内閣の閣僚の暴言、失言、虚言、寝言の数々によって、まともな議論が成り立ちません。

 

柳腰さん やはり日本がどういう政治の質あるいは成熟度をこれから持つことができるか、作っていけるかというのが大変大きな課題になってきた。それ以前に時間がなくて国民の多くの方々が『もう政治はダメだ。日本の政党はダメだ』というふうに三下り半をつきつけられたときに、その先は何なのかというのは大変悩ましい話です。そうなる前にしっかりとした議論ができる政党、あるいは政治家と有権者との関係、すなわち政治のありようを改めて考えながら行動していかなければならない」(08年6月25日、同)

 

  国民はすでに、菅政権はもうダメだと感じているのではないでしょうか。産経とフジテレビの世論調査の21.8%に続き、最新の共同通信の調査でも内閣支持率は23.6%にとどまりました。明確に政権末期です。国民は早くもこの政権にうんざりしているようです。現状をどう見ますか。

 

 柳腰さん 私は昨年から『自民党はここまで朽廃している』ということを言っています。『朽廃』というのは、借地借家法で出てくる用語ですが、ここまでなってくるというのは、今までの政治をみる常識からすればちょっと異常も異常ということになろうかと」(09年2月19日、同)

 

  さすが法律に詳しい柳腰さんですね。でも、今の状態は仮にそうだとしても、それでは政治が国民の信を取り戻すためにはどうすればいいのでしょうか。とにかくこの暗い、どんよりと停滞した閉塞感を何とかしなければと思うのですが。

 

柳腰さん 日本の政治が『官治』から『法治』へ、法の支配が貫徹する政府を作らなければなりません。(中略)国権の最高機関たる国会が今までとは違った発想で、『公開と説明』の原則のもと、議論の場として運営がされなければならないし、政党がそのために有効な人材(議員、候補者)を作り出す機能をもつ必要があると考えています。(09年6月17日、同)

 

  はい、まさしくそうですね。中国漁船衝突事件の映像封印や、自衛隊施設内での政権批判封じ込めはおかしい。やはり「公開と説明」こそが大切ですね。それをやってこそ、初めて議論が正面から成り立ちうると。ところが、菅政権は現在、かつてはあれほど批判していた公明党・創価学会と何とか手を結ぼうと必死のようです。自公政権を嫌い、民主党に投票した有権者をも裏切る行為のようにも見えます。

 

柳腰さん 日本のこの重大な局面で、自民党が公明党の補完的な援助を得て無理やり政治を維持してきたということは、つまり統治する才覚というのが全くなくなっていることだ。(同)

 

 …柳腰さんは本日も手厳しいながらも愛情を込めて、政治の現状を斬ってくれました。特に、この危機的状況における公明党との連携の策動については鋭い批判の目を向けているようです。今回の対話を通しても、柳腰さんがかなり、政府や政党、そして国家全体のガバナンスに着目し、重視しているかが伝わり、私もほっとさせられるやら、めまいがするやらです。

 

 ちなみに、柳腰さんは、ジャーナリストのUさんを講師に招いた勉強会(09年2月19日)のあいさつでは、自ら「いろいろなことでお話をさせていただいている関係」だというUさんについてこう称賛しています。

 

 「やはり調査の視点、方法、そして分析、文章力ということなのでしょう。大変しっかりした仕事をされているなと感心していたところです」

 

 これに対し、講演でUさんもこう語っていました。

 

 「民主党の結党からずっと関わってきて、仙谷さんにもいろんなアドバイスをいただきました」「基本的に講演は、特に政治家個人が主催する会での講演というのはお断りしております。(中略)鳩山家関係者からの依頼があれば、原則を解除してお話をするというルールを適用しているので、そういうことで皆さまにお話をしたいと思っております」

 

 …うーん、つまらない話を付け加えてしまいました。蛇足でしたね。すみません。

 

 

 「政治は結果責任」だとよく言われますし、私自身もそれはそうだと思います。理想や動機がいかに立派でも、それを実現できなければ絵に描いた餅であり、国民にとって何の利益もありません。さらに、その理想や動機のデッサン自体が「国というものが何だか分からない」ほど歪み狂ったルーピー氏のような「理念的政治家」が、論外であることはもちろんのことです。

 

 この文脈上で結果責任を強調するあまり、政治家とその施政をどう評価するかにあたって、よく「最低の政治家であっても、国民のためになることをしてくれたならいい」と言われてきました。実際、特に芸術家や学者の世界では、人格的には異常性があり、ナントカと紙一重の人物が、例えようもなく美しい絵画や音楽をものにし、また、素晴らしい科学的実績をあげることは珍しくありません。

 

 いやむしろ、そうしたその人固有の歪み、狂的な部分こそが、こうした分野での成功につながっているところが大きいのでしょう。それはまごうかたなき事実であると考えます。

 

 ただ、最近、菅直人首相や仙谷由人官房長官をはじめ、菅政権の中枢にいる人たちの言動と現在のていたらくを見ていて、人間対人間の勝負であり、国民に語りかけ、説得する能力が問われる政治の世界ではやはり、人間性がもっと重視されていいのではないかと考えています。

 

 インターネットを含むメディアの発達によって、為政者達はその言動を以前のようにベールの向こうに隠すことは不可能となりました。昔であれば、陰で国民をバカにしつつ、人前では「国民の生活が第一」と言ってもなかなかばれなかったかもしれませんが、現在ではそうした卑しい心根はいつか露見します。

 

 また、首相や閣僚、党幹部らの醜い言行、過去発言との矛盾・乖離、国民と社会をバカにしたような振る舞いは、即座に広まると同時に記録され、私たちはことあるごとにそれを確認するという行動様式をとるようになりました。仙谷氏がかつて自民党を批判してたびたび使用した「知らしむべからず、よらしむべし」的な政治は、まったく通用しないと言っていいでしょう。

 

 そして何より、こうした社会の変容は、政治家一人ひとりの人間性を隠しようもなく暴き、白日の下にさらすこととなりました。首相やその政権の卑怯・未練・姑息な体質は、どう表面を言い繕い、前言を撤回して謝罪しようと国民の心に刻み込まれます。政治家にとっては大変な時代でしょうが、これはこれでいいことだと歓迎します。

 

 結論を言うと、今の時代は、国民の信頼に足る人物か、日本を託せる人物かどうか、政治家の人間性こそが問われているのだと思うのです。そして、卑怯と姑息が受肉化したような自由と民主主義の敵、菅氏や仙谷氏は、誰の目にも隠しようがなくなった自らの卑怯と姑息によって今、追い詰められているのだろうと感じます。自業自得というか、定めというか、当然の帰結というか。

 

 仮に菅内閣が倒れ、次の首相が岡田克也幹事長になろうと前原誠司外相になろうと、あるいはまた政権交代があって現在は野党の政治家が首相になろうと、新たな政権はいずれ、構成メンバーの人間性と品格を問われることになるのだろうと思います。そしてそれは不可避の時代の要請なのだろうと愚考する次第です。

 

 つまり、ある程度は人間性も伴い、その点も評価されるような政治家でないと、最初から結果は出せないのだろうと。現在は指導力以前に、人徳の欠片も見当たらない政権ですが。

 

 幸い、こんな政治家にとってはある意味、やりにくい時代であっても、政治家になりたいと希望する人はたくさんいるようですから、是非切磋琢磨、砕身努力して、国民の期待にこたえられるような政治家が出てきてほしいですね。現在のように、政権のトップ連中が国民の軽蔑と嘲笑の対象にしかならないという事態は、(完全には無理でも)早く終わってほしいものです。

 

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