2011年04月

 

 昨日、民主党のある会合を取材し、その模様を「壁耳」(会合場所のドアの隙間などから漏れ聞こえる声を拾うこと)をしていた後輩記者によると、同党のある保守系議員が菅直人首相について「その心底にあるのは卑怯だ!」と強調していたそうです。見事に本質を喝破していますね。ぜひ菅首相ご本人にもそう言ってほしいものです。

 

 ところで、われわれは紙面をつくる際、特に連載記事や企画記事などでは、登場人物のカギカッコを重視します。ある問題の当事者たちが思わず漏らす一言は生々しく、ときにこっちの予想をはるかに超えた独創性を持ち、心に響いてくるものだからです。こればっかりは、現場で一つひとつ丁寧に拾うしかなく、いいカギカッコを聞き出し、見つけ出してこれる記者が評価されます。

 

 菅直人首相が21日に福島県郡山市を視察した際には、産経の福島支局の記者が実にしびれるカギカッコをとってきました。富岡町と川内村からの避難者の一人が菅首相に受けた印象をつぶやいたもので、こんなの記者がいくら頭で考えたって思いつきません。現場ならではの言葉でした。

 

 「何もできない。はっきりしない。何とも殺風景な男だったなあ」

 

 なるほど「殺風景な男」かあ、言い得て妙ですね。腹にすとんと落ちます。よくもまあこんなぴったりくる言葉を思いつくものだという気もしますが、現場で実際に潤いも人間味もない菅首相に接した結果、素直にそう感じたのでしょうね。ただの自分の保身と権力欲を「使命」「宿命」「運命」とすり替えて、とうとう天にまで責任転嫁を始めた菅首相の心に響かない言葉とは大違いです。

 

 さて、昨日の参院決算委員会では、この宰相不幸社会の伝道者に対し、複数の議員が退陣を迫っていたことは昨日のエントリでも書きました。ただ、具体的文言は記していなかったので、本日改めて紹介します。ここまで言われて何も感じない菅首相には何か不気味なものも感じます。

 

公明党の浜田昌良氏 「総理自身が風評被害をまき散らしている。たかが言葉というかもしれないが、その言葉を発する心が大事だ。先週、この委員会で同僚委員からの、復興の道筋をつけたら潔く身を引いたらどうかという質問に、総理はどう答えたか。『欲張りかもしれないけれども、復興・復旧と財政再建の道筋を付けたい、それが政治家の本望だ』と答弁した。

あなたの本望じゃなくて重要なのは国民の心、声じゃないか。菅総理、あなたは菅は菅でも鈍菅だ。まさに国民の声を受けて、潔く身を引く、その一線の中で今の現状に手を打てば、国民はその言葉に耳を貸す。それを恋々と今のポストに、その政権にしがみついているがゆえに、まさに国民は聞く耳を持ってない。まさに明快な身を退く決意を述べてもらいたい」

 

みんなの党の小熊慎司氏 「(復旧・復興を)菅直人という人間がやんなきゃいけないのか、日本国総理がやんなきゃいけないのかは別問題だ。心を一つにするのが大事だ。残念ながら支持率にも表れている。菅直人をトップに立てていては一つになれない。菅直人の宿命に国民の宿命を重ね合わせすことはできない。この道筋をつけないのであれば、菅直人が音頭をとることでない。違う人がやることが、本当にあなたの願いがかなう。

世界で日本政治へのイメージ低下は著しい。菅直人政権の対応の結果だ。政治の風評被害の原因は首相だ。人心を一新するしかない。残念ながら。一番は国民のために、新しい未来のために働くことだ。総理が総理の地位について働くより、譲って、新しい総理のもとで復興を図るのが一番だ。どうだ。

総理の師匠である市川房枝さんがここにいたら、たぶん、総理を続けろとは言わない。しっかりと、逃げることじゃない、辞めることは逃げることじゃない。あなたは辞めたというそしりから逃げたいだけだ。英断を持って、菅直人個人として、もう一度、自分自身のあり方、国民への深い思いを持って決断することを求め終わる」

 

 ただ、民主党政権だけではなく、自民党もなんだかなあ、です。自民党の一部長老議員たちは、ポスト菅の候補として何と福田康夫元首相を想定しているとか。そりゃ自分たちには扱いやすく都合がいいのでしょうが、そんなの国民が望んでいるでしょうか。

 

 まあ、その思惑通りに進むというものでもないでしょうが、そういう発想が出てくるところが何ともいやはや…。

 

 

 本日は、ちょっと興味を引かれたコラムを二つ、紹介します。まずは、日経新聞の23日付夕刊に載った脚本家の内館牧子氏の「記者のしらけた目」とのタイトルがついたコラムです。内館氏は、菅直人首相が発足させた復興構想会議(菅首相は震災以後、「会議」を約20も乱立しました)のメンバーであり、14日の初会合後、記者たちの取材を受けた際の感想をこう記しています。

 

 《…会議は非常に活発で、誰からも「東北の復興」と「乱立のひとつにしない」という熱が感じられた。

 ところがだ。終了後に記者たちに囲まれた私は、彼らが非常にしらけた空気を発していることに気づいた。会議の様子などをとりあえず質問するのだが、復興構想会議に全然期待していないのがわかる。むろん、すべての記者がそうだというのではない。ただ、私を囲んだ記者の多くは「また乱立かよ」と思い、致し方なく取材をしているように見えた。

 無理もない。「復興」と名のつく組織だけで「復旧・復興検討委員会」「復興構想会議」「復興実施本部」と3つもある。記者たちにすれば、「もういいから、きっちり対策を進めろよ」という気持ちだろう。

 記者のしらけた目は国民の目だということを、政府・与党はわかっているのだろうか。》

 

 私は内館氏という人物をよく知らないのですが、なかなかきちんと見ているなあと感じました。菅首相は自分の殻に閉じこもって、自己愛に溺れながら自己正当化に余念がありませんが、内館氏には是非、世間の当たり前の見方はこうだということを会議の場で伝えてほしいものです。

 

 まあ、きょうの参院決算委員会を見ても、菅氏は批判や厳しい指摘には完全に心を閉ざして不服そうな、「僕悪くないもん、頑張ってるんだもん」という顔をするだけなので、無駄かもしれませんが。

 

 ちなみに、この14日の復興構想会議について、政府関係者はこんな感想を漏らしています。

 

 「メンバーの話は非常に面白かったけれど、みんなバラバラでまとまりそうにない。何より、今はこんな会議に2時間半もかけている段階だろうか。瓦礫の除去や被災者支援など、まず取り組むべき問題がもっとあると思う。菅首相は非常に細かいことにこだわる一方、構想会議での復興構想など大きな話も好きだ。だが、一番肝心のその中間部分がない…」

 

 さて、もう一つ、非常に気になったコラムがあります。それは、サンデー毎日(5.8-15GW合併号)に載っている毎日新聞の牧太郎氏のコラムです。牧氏は次のように書いていますが、この「我々」とは誰のことでしょうか。

 

 《…人間には、どこか「怖いもの見たさ」があって「悪いこと」が続くのを内心、期待するヘンなところがあるのか?「三輪宝」という言葉は廃れ、「三隣亡」が残った。

     ×     ×     ×

 ハッキリ言えば、我々はワザと勘違いして(怖いもの見たさで)民主政権を作り、日本を〝三隣亡状態〟にしてしまった。

 2年前、そこまで半永久政権だった自民党の悪政が目に余っていた。これではダメだ!我々は「政権交代」の美名の下、「民主党政権に一度、やらせてみたら」という軽い気持ちで民主政権を作った(もちろん、民主党はイデオロギーがバラバラ、半分近くの議員が「自民党で公認候補になれなかった議員」の寄せ集め。当方、この時も民主政権に大いなる疑問を呈したが)、少しは新鮮に見えた。

 ところが……民主党政権になってから「悪いこと」ばかりだった。何しろ、彼らは「子ども」だった。(中略)最低な首相・鳩山さんのツケを「最悪の菅政権」が払う。三隣亡ではないか》

 

 …うーん、この「我々」について、牧氏は「国民」と言いたいのか、それとも「毎日orマスコミ」なのか一体何なのか。ここは逃げずにはっきり明示すべきだと感じました。

 

 私はとても臆病(子供のころはジェットコースターにも乗れなかった)なので、怖いものなど最初から見たくありませんでしたし、軽い気持ちどころかひたすら重く暗い気持ちになっていましたが…。

 

 菅首相はきょうの参院決算委で自民、公明、みんなの各党議員から辞任を迫られましたが、それに対する答えはこんなものでした。以前のエントリで勝海舟の言葉を紹介した通り、本当に「無神経」ほど強いものはありません。

 

「私はこの3月11日の大震災、さらにこの原子力発電所事故、そのときに私がこういう立場に、総理という立場にいたことそのもの私が望んだとか、望まないとかではなくて、一つの運命であるとこのように私自身考えております。その中で私のやるべきことについては、私なりに、もちろん個人的だけではありません。もちろん、政府のあらゆる機関、自衛隊も含めていろんな活動やっていて、そういう個々の活動に対しては国民の皆さんから評価いただいている部分も相当程度あるわけであります。私は今、そうした責任を放棄して、何かその責任から逃れるということは、私がとるべき道ではない」

 

 …あなたの「運命」とやらに、国民を巻き込まないでください。どうかお願いします。この菅首相という生ける災厄、受肉化した貧乏神を出現させたことを、怖いもの見たさだとか、軽い気持ちで総括してほしくありませんが、それとも正直だと評価すべきところなのでしょうか。やれやれ。

 

 

 えー、本日は菅直人首相による記者会見が開かれましたが、私は手を上げたにもかかわらず指名されず、質問はできませんでした。前回の質問に懲りたようで、見事に逃げられた形です。予想はできたことですが、記者会見場でただ座っていた時間の無駄がもったいないです。

 

 首相の記者会見に当たっては、ふつうは官邸報道室あたりから各社のキャップに「今はどういう問題が関心事項ですか」と、事前に質問内容の概要・方向性を把握しておくための電話がかかります。それに答える答えないは自由ですが、本日は私のところに「探り」が全くなかったので、そんなことではないだろうかと思っていたのです。実際、他紙のキャップにその手の電話が入り、そのキャップが適当に答えているらしい様子が聞こえていましたし。

 

 また、今回、菅首相は記者会見の時間は限られているのに「冒頭発言」として延々と約22分間も一人でゆっくり話していましたが、これも明らかに質疑の時間を短くしようという作戦でしたね。さすが天性の卑怯者だけあります。菅首相は震災後、毎日のぶらさがり取材をずっと断り続け、これまた逃げていますし、次の記者会見がいつになるにしろ、私は避けられる可能性がけっこう高いことでしょう。そんな醜い「逃げ」の片棒を担がされている内閣広報官(指名役)が可哀想なぐらいです。

 

 それにしても菅首相は本日、震災で亡くなられた方々の思いを都合のいいように勝手に代弁し、さらに「宿命」という根拠不明で自己陶酔的な言葉を2度も使って、これからもずっと政権を担当していきたいという意欲を表明していました。本日の記者会見では、フリーの記者だか他紙の記者だかも手を上げ続けたのに指名されず、「完全な質問封じだ」と声を荒らげていましたが、国民の最大不幸社会はまだ続くというわけです。やれやれ。

 

 昨夜、官邸スタッフと会話していたところ、彼は菅直人首相の横暴と無能とに我慢がならない様子で、菅首相のことを何度も「クズ人間」と呼んでいました。私も橋本龍太郎首相の末期から、官邸担当として小渕、森、小泉、安倍、鳩山と計6代の首相を間近で見てきましたが、いわゆる「身内」から「クズ人間」と吐き捨てられる首相は初めて見ました。

 

 民主党議員の中にも、すでに自民党議員に対して「内閣不信任案を出してくれたら賛成する」と自分から言ってくる人が少なくないようです。菅首相とその政権の無能ぶりは、もう誰もかばいようがないレベルに達しているということでしょう。

 

 今朝の日経新聞は政治面トップで、「復興基本法案、提出先送り 月内断念、連休明けに」という見出しの記事を掲載していました。もう震災発生から40日も立つのに、この政権は本当にもたもたしています。

 

 18日の参院予算委員会では、公明党の加藤修一氏と菅首相、枝野幸男官房長官との間で次のようなやりとりがありました。

 

加藤氏 ところで、平成7年に阪神淡路大震災が起きた。もちろん法律も作らないといけない。阪神淡路大震災では3本が1ヶ月以内にできた。8本が約40日で成立した。やはりこういう大問題を可及的速やかに解決するには、法律の役割は非常に大きい。民主党政権は400人を超える国会議員がいるが、議員立法、閣法含めて震災にかかわる法律は何本成立したのか

 

菅首相 最も重要なことは、大震災に対して、まずは瓦礫処理などを含めた復旧作業なので、そのための予算を出そうと今、作業を進めている。国会の状況はご存知のような状況だ。できれば案を作る段階から野党にも説明し理解いただきたいという努力をしている。決して何か作業していないということではなく、しっかりと予算案を作って野党に説明し今月中に提案したい。

 

加藤氏 改めてだが、何本成立したか。何本準備中か

 

枝野氏 現時点ではまだ法案として出していないが、できるだけ早く成立できるものからと準備している。

 

 …もちろん、阪神淡路大震災のときと今回を単純に比較できるものではないでしょうが、それにしても動きが遅い。阪神淡路大震災のときは、震災発生1カ月の時点で

 

 「震災復興基本方針法案」「被災者等国税関係臨時特例法案」「災害被害者租税減免徴収猶予法一部改正案」の3本が可決されています。さらに、発生40日の時点では「被災市街地復興特別措置法案」「許可等有効期間延長緊急措置法案」「被災失業者就労促進特別措置法案」「特別財政援助法案」「平成六年度公債発行特例法案」の5本が可決されているのです。

 

 言い訳はいろいろあるのでしょうが、政治は結果責任であり、菅政権が無能かつ有害であることは火を見るより明らかだと思います。昨日、新党改革の舛添要一代表が記者会見で述べた次の言葉は全く正しいと思う次第です。

 

 「こういう大事な時に司令官を代えていいのかという意見もあるが、そのままの司令官だったら戦に負ける。ならば司令官を代えるべきだ」

 

 言動から自己愛と保身、我欲と私心、責任転嫁と現実逃避しか見えない司令官が一日その地位にあることは、その分だけ国益を損なうと、そう確信せざるを得ないのです。なにせ、「クズ人間」とまで言われている人物ですから。

 

 

 いかに頭脳明晰で博識で、かつ道理をわきまえることを心がけていても、現実の行動としては致命的に間違えてしまうというタイプの人がいますね。私のように薄らぼんやりで浅学非才で、かつ世の中というものが何だかよく分からない人間であっても、岡目八目でそれが見てとれることが稀にあります。

 

 いや、なまじ頭がいい上に勉強を積んで普段からよく物事を考えているため、一つの結論を得るとそれ以外の物の見方ができなくなる、ということもあるのだろうなと思います。周囲に「それは違うよ」と忠告されても、普段はその忠告相手がバカに見えているので素直に従わないということもあるでしょう。

 

 いったい、阿比留は何の話をしているのかと不審に思った方がいるかもしれませんが、私はきょう、桜井充財務副大臣が菅直人首相について指摘した次の言葉を聞いて、いろいろと連想してしまったのでした。

 

「(18日の参院予算委員会で)多くの党の方々から、『もう菅首相辞めろ』という声も出ましたよね。私が言ったわけじゃありませんよ。だけどあそこのやりとりを聞いていて、まあ、ああいうふうに言いたくなる心情もよくわかるな、と。つまり、やりとりの中で『このくらいはせめて認めたらどうです』と問いかけた際に、それまで全部突っぱねたら、『じゃあ辞めろ』と言いたくなるのも当然なんじゃないの。そうじゃない?要するに人としてどうかですよ。人としてね」

 

 身内である財務副大臣に人間性に問題があると強調されています。つい最近、自民党の石原伸晃幹事長もテレビ番組で「菅首相は人間として問題がある」と明言していましたね。前回のエントリでも書きましたが、たちあがれ日本の片山虎之助参院幹事長には「心がない」と言われていました。

 

 もちろん、政治は人柄で行うものでないことは分かっています。また、性格が悪くても、結果を残しさえすれば後世、評価されるでしょう。ただ、それは劣悪な、あるいは狡猾な人間性をある程度隠しおおせるか、あるいはそれをカバーして余りある能力を発揮できれば、ではないでしょうか。

 

 菅首相はもはや、その人間性の欠如によって、現実問題として政治の前進の最大の妨げとなっています。誰も菅首相には協力したくないし、誰も組みたくない。極端に言えば、同じ空気を吸いたくないという状況すら永田町に生まれています。これでは、菅首相がたとえ国民のために仕事がしたいと思っても(国民のためというより私心と保身にしか見えないところもこの人の徳のなさですね)、できるはずがないのです。

 

 で、ここでようやく冒頭の話に戻るのですが、野党から政権入りして菅首相を支えている与謝野馨経済財政担当相の著書「堂々たる政治」(新潮新書)に、「政治家の王道」という項があり、興味深いことが記されています。与謝野氏はここで、強く影響を受けた本として「ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像」(シュテファン・ツヴァイク著、みすず書房)を挙げ、厳しい権力闘争を生き抜き、ナポレオン政権で警察庁長官を務めたフーシェについて次のように書いています。

 

 《ツヴァイクは「はしがき」で、「ジョゼフ・フーシェという男は、その当時、もっとも権力をほしいままにした人間の一人であり、あらゆる時代を通じて、例を見ないほど風変わりな人物である」と書いた後に、その人物像を「天性の裏切り者、いじましい策謀家、ぬらりくらりとした爬虫類的性格、職業的な変節漢、下劣なデカ根性、みじめな背徳者」と書いている。なぜそんな人間の伝記をわざわざ書いたのか。その理由はこうある。

「とくに強調しておかなければならないのだが――卓越した人物が、純粋な理念のもちぬしが、万事を決定することは、まずめったにないのであって、それよりはるかにねうちがなくても、もっと立ちまわりのうまい人間、いいかえれば、黒幕の人物がことを決定しているのだ。(中略)ジョゼフ・フーシェのこの伝記こそ、そのような意味で政治的人間の類型学に寄与するものでありたいと願っている」

安倍政権が目の当たりにしたのも、まさしく「政治的人間」たちの行動であった。》

 

 与謝野氏が、裏切り者の汚名を着てまで進めたいとしている社会保障と税の一体改革の方向性は、私の考えとは異なります。私はいま消費税上げなんてとんでもないという意見です。でも、それはそれとして、与謝野氏が純粋に「よかれ」と思って仕事を成し遂げたいと願っていることはその通りだろうと見ています。そういうふうに己の信念に従う政治家もまた「あり」だろうと。

 

 ただ、与謝野氏は決定的に完璧に間違えたと思うのは、菅首相は「政治的人間」であることは疑いようもありませんが、性質はフーシェと共通していても、フーシェのような政治家としてのスケールも周到さもとても持ち合わせていない、「歴代首相の中で一番の小者」(弊紙先輩記者)であることです。目的のために一番組んではいけない空しい相手を選んでしまったわけです。

 

与謝野氏は、一時的に憎まれ者になろうと、ことを為すためにあえて「政治的人間」と組んだつもりだったのでしょうが、菅首相と連携すると、余計に何もできなくなるということを理解していませんでした。それは、人間の皮膚感覚、直感として、この愚かで卑怯な首相に忌避感を抱くべきところを、なまじよく働く頭と理性で抑え込んでしまったからかもしれないなと、私などの頭の回転が鈍い者にはそう見えるわけです。

 

 与謝野氏は前述の著書で、「私は政治的人間を否定するつもりはない。しかし、政治的人間が必ずしも素晴らしい政治家となるわけではない」とも書いています。頭では理解しているのです。なのに、菅首相なんかに引っかかってしまい、何もできないまま今日に至るわけです。

 

 私はこのブログで、たまに古典などをひき、人間社会も人間自体も、そして政治も古代からあまり進歩していないということを記してきました。ある種、諦観を抱いていたのです。人間なんてららららららら~らと。

 

 ですが、この危機の時代に菅首相という「歩く人災」「引きこもる風評被害装置」を首相にいただく最大不幸にめぐりあわせて、こういう低劣な政治的人間が位人臣を極めるような政治の構造的欠陥は何とかしないといけないと改めて思うに至りました。どうしたらいいのか、まだ何も分かりませんし、このアルコールで濁った頭で何を考えつくわけでもないのですが、いま、そういう気持ちでいるのでした。

 

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