2011年07月

 

たまらなく暑いですねえ。この春に初めて本格的な花粉症を発症した私は、なぜだかこの夏、屋内から出て熱い外気に接すると鼻づまりの症状が出るようになりました。医者によると、温度でアレルギー症状が出る人もいるということですが、全く困った話です。

 

で、本日は、この週末・週明けの新聞各紙と雑誌の記事をチェックしていて、少し思うところがあったのでここに記します。といっても、まあただの他愛ない感想なのですが、いつもそんなもんだと言われればそうなので、とにかくまあ、何はともあれそういうことです。

 

 まず、週刊東洋経済の「FOCUS政治」欄を読んでいたところ、例の民主党応援団の筆頭格で、アレとも長年の付き合いで個人的にも比較的親しいという山口二郎北大教授が、こんなことを書いていました。

 

 《3.11以来、私は菅首相の下に政治家が結束し、困難に取り組むべきだと主張してきた。そして、野党や小沢グループの権力闘争を国民不在の愚行と批判してきた。しかし、自民党の参議院議員を政務官に引き抜くなど、菅首相自身が政局をもてあそんで、民主党の結束を壊している。こうなると、野党や小沢グループだけを責めるわけにはいかない。》

 

 …山口氏のこの文章からは、未曾有の国難であるから、与野党は諍いをせずに被災地のために働くべきだと言ってきたけれども、アレがあまりにもアレなんで、アレだなあという部分的な持論撤回が見られます。甚だ不十分・不徹底ではあるけれど、アレがアレであるということを少しは認めざるを得なくなってきたのでしょうね。だってアレだもんな。

 

 次に、新聞界広し(実は狭い)といえども、彼ほど熱心にアレ擁護の論陣を張ってきた人物は他には見当たらないとされる毎日新聞の与良正男論説副委員長が、10日付毎日のコラム「反射鏡」に書いたものを引用します。

 

 《この非常時、政局にかまけている場合ではないとずっと批判してきた私も、もはや菅政権には限界を感じる。だが、菅首相が交代すれば政治が大きく変わると考えるのは幻想だ。「菅首相が居座るから進まない」というのも肝心なことを決められない弁明でしかない。》

 

 …与良氏の場合は、一応、このままでは政治は立ち行かないということまでは認めるけれど、これまで自分が言ってきたことは正しいんだ、という主張でしょうか。この後に及んで潔くないという点では、アレとどこか似たものを感じます(これはさすがに失礼でしょうか。アレと一緒にするなという論点なら素直に謝ります)。でも、多くの人はとにかくアレではダメだと言っているわけで、与良氏のいうような幻想にとらわれているとは思いません。

 

 で、私はこの二つの文章を続けて読んで、少し大げさですが、ああ、そうだったのかと自身のもやもやが溶ける思いがしたのです。私自身も、東日本大震災の発生直後は、アレを批判するのはしばらく控えよう、日本が心を一つにして国難に立ち向かえる環境づくりに協力しようと考えていたのですが、3日も経つころにはアレのあまりにひどい言動、姿勢を見て悔い改め、アレについては国難であり、かつその国難がしばらく続くからこそ、できるだけ早い時期に代えるべきだと確信していました。

 

 この同じ事実、実態を見ていてどうして山口氏や与良氏とこうも考えが交わらないのか。理由はいくつもあるでしょうし、そもそもみんなそれぞれ考え方、物の見方が違って当然といえば当然なのですが、本日になってようやく、すとんと胸に落ちたのでした。

 

 まず、今回の大震災について、本当に深刻にとらえ、真剣に立ち向かわないといけない「非常事態」であると認識とている点では誰しも一致しています。ただ、彼らはアレそのものが、深刻に実害をもたらす危険物であり、真剣に立ち向かわないといけない「非常の人災」であるとの理解が決定的に足りなかったわけですね。

 

 だから、非常時には非常時の対応をしろと求める一方で、「非常の人災」の下に一致団結して協力しろなんていう平時の論理をふりかざしていたわけです。私はこの「非常」に関する彼らの矛盾した態度が理解できなかったのですが、彼らはアレがそんな生やさしいもの、人がましいものではないということが、どうしても認識できなかったのですね。で、今ごろになってしぶしぶ一部分だけ、悔しそうに不服そうに認めると。

 

 また、彼らは、アレに対する正当な批判とアレに何とかその地位から降りて復旧・復興の邪魔をこれ以上しないでほしいという切なる願いも、単なる権力闘争や政局ととらえていたようです。この4カ月にアレが何をしたかを冷静に振り返り、アレがあそこにいることが「百害あって一利なし」であることは、アレの元女房役の柳腰姐さんさえ認めているのに。

 

 アレに対する内閣不信任決議案の趣旨説明をみても、今回の件がいつもの政局であるはずはないのに。もちろん、それぞれの党利党略、私利私略があるのは当然ですが、もっと切実に、アレが居座っていると救われる人も救われない、何より社会正義にも人の道にも反するという声が噴出していたのに、どうしてアレの正体を直視しないのか。私は6月4日付の産経紙面にこう書きました。

 

 《退陣を迫る与野党議員に政治的思惑があるのは間違いないが、それだけではない。良心と道理に従えば首相にくみすることができない。お天道さまが許さない。素直にそう考えた議員は少なくない。》

 

 アレは平気で嘘をつき、国民も同志・仲間もペテンにかけ、情報を隠蔽し、作業を遅延させ、人々のやる気をなくし、周囲に罵声を浴びせ、組織の円滑な活動を阻害し、経済活動を破壊し、社会にアパシーとアノミーを蔓延させ、秩序を壊し、それでいて自信たっぷりに、被災者を人質にとるようにして官邸に立てこもっているわけです。

 

 そしてアレがそういう存在であることは、少なくとも昨年9月の中国漁船衝突事件の時点では、かなり明確に分かっていたことであると考えます。与良氏は、アレを代えよと求める人に対しては「幻想だ」と決めつけているのに、一方で「アレの下で与野党が一致結束して取り組むべきだ」というもう一つの、もっと非現実的で非倫理的な「幻想」には固執し続ける矛盾をおかしているように私には見えるのです。

 

 確かに、マキャベリはこう述べています。

 

 《君主はよい気質を、なにからなにまで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である》

 

 ただ、アレの場合は、肝心の備えていると見せること自体に大失敗していて、国会で追及されただけでも「心がない」「誠がない」「徳がない」「信がない」……とあらゆる「徳」の欠如を底の底まで見透かされて現に指摘されている存在です。そして、何を言われても「私なりに」とか「私としては」とか常に自分中心の答弁をしています。それなのに、与良氏はコラムでこうも書いています。

 

 《一体、誰のための政治か。すべての国会議員が責任を自覚しない限りは新首相が誕生しても、すぐさま足の引っ張り合いを始めるだけだろう。》

 

 私も、首相が代わっても、やはり政争も足の引っ張り合いも続くだろうとは思います。ただ、その前段にある「一体、誰のための政治か」という問いに、こう言いたいのです。

 

 「今はまさしく、アレ一人のための政治になっているじゃないか!」と。国民不在の「アレのアレによるアレのための政治」と堕しているのが今の日本の現状だと思うのです。それに、責任ある議員たちが「ノー」というのは当然であり、むしろ義務だと。そう信じます。

 

 

 今度は、今朝のフジテレビの新報道2001で公表された7日に実施された世論調査の結果についてです。もともと世論調査自体、どこまで信用できるかというとあてにできないといわれますし、新報道2001の調査は対象が首都圏限定で、サンプル数も500と少ないので、精度が高いとは言えません。

 

 でも、毎週地域限定で行っている定点観測調査は、特に首都圏の国会議員にとっては「かなり正しい」(閣僚の一人)と映るようで、多くの議員が参考にしているのも事実です。ともあれ、この調査がどこまで正確かはともかく、ある傾向を読み取る分には十分参考になるはずなので、政権の断末魔の様子がいかにうかがえるか記してみます。

 

 まず、7日の調査では、アレの内閣支持率は16.4%と2割を割り込みました。実は、新報道2001の調査は、他の世論調査に比べて支持率が高めに出る傾向が続いていたので、これはけっこう画期的な数字です。

 

 内閣支持率に関しては、アレがペテンの退陣表明を行った6月2日の調査で37.4%と天を仰ぎたくなるような高い数字が出たのですが、それからは6月9日(31.8%)→6月16日(29.8%)→6月23日(24.0%)→6月30日(22.4%)と順調に低下し続け、いっきに今回の16.4%とこの1カ月余りで20ポイント以上、坂道を転げ落ちました。いわゆる「下り最速」であります。

 

 アレがあがけばあがくほど、反転攻勢を強調すればするほど民心は離れていることがうかがえますね。「オレの顔が見たくなければ法案を通せ」などと公衆の面前で言い放つその顔を、みんな見たくないと痛感しているのかもしれません。

 

 ただ、内閣支持率が低いだけなら、何の能力も持たないが、それを補って余りある無神経さと原始の生命力を誇るアレは、「オレは1%になっても辞めない」と言いかねません。しかし今回は、有権者の怒りの矛先は、アレだけではなく、アレが好き放題するに任せている民主党にも向いてきました。

 

 7日の調査で、民主党の支持率をみると、なんと10.0%(自民党27.6%)しかありません。みんなの党の8.8%とそう選ぶところのない数字です。これではアレが「勘違い解散」を打とうにも、選挙になれば必ず大敗することが約束されているので、なかなか難しいでしょう。これでは百戦百敗必定です。

 

 というよりも、この数字を見た民主党議員たちはどう考えるでしょうか。これまでもアレには手を焼き、うんざりしてきたでしょうが、アレのせいでここまで国民から見放されたとなれば、一刻も早くアレを何とかしないといけないという思い、焦燥感もまた募ることでしょう。

 

 また世論調査では、周囲から「首相は『脱原発』というより『反原発』だ」と指摘され、原発事故対応を延命に利用しているアレにとって、不利な数字も別途あります。福島第一原発事故への政府対応について、以下のような結果が出たのです。

 

 「評価する」(1.8%)+「まあ評価する」(15.2%)=17.0%

 

 「あまり評価しない」(37.4%)+「評価しない」(43.2%)=80.6%

 

 実に8割以上が「ダメ」だといい、本当によくやっていると見ている人は50人に1人もいないという冷厳な結果であります。アレがいかに強弁し、自分としては一生懸命やっているだとか、私なりに頑張ってきたとか空虚な言葉をつむいでも、それを言葉通りに受け止める人はどんどん減っているということでしょうか。

 

 今回の調査ではさらに、アレが退陣すべき時期についても「今すぐ」(39.2%)と「8月31日までの会期内」(28.2%)を合計すると67.4%と3分の2を超えています。首相なんて誰がやったって同じなんだから、こんなときに首相を代えるべきではないという政治的ニヒリズムに基づく「俗論」は減退しつつあるようで歓迎します。

 

 アレがいかに人間離れしていようとも、これまで一応なんとか人の社会の中でヒトとして暮らし、世論を背景に政治家を続けてきた以上、その何よりも大切な世論、国民の意思を完全に無視することはできないはずです。こんな数字が出てしまえば、民主党所属議員も官僚もますます、これ以上はないというほど、それはもう洒落や冗談ではないほど離れていくでしょうし。

 

 カエルのツラにナントカと言いますが、カエルだってナントカを四六時中浴びせられればさすがに平気ではいられないものではないかと。

 

  

 さて、私は前々回のエントリで、アレが過去に「当選するまで与野党の区別がつかず、閣内に入るまで与党と内閣の区別がつかなかった」と語っていたエピソードを紹介しました。実は私はこの、何というかある意味率直な告白を読んで、妙に得心したのでした。

 

 というのは、アレがやたらと「現場主義」にこだわる理由が「ああ、やはりそうか」と腑に落ちたのです。アレは福島第一原発事故の際にも、「まさか今そんなことを言い出すなんて」と愕然とし、必死で止める周囲を振り切って現場視察を強行し、東電の事故報告書に明示はされないもののベント遅れの原因となったことが暗にほのめかされる結果となりました。

 

 で、視察後は事故説明に訪れる関係者や技術者に対し何度も「お前は現場を見たのか。オレは見たぞ!」と怒鳴りつけてきたわけですが、なぜそれほど現場にこだわり、現場を見ただけで相手の優位に立ったと確信できるのか。

 

 それは、アレには物事でも人の心でもそのありようを「想像」し、推察する能力が決定的に欠けており、また、それゆえに他者には想像し、類推し、具体的に思い浮かべる能力があるのだということを想像することもできないのだということです。自分の目で確かめたことしか理解できないと。

 

 そう考えると、冒頭紹介した発言も納得できますし、就任半年後にもなって、「これまでは仮免許だった」と無責任なことを言い出したのもわかります。そしてアレは、他者が自分より優れていることを想像し、理解する能力もないので、みんな自分と同じかより劣っていると考えているのでしょう。幸せな人モドキであります。

 

 で、その延長線で、アレは昨日の民主党全国幹事長会議でこんなあいさつをしています。

 

 「政権を持った党として、内閣と党の関係、それについても当初から、いろんな議論をしてきたつもりだが、率直に言って、政権交代2年の経験の中で言えば、それまで考えていた以上の大きな課題、難しさがあるということも経験を互いにした」

 

 …「いろんな議論」といっても、どうせアレのことだから自分で一方的にまくしたてるだけで、他者の言葉なんて聞いちゃあいないだろうし、「それまで考えていた」という中身も、下手の考え休むに似たりのレベルでしょうね。そして、何よりアレらしいと思ったのは、自分がようやく難しさに気付いたからといって、他者にはそれを克服、止揚するような発想、考えがあるかもしれないという点には、決して思いが至らないということです。

 

 アレの言動からは、両親がどういう教育をしたのか、傍から見ると何の根拠もないのに「自分は他人より優れている」「生まれついてのリーダーである」という思い込みがあるようで、その偉そうな態度・姿勢にいつも「人モドキのくせにと」と、こっちが苛立たされるのです。

 

 かのビスマルクはこう喝破しています。

 

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

 

 己が経験しないと何も分からない愚か者と違って、賢い人は他人の経験や、歴史上のその積み重ねからもきちんと学び、自らの血肉とするということでしょうね。国の舵取りにやり直しはききませんし、世の中は初めての事態が次々に生じるものですから、この姿勢こそが宰相の必要絶対条件だと思います。

 

 それに対し、その言動から教養のひとかけらもうかがえないアレは、現場主義だと自己正当化しつつ、きょうも無能と無責任の害毒を日本社会にまきちらしています。この羹に懲りてなますを吹く類の反応しかできない、それでいて自らに自信たっぷりというアレの現状について、公明党の山口那津男代表は昨日のテレビ東京番組でこう語っていました。

 

 「民主、自民、公明の執行部クラスで国会を動かそう、力を合わせて国民の声に応えようと、合意をつくりながら進もうとしたところを、次次と菅総理が邪魔し、破壊し、壊そうという動きに出ている」

 

 4月に紹介した東京新聞投書欄に載った杜甫の「国破れて山河あり」のパロディーが、いよいよ身に迫り実感され、頭の中で鳴り響くのです…。

 

 「国壊れて菅があり「国壊れて菅があり」「国壊れて…」

 

 …しかしまあ、現在の民主党政権そのものが「愚者の楽園」と化していますから、まあこんなものなのか。

 

 歴史は自分を評価すると信じている例のアレは今、どのような心理状態にあるのでしょう。おそらく、支持率が低迷・下落し、与野党双方から批判され、一分一秒でも早く辞任すべきだと迫られている現状について、次のように考えているのではないでしょうか。

 

 「こんなはずはない。普通なら、このオレの理想と政治手腕はもっと高くみんなに評価、称賛されるはずだ。それなのに、官僚どもはサボタージュを決め込んで動こうとしないし、自民党だけでなく公明党、民主党執行部までオレのことを悪く言う。これはきっと、電力複合体とでもいうべき裏の組織があって、脱原発を進めようとするオレをつぶしにかかっているんだ。負けてたまるか!」

 

 実際、アレは5月の中部電力浜岡原発の停止要請を行って以降、さまざまな圧力が強まったと周囲に語っていますが、どうなんでしょうね。実際はそれ以前からいろいろな批判というか、忠言・諫言・助言も含めてさまざまな声は寄せられていたはずですが、「あーあー聞こえない」と自分で耳を塞いでいただけだろうと思います。

 

 アレは、なまじこれまで、この姑息で卑怯でその場しのぎで場当たりで人の裏をかくようなやり方で今の地位まで上りつめてしまったので、それは明確に「成功体験」としてアレの中で位置付けられていることでしょう。なので、そのやり方について反省することなんか思いつきもせず、ただただ「何かがおかしい」と被害妄想と自己憐憫の深い海の底に沈んで、真実から目をそむけているというわけです。

 

 こうなると、この実際には存在しない敵に向かってこぶしを振り上げて「決然と生きる」だとかわけのわからないことをつぶやくアレの間違った思い込みは、アレの自我を守るための砦となっていますから、もう覆すことはできないでしょうね。アレはすっかり攻撃モードに入ってむしろ元気なくらいですし。もう、速やかにアレ自身に退場してもらうしか処置無しであります。

 

 で、以上のようなことをつらつら考えながら、自宅の模様替えのために本棚の本をひっくり返していたら、ずっと以前に古書店で購入したドイツ文学者の竹山道雄氏の「剣と十字架」(文藝春秋新社、昭和38年刊)が出てきました。それをパラパラめくっていて、アレの心境・心情を説明する上で、少し参考になりそうな描写(もちろん実際はアレとは何の関係もありませんが)があったので紹介します。

 

 それは竹山氏が1960年にドイツに長期滞在していたころ、ベルリンで若いドイツ人青年と交わした60年安保騒動に関する以下のような会話です。原文ではカギ括弧が誰の発言がわかりにくいので、補って引用します。

 

 青年「…しかし、いま日本は平和で、むしろ非常な繁栄ではありませんか。それがどうしてそうラジカルになるのです?」

 

 竹山氏「長い戦争で精神のバランスを失った結果です。やはりドイツのワイマール時代に似たところがあるのでしょう。それに遠い島国で世界の実情がよく分からないということもあり、ただ一方的な見方だけを吹きこまれたということもあり、何より多くの人々が前の戦争中に抵抗しなかったという道徳的負い目を感じていて、こんどこそ抵抗しようというのです」

 

 青年「そういう遅ればせの抵抗家はドイツにもいますよ。ヒットラーに対してしなかった抵抗を、アデナウアーにむかってして、自分の良心をなぐさめようというのです。しかし、相手は別のものなので、弾圧をしない者にむかってのレジスタンスということは行為として成立しないはずですがね」

 

 竹山氏空想された仮想敵へのレジスタンスは、もっとも人々を鼓舞するのでしょう」

 

 …まあ、世代も異なるアレのことを、上の例に結びつけるのは無理がありますが、たまたま手に取った本の記述が興味深かったもので。でも、人間心理のあり方としては、当たらずとも遠からず、という気もします。

 

 自分のことを「粗にして野だか卑ではない松本龍」と述べて前震災復興担当相が就任9日で辞めた件と、国民がどの程度、アレへのストレスに耐えられるか全国検査したいと考えるアレの唐突で不整合な言動により、内閣支持率はこれからさらに低下するでしょう。

 

 そのとき、民主党の心ある議員(どの程度いるのか不安ですが)は果たして決起するのか、それとも、アレが再び天才的(天災的)な責任転嫁で押し切り、乗り切るのか。いずれにしろ、アレの妄想の深海1万メートルに日本全体が沈められるような事態にならないことを祈っています。

 

 

 口にするのも汚らわしい、見ただけで食欲が減退しやる気がなくなり、前向きに生きようという気力すら失われる例の「アレ」の件ですが、「アレ」は本日の衆院本会議で、自民、公明両党にも東電福島第1原発事故の責任があると強調した上で、こんなことを口走りました。

 

 「すべての失政の責任を押し付けて責任を免れようとすることこそ、恥の文化に反する行動だ

 

 …ああ。「アレ」はまた考えなしに思いついた言葉をそのまま口に出し、すべてをぶち壊す行為に出ました。ここまで野党を強烈に批判すれば、いよいよ国会は進まない。世紀の恥知らずにここまで挑発されたら、もう歩み寄ることなんて考えられません。「アレ」は間違いなく、被災者のことなんか1ミリも頭の中にはないのでしょう。あるのは被害妄想と自己愛と原生動物にも似た生存本能だけなのだと思います。

 

 あるいは、「アレ」の狂気と妄想の中では勝つ気でいる衆院解散・総選挙に向けて、対決姿勢を強く打ち出すことにしたのか。衆院本会議場では、この「アレ」の言葉に、与党席からもほとんど拍手が起きませんでした。自分たちがその地位につけ、またその地位の維持を認めてしまったグロテスクな「アレ」のあんまりな姿に、みな一様にうなだれているかのようです。

 

 孟子はこう語りました。

 

 「恥の人に於けるや大なり

 

人間にとって恥の心が占める意義は大きい。恥を知らなければ、最低の人間に成り下がる、という意味ですね。廉恥の心がないことにかけては同時代に比類する者なしと言われる「アレ」に言ってきかせても、どう懇切丁寧に説いても理解はできないでしょうが。

 

 …実はこのところ、精神的にけっこう煮詰まっていて、このブログのエントリ更新も滞りがちとなっていました。毎日毎日、目に見えない何ともイヤな毒を放ち続けている「アレ」の言動を追い、取材その他を通じてそのやろうとしていることや心境を推し量っているうちに、その毒気にあてられて、こっちがまいってきたようです。

 

卑劣で醜悪なものを正しくありのままに描写しようとすれば、卑劣で醜悪な表現を使わざるを得ません。結果、それを描く自分自身が卑劣で醜悪であるような思いにとらわれる日々でもあります。

 

 人類はその進化の過程で、原生動物のたくましい生命力を失いました。人類を人類たらしめている脳髄はあまりにか弱く、繊細だからです。反対に、あまりに強い生命力を誇るものは、プラナリアでもクマムシでも間違いなく知性を失うか、もともと持っていないものですが、その眷属をウオッチし続けるのはしんどいものです。

 

 国会中継を見て、「アレ」があうあうと意味不明のことを言い出すたびに、胸が苦しく、呼吸が困難となります。6日付の読売新聞の一面コラムは、第五代国鉄総裁、石田礼助氏の「粗にして野だが卑ではない」という自己紹介の言葉をもじって、「アレ」をこう評していました。全く同感です。

 

 「粗にして野にして『卑』でもある

 

 もう笑う気もおきません。ただ一つ言えることは、「アレ」はクトゥルー神話にでも出てくるような異世界のものであり、日本に仇なす最悪の存在であるということです。「アレ」が、いかにわれわれと異なる太古の原生動物的な思考を持つか、その傍証として「アレ」自身がかつて朝日新聞社のインタビューで振り返った政治家としての歩みから引用して示したいと思います。

 

 《市民運動をしていたころ、国会というのは遠い向こう側にありました。つまり、政党というのは私には縁のない存在だった。だから向こう側の中にある与党や野党がどういう関係にあるのか区別はできず、社会党も含めて体制に見えていたのです。

それが議員になって国会の中に入ると、与党と野党が違うということがわかった。与党は政権に入り、野党はアンチテーゼを出していた。さらに次のステップで、自社さ連立政権で与党になり私も閣内に入った。それまでは与党と内閣の区別がつかなかったが、ここでそれがわかってきた。》

 

 …3回連続して落選した後、4回目の挑戦で国会議員になるほど執着していたくせにこれです。これって、まるっきり馬か鹿かそのハイブリッドではないですか。その後、「アレ」を連続して当選させ続けた有権者に八つ当たりしたい気分です。ああ、本当に頭が痛いし、体がだるい。放射能より無能が怖い。

 

↑このページのトップヘ