2011年07月

 

 今朝、知床の清冽な朝の空気を楽しみながら泊まった大衆ホテルの近くを散策した後、ホテルのロビーに置かれた閲覧自由の図書を眺めていたのでしたが…。

 

 何の因果か、つい、辻元清美首相補佐官の著書「総理、総理、総理!!」(第三書館)なんて見つけてしまい、やめておけばいいのに手にとって読んでしまいました。休暇が台無しです。

 

 で、その中に辻元氏の2000年の選挙の際の選対ニュース「きよみとGO」のバックナンバーが収録されていて、そこに「辻元清美の政策」というコーナーが設けられていました。

 

 そんなの読まなきゃいいのに、職業病なのかついチェックしていると

 

 「現在の自衛隊は装備からしても規定からしても憲法違反です

 

 「警察官に労働組合を

 

 「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と即時・無条件に国交を正常化する

 

 などと、いかにも辻元氏らしい政策が列挙されていました。せっかく気分をリフレッシュするために東京を離れたのに、自分で自分を不愉快にするような愚かな行為をしてしまったようです。

 

 この本にはこのほか、辻元氏がピースボートに同行して平壌を訪れ、北の若者と対話したエピソードなども紹介されており、つい現在の政権のありようについても考えてしまいました。

 

 われながら、どこに行っても愚かな日々であります。

 

 さきほど、当初の予定から1時間以上も遅れてNHKも放映しない地味でマイナーな記者会見があり、なにやら自慢話と自己弁護の言葉がつむがれ、疲れ切った記者たちが、どうせまともに答えない相手にお義理のように質問をし、だれかの自己満足とアリバイづくりのためのセレモニーが終了しました。

 

 まあ、記者会見前には、数社のキャップたちと「アホらしいからそろそろボイコットしましょうか」「手を挙げて指されたら質問はありませんといいましょうか」といった雑談も交わしたのでした。本来ならば最も重要な取材の場の一つであるはずの舞台が、もう完全に時間の無駄、単なる迷惑扱いとなっています。

 

 で、私としては、心底に怒りを秘めつつも、とりあえずなんだかなあという気分できょう割り当てられた部分の記事を書き、この政権は昔、半村良氏の小説で読んだ「ナマケモノ」のエピソードのようだなあと感じています。

 

 題名は忘れましたが、半村氏の作品に、NASAがナマケモノの特殊能力を研究しているという場面があったのです。動作がひたすらのろく、鋭い牙などの武器もないナマケモノがこれまで生き残ってきたのは、近づく天敵など肉食動物の「やる気」「気力」「食欲」を削ぎ、「もうどうでもいいや」という気分にさせる特殊なフェロモンを分泌しているからであり、それをNASAが調べているという内容でした。

 

 もちろん、フィクションなのですが、小説家というのはうまくだましてくれるものだなあと感心し、強く印象に残ったのです。まあ、今の官邸の主が発する放射無能ははるかに悪質で、周囲に倦怠感と脱力感と徒労感を植え付け、症状が悪化すると怒りっぽくなり、しまいには対象に同化して自分がこの世で一番偉いという妄想まで引き起こすといいますから…。

 

 というわけで、明日から夏休みをとって、北の方に逃避します。天候が許すならば、国後を見てきたいと思います。このところ、夏休み前にノルマを果たさなければならなかった分、ブログ更新も滞っていました。

 

 帰ったら気分一新、また元気に仕事をしようかと、今はまあそんな風に考えているところです。リフレッシュしてきます。

 

 

 フランスのモラリスト文学の最高傑作といわれるものに、17世紀に書かれたラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世の「箴言集」があります。で、本日、たまたまここ2代の首相について思いをめぐらせながら、この書を手にとり、何気なくめくったページで目にした言葉が琴線に触れたので紹介します。

 

 さすがに、何世紀にもわたって多くの人々に愛読され、引用されてきた書だけあって、珠玉の言葉に肺腑をつかれる思いがし、同時におおいに吹き出しました。

 

 《世には馬鹿たるべく定められた人がいて、彼ら自身が進んで馬鹿なことをするだけでなく、運命そのものが否応なしに彼らに馬鹿なことをさせるのである。》(309番)

 

 ……いいですねえ、この真実を射抜く視線。そういえば、東日本大震災以降、自分が現在の地位についていることをやたらと「運命」だの「宿命」だの「天命」だのと麗々しく飾りたがる人を知っていますが、ああ、なるほど。それは抗いがたいことだったのですね。

 

 《馬鹿には善人になるだけの素地がない。》(387番)

 

 ……これは深いなあ。馬鹿は馬鹿な分、かえって人よりねじくれているので善人にはなれないのですねえ。せめて善人であってくれれば、まだ救われると思った場面も何度かありましたが。

 

 《気○いと馬鹿は気分でしか物を見ない。》(414番)

 

 ……イザの文字制限に引っかかる可能性があるので、1文字入れ替えました。国会でどう理詰めで追及されても、自分が理不尽にいじめられているとしか理解していないようなあの上目遣いを見ていると、エベレストのように高い広い馬鹿の壁を感じます。

 

 《頭のいい馬鹿ほどはた迷惑はいない。》(451番)

 

 ……そういえば以前、前任者についてある元高級官僚がこんなことを言っていました。「東大だけでなく、スタンフォード大も出てあれなんですから、あの人には学歴信仰を破壊した功績はありますね」。このとき私は同意するのを保留しました。どうなんでしょうね。

 

 《頭がよくて馬鹿だ、ということは時どきあるが、分別があって馬鹿だ、ということは絶えてない。》(456番)

 

 ……これも重要なポイントですね。実際、今の政権党に一番足りないのは分別や社会常識、対人関係のイロハとか、その類のことであるように感じます。だからすべてが前に進まないのに、その肝心なことが分からないと。

 

 ちょっと今の気分に従って「馬鹿しばり」で抜き書きしてみましたが、このほかにもロシュフコーはとてもおもしろいです。「最高の才覚は、事物の価値をよく知ることである。」などは考えるヒントを与えてくれますし、「年とった気○いは若い気○い以上に気○いだ。」なんで、つい笑ってしまいます。

 

 《狡知は小知に過ぎない》

 

 これなんか、私も全くその通りだと思うのですが……。

 

 
 昨日のことですが、参院予算委員会での自民党の山谷えり子氏の質問が興味深かったので少し紹介します。質問の中の、アレの違法な外国人献金受領の件や、アレの資金管理団体が拉致容疑者親族の関係団体に巨額の寄付を行っていた件は紙面で大きく取り上げていたので、それ以外の点で。

 

 現内閣には、アレを初めとして平成11年の国旗国歌法案採決時に反対票を投じた閣僚がごろごろいるわけですが、山谷氏がそれぞれに理由をただしたのです。その回答を聞きながら、みんな少しずつ、都合のいいように誤魔化しているなあと感じた次第です。今の立場では、「君が代」は嫌いだと、どうしても口に出して認めたくはないということでしょうね。以下、そのやり取りに私の所感を付け加えたものです。
 
 山谷氏)国旗国歌法にどういう気持ちで反対したのか
 
 アレ)国旗国歌法については長い経緯について何度も説明したが、その時は党として国旗についての法律を対案として出したが、結果としてそれが採決されない中で、党として自主投票にいたしたと記憶している。
 
……何も答えていないに等しいですが、アレは当時の新聞には「君が代は天皇主権時代の国歌だから」と本音を語っています。また、この「対案」が彼らの本心を示しているといえます。朝日新聞出版から出ているインタビュー本の中で、アレはこう経緯を説明しています。
 
 《この問題は若干経緯があります。わが党は対案を出したが、それは国旗については認めるが国歌は見直そうというものでした。簡単に言うと国旗は歴史的にもデザイン的にも非常に親しまれている。しかし、国歌は何となく元気が出ないし好き嫌いもある。だから見直すことを党議で決めた。》
 
 ……党議拘束をかけた段階で、「君が代」は見直すと決定していたというのは重要なポイントですね。当時、代表だったアレのスタンスがここに表れています。結局、この対案が否決された段階で、国旗国歌法案に関しては自主投票となったのですが、本音は隠しようもありません。そして、この日の丸はいいが君が代はダメという主張は、私がずっと前に故槙枝元文日教組委員長にインタビューした際に聞いたものと同じ論理です。根っ子を共有しているのか。
 
 山谷氏)枝野幸男官房長官はどうして反対したのか
 
 枝野氏)これは私の法律家としての感覚では、一般の学説と違うかもしれないが、国会における明文法とそれと慣習法ではどちらが強い法律であるか。 国会における明文法は衆参両院の2分の1で変えることができる。しかし、わが国の国旗が日の丸であり、国歌が君が代であることは国会の多数をもっても変えられないむしろ定着した慣習であると思っていて、こうした定着した慣習についてあえて明文法にすることはむしろ強い慣習法としての効力を弱めることになると考え、あえて明文法にせずに慣習法としてより強い力を持つべきと考え反対した。
 
 ……枝野氏は弁護士らしく、成文法にせずに慣習法にしておいた方がより日の丸・君が代のステータスが高かったからだと理屈をつけていますが、でもこの言い分は、それ前の段階で、民主党が「君が代」は見直し、他の国歌をつくると決めていたこととどう整合性をとるのでしょう。この人も、仙谷由人官房副長官と同様、法匪的な詭弁を弄するのがうまいだけで、答弁に誠意は全く感じられませんね。
 
 山谷氏)江田五月法相はなぜ反対したのか
 
 江田氏)民主党が修正案を出して、その修正案が否決されたので反対した
 
 ……若いころは歴とした社会主義者だっただけあって、こっちの方がいくぶん、ストレートです。それでも十分誤魔化していますが。この学生時代に自民党本部に乱入し、逮捕された(不起訴処分)ことすらある人物は、より確信犯的なにおいがします。
 
 山谷氏)大畠章宏国交相はなぜ反対したのか
 
 大畠氏)私は学生時代から剣道部であり、常に国旗に対して敬意を表してきた。従いまして、世界中でもすばらしい国旗と思っている。ただ、法律で決めると、こういう以前に私は国民からまさに信頼と尊敬を受ける国旗・国歌であってほしいと思っていて、法律というのがなじむのかなじまないのか迷った結果、そのような決断になった。
 国旗であれば、当然ならば賛成した。国歌というものが非常に重要なものであるが、様々な歴史がある。そういう意味で、みんなが理解しやすい国歌があってもいいのではないかと。そういうものをいろいろと逡巡しながら、最終的には指摘のような判断になった。
 
 ……前段の理屈と、後段の理屈の関係が微妙に矛盾しているというか、不明瞭な感じがします。まあ、「法律になじむ」かどうかなどと言っていますが、要は「君が代」は嫌いだったし、国民から信頼と尊敬を受ける国歌にはふさわしくないと考えていたということでしょう。
 
 山谷氏)海江田万里経産相はなぜ反対したか
 
 海江田)私は枝野さんと同じ。
 
……枝野氏の言い分を「うまい」と思ってパクったんだかどうだか、少し投げやりな感じですね。この人が20日の衆院予算委で、司馬遷の「死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し」を引いて、アレの存在の耐えられない軽さを堂々と指摘したときはちょっと感心したのですが、まあこの人も軽い才子にすぎない気もします。
 
 話は飛びますが、アレの伸子夫人はアレが就任した直後に出版した著書の後書きで、こう書いています。
 
 《菅に世間の空気を送り込み、裸の王様にしないのが私の役目のひとつでしょうか。これからも、日本一うるさい有権者であり続けたいと思います》
 
 私の見る限り、アレは昨年9月下旬にはすっかり「裸の王様」になっていたと思います。その後もずっと裸のままで、目をそらさずにはいられません。なのでいいかげん、伸子夫人にもその役目とやらを果たしてほしいものですが、もう何か、政治に希望を持つのも空しいような今日この頃ですね。

 

 今朝の産経2面に「楢崎氏『菅直人首相、直ちに辞めなさい』」という記事が掲載されています。かつて「国会の爆弾男」として名をはせた楢崎弥之助元衆院議員が、古くからの政治的同志・盟友であるアレに会って意見を言おうと91歳の老齢をおして上京したものの面会を断られたため、民主党国会議員に配ることにした文書「菅直人総理の即時退陣を求める」を紹介したものです。

 

 紙面では、そのごく一部しか掲載できなかったので、この場で改めて紹介しようと思います。これは「遺言」なのだそうです。

 

 《菅直人君はご存じの通り市民運動の出身で、労働組合等の応援する組織がなかったが、こうした運動の経験者が我々の仲間に必要だと考えた私は最初の立候補の時からその選挙運動を付ききりで応援してきた。3回の落選を経て4回目の選挙で初めての当選を果たしたときには、私も感極まって涙したものである。その後、社民連以来の私の古くからの同志として、また政治活動の後輩として、私が国会議員として活動をしてきた間、同じ志を抱いて活動してきた仲間でもあった。その政治的信念は今でも変わりないと信じ、私が国会議員を辞職してからも折に触れ彼との交流を続けてきた。

 

 (中略)しかしながら、首相に就任してからの菅直人君の言動を見聞きするにつけ、彼は一体どうなってしまったのかと、首をかしげる事のみが多くなったのである。

 私も今91歳、一人で行動するのも大変面倒な年になってしまったが、この国難の時にこそ菅直人君に猛省を促したくて上京した次第である。

 

 (中略)しかるに菅直人君が首相になって初めての2010年7月の参議院選挙において、まず国家財政の無駄を徹底的に洗い直すことから始めるという公約とは裏腹に、愚かにもこれまでま財政赤字のツケを消費税の値上げによって賄うという財務官僚の口車に乗って、民主党内部の同意も得ないまま、消費税10%の引上げを検討する旨の考えを表明し、これが引き金となって、これまでの54議席を44議席に激減させて大敗北し、いわゆる衆参のネジレ現象を招いてしまったのである。

 

 政治の常道から言えば、自らの掲げた政策で選挙に敗北したのであるから、この時点で彼は直ちに首相の座を辞すべきであった。

 

 こうした責任感の欠如が、2011年4月の統一地方選挙で、首都東京では知事の候補者すら擁立できず、全国的に敗北を喫し、首相としての信頼を著しく低下させたのは記憶に新しい。これらの事柄に対する政治的責任は極めて重大である。

 

 在日韓国人からの違法な政治献金が発覚するなど、様々なマイナスの事象によって菅総理の辞任が避けられなくなってきたまさにその時、戦後日本が経験したことがなかった2011年3月11日の東日本大震災が起こったのである。こうした国難の時にこそ、首相はこれまでのマイナスイメージを払拭し、全身全霊を投げ打って事態の解決に向かうべきではなかったのか。

 

 殆どすべての政治家やマスコミも災害の復旧・復興と声高に叫んでいる。しかし現在最も肝要なことは被災者の方々の一日も早い救済である。震災・津波による被災地の復興は最低でも10年の歳月を必要とするであろう。原発被害に関してはそれに数倍する時間を要するはずである。それまで崩壊した被災地に大して手をこまねき、直接、間接を問わず数百万にも達するであろう被災者をプライバシーゼロ、将来の展望ゼロの状態で、狭い体育館や公共施設にいつまで閉じ込めておくのか。原発被害者に対して何の手当もせず遠くに避難せよというのか。放射能被害に遭った農業、漁業者に対して、何の補償もせずに、物をつくるな、作ったり獲ったりしたものを売るなとなぜ平気で言えるのか。現在、最も困っている人々を真っ先に助けるのが政治の役割でなければならない。

 

 (中略)もっとも重要なことは「菅直人総理は直ちに辞任すべきである」。菅直人君はこの国難に対して、なんら有効な手立てをすることができない。菅直人君は残念ながら閣内すらも統率できていない。ましてや自らの所属政党である民主党をズタズタにしてしまった。国民の支持が急落するのも至極当然である。信頼を失った人間が何を言っても人々は聞く耳をもたないであろう。

 

 二次補正等いくつかの法案が通ったら菅総理は辞職すると聞いている。しかしそれらの法案は菅総理がいなくても十分に対処可能である。むしろ菅内閣のもとでは必要な法案さえ通すことが出来ないと思う。

 

 現在、最も大事なことは、現下の未曾有の国難に対して、政府・与党一致して全力で解決に当たること、そのためにも不毛な党内対立を解消すること、そして民主党政権に対する国民の信頼を一日も早く回復させることである。これらの課題に菅直人君が応えられないことは既に明々白々である。

 

 政治は国民のためのものであって、菅直人君の権力欲を満足させるためにあるのではない。古くからの同志である私だからこそ、あえて断腸の思いで、日本国民の為に辞任せよと言いたいのである。これは私の遺言である。

 

 人間引き際が肝心である。遅きに失したとはいえ君の即刻の辞任こそが多くの国民に安堵感と少なからぬ希望の光を与えるであろう。

 

 「菅直人君、直ちに辞めなさい」》

 

 …でもまあ、こうした真摯な訴えも、「反省」の2文字を前世に置き忘れてきたアレの胸には何も届かないのだろうなあ。きょうの参院予算委員会を見ても、何を追及されても自分は悪くないのまだと信じ切っているようだし。

 

 最近はもう、アレはどこまでいってもアレなので仕方がない、アレはアレとして、この期に及んでアレを支持している人ってどういう心理状態にあり、どんな認識を持っているのかと、そちらの方が不思議に思えてきました。小沢一郎元代表の「信者」の方がまだわかりやすいような…。

 

↑このページのトップヘ