2012年04月

 

 連休まっただ中ですね。今年は、「夏休みはとれないかもしれないから、できるだけ連休中は休め」という部長の方針もあり、私も比較的のんびりしています。といっても、連休中も新聞は(休刊日を除き)発行するので、休みをとるためには事前に「連休用原稿」を用意しなければなりません。

 

 というわけで、私は今回、杉本康士記者とともにきょう、明日の政治面に「『外交ごっこ』のツケ 民主党政権の禍根」という大型の記事を書いています。もともと政権交代だけが共通目的の寄せ集めのプロジェクト政党である民主党が、政権奪取前にはほとんど関心も見識も持っていなかった外交の舵取りをすることになり、いかに国益を損ねてきたかについて、上・下でまとめました。

 

 今回は、これこれこういう趣旨の記事を書け、という指示は上から来たものですが、じゃあ具体的に何を取り上げ、どんなエビソードを書くかは現場が決めることができるので、例によって好き勝手書いています。

 

 私自身も含め、人は、特に過去は水に流す文化を持つ日本人は忘れっぽいところがあるので、この27カ月余の民主党外交をおさらいするのも、それなりに意味はあるかと思います。もちろん、あれやこれやの混乱と混沌と弊害を上下2回の記事で全部記せるわけはないので、ダイジェストにならざるをえません。でも、ある程度の紙面はいただきました。

 

 結論は、まあこういう人たちに外交をこのまま任せていたら、日本はますます地盤沈下し、どうしようもなくなる、ということです。いつも繰り返し書いてきていることと変わりません。

 

 で、連休らしい話題というか話は大きく飛ぶのですが、週刊文春のゴールデンウイーク特大号を読んでいたら、巻末に「大人がいま読むべきまんがランキング」という特集が載っていました。さて、どんな漫画が取り上げられているかなと見ると、上位3位は…

 

 1位 3月のライオン   羽海野チカ

 2位 ちはやふる     末次由紀

 3位 海街diary      吉田秋生

 

 ……とありました。うーむ、みんな女性作家ですね。実は3作品とも買って読んでいました。やはり私はけっこう漫画読みであるようです。

 

 「3月の~」は将棋、「ちはや~」は百人一首、「海街~」は人々の日常を描いたものですが、共通項はどれも「心理描写がとてもうまい」ということでしょうか。羽海野さんの作品は、最近、家人がブックオフで買ってきたので「ハチミツとクローバー」も読みましたが、これもとても面白かったですね。まあ、個人的にはもっとハッピーエンドの方が好きですが。

 

 吉田さんの作品は、私が高校生か大学生のころから読んでいましたが、ますます磨きがかかったというか円熟したというか。独特の雰囲気は「夢見る頃を過ぎても」のころから、それほど変わっていないようですが。末次さんはこの作品で初めて読んだのですが、これも脇役がよい。

 

 漫画といえば最近、ビッグコミックオリジナル誌上で、「MASTER キートン」の新作が掲載されているのが嬉しいですね。あの不朽の名作のその後が読めるのですから、ファンとしてはたまりません。あと、雑誌ではいま「コミック イブニング」の発売日が一番楽しみです。読み応えがあります。

 

 ……何の話をしているのかわけがわからなくなりましたが、まあ連休だから許してください。といっても、明日明後日は平日で仕事だし、とりあえず本日はゆっくりするつもりです。

 

     

 

 一昨日は千葉・房総へ行き、縁の薄そうな観音様にお祈りしてきました。賽銭を入れ、何を祈っていいか思いつかなかったので「私の願いがかないますように」と……。

 

 本日は特にこれといって取り上げるべき政治マターがないので、ふだん私が感じていて、また、読者の人にもできれば感じてほしいなあという願望を抱いている新聞記事の意図とおかしみについて記そうと思います。まあ、基本的にはどうでもいいことですが。

 

 記事を書くということは、いかに短いベタ記事であろうと、事実関係を伝えると同時に自己を表現することでもあります。それぞれの記者に伝えたい優先事項、価値判断もあるでしょうし、また気に入った表現や工夫もあるわけです。そしてそれは意図するしないを問わず、文体に出るものだと思います。

 

 それについては偏向であるとか作為的であるとか、ためにする記事であるとか、さまざまなご批判もあるでしょうが、じゃあ、一切の作為のない記事を書けるのか、というとそれは不可能です。一定の分量の記事を書くということは、その範囲である事象を切り取ることにほかならず、取捨選択はイコール作為にほかなりません。

 

 また、ある事象を文字にすること自体が、それぞれの書き手の主観から離れてはありえません。もちろん、当然の前提として捏造やでっちあげは論外ですが、記事を書く際に個性を持たせる程度のささいな楽しみぐらいはないと、記者なんてそんなつまらない仕事には誰もつきたくないと言うことでしょう。

 

 前置きが長くなりましたが、私が「おかしみ」を感じた具体例として、まず25日付の朝日新聞の37面に載ったベタ記事「『維新の会』国政選挙 影響ある議席『望む』が55%」を取り上げます。この記事は近畿24県で実施した世論調査に関するもので、大阪維新の会の「政党支持率」について、こう書いています。

 

 《政党としての支持率も2%しかなく、自民12%、民主8水をあけられている

 

 これを読んで同僚記者と大笑いしたわけです。政権与党の比較第一党の支持率が8%しかないのに、その重大事実にはあえて触れず、維新の会が「水をあけられている」と書くところに、まず書き手ないし朝日の強いこだわりを感じました。

 

ちなみに、手元にある岩波の国語辞典によると、「水をあける」というのは「一身長または一艇身以上の大差をつける」という意味ですが、8%と2%の差でこんな表現ふつう使うか?という突っ込みも入れたくなりますね。何か維新の会を貶めたい意図が働いているのかなと。あるいは「水をあける」という表現を思いついたことにこだわり、無理矢理でも使いたかったのかとか。

 

 こう書くと、印象操作ではないかという疑問を持たれる方もいるかもしれませんが、この程度のことで印象が操作されるなんてことあるでしょうか。むしろ、妙な書き方だなあ、と笑い飛ばす対象になるのではないかと考えます。

 

 次に、24日付の東京新聞のベタ記事「菅前首相を既に聴取」を紹介します。福島第一原発事故に関する政府の事故調が今月3日に菅氏から事情を聴いていたことを明らかにしたという内容で、同様の小さな記事は産経にも日経にも載っていました。ただ、畑村洋太郎委員長の言葉で東京だけが載せている部分に、記者のこだわりを感じました。太字にした部分です。

 

 《当時考えたこと、感じたことを素直に話していただいた。政府事故調をつくったご当人です。だから「これはどうだったんだ」と問い詰めることはしなかった。

 

 あくまで推測ですが、これは書き手が「それでいいのか?」と考え、その判断を読者に委ねる、あるいは共有してもらうために入れた部分だと思います。産経はスペースの都合からか《畑村委員長は「非常に素直に話していただいた」と感想を述べた》としか書いていませんし、あるいは東京の記者も削られるかもしれないと思いつつ書いたのかもしれませんが、この部分があるとないとでは政府の事故調のヒアリングのあり方に対し受ける印象は異なりますね。私はグッドジョブだと感じました。

 

 また、これも25日付の朝日ですが、政治面には「官邸の責任追及、焦点 国会事故調 菅氏ら連休明け招致へ」という記事もありました。こっちは政府の事故調ではなく、国会の事故調に関する記事ですが、ここでも直接ではありませんが維新の会絡みの部分がありました。

 

 《委員の一人で、大阪市特別顧問として橋下徹市長の参謀も務めた野村修也弁護士は「国会事故調は他の事故調より責任追及のスタンス。政府の人を守るつもりも、守る必要もない」と言い切る》

 

 こっちは、維新の会に含むところはなく、むしろ面白がっているような気がしました。全体として価値判断は特にはさんでいないようでいて、国会の事故調委員について、わざわざ橋下氏との関係を記すことで、あるいは「追及は厳しいかもよ」と言わんとしたのかもしれません。まあ、実際のところはどうか分かりませんが、行間を読むというほどでもなく、なんとなく感じたことをそのまま書いてみました。

 

 ついでにいうと、私自身、記事を書く際には、何か意図的に印象操作をしようとか決めつけようというのではなく、「おかしみ」を感じてもらいたいと心懸けて表現を考えています。まあ、私の場合、拙くてそれが成功せずに往々にして「下品」だとか「新聞らしくない」と批判されることもありますが、無味乾燥な文章なんて自分でも読みたくないですし。

 

 それぞれの会社のスタンスというものも当然あるでしょうが、それはそれとして、各記者が少しでも伝えたいことを伝えようとして、工夫を凝らしているものだと思います。それが読者にどう伝わっているかは分かりませんが。

 

 

 本日はごく私的なことを記そうと思うので、関心のない方は飛ばしてください。私は先週の金曜日に、たまたま所用があって故郷の福岡に出張し、夜にはある寿司店にいました。すると、その店に居合わせた年配の女性2人が、30年以上前に亡くなった私の曾祖父を知っていると言い、こう大きな声で呼んだのでした。

 

 「浦ちゅーりん(忠倫)!

 

 別のグループで食事をされていたので、どういうかかわりがあったのかを聞くことはできませんでしたが、150万都市とはいえ、福岡は狭いなあ、縁とは面白いものだなあと感じた次第でした。この曾祖父についてはずっと以前、20061229日のエントリ「大衆紙『夕刊フクニチ』誕生記と個人的な思い出」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/93946/)でも触れています。

 

 

     

 

 で、帰宅後しばし、「懐かしいなあ」と今はもうない曾祖父の家の書棚を物色し、戦記モノを好んで借りて読んだ日々を思いだしていました。そしてふと思い立ち、「昔の人だからヒットしないだろう」と思いつつインターネットで曾祖父の名前を検索してみたところ、わずかですが出てきました。

 

 しかも、日本新聞協会から出版された別冊新聞研究6号「聴きとりでつづる新聞史」の中で、曾祖父がインタビューに答えていることが分かりました。この「聴きとりでつづる~」は142人の新聞関係者の証言をもとに、新聞史を振り返るというもので、私は産経新聞に入ってもう23年目なのに、こんなところに曾祖父が登場しているとは迂闊にも初めて知りました。

 

もっとも、インタビューは1970年に行われたもので、当時4歳だった私が知っている方がおかしいとも言えますが。ともあれ、早速新聞協会に行ってこの記事を閲覧してきたというわけです。そこには陸軍の主計大尉から福岡日日新聞(西日本新聞の前身の一つ)に入り、新聞統制会の常務理事を務めた後に50代半ばでまた応召となり、後に夕刊フクニチを創立した曾祖父のいろいろな証言が収められていました。

 

 まあ、今回はあくまで私的エントリとは言っても、あまり個人的なことばかり書いても仕方がないので、そのときどきの時代を感じるエピソードをいくつか抜き書きしようと思います。曾祖父が緒方竹虎と親しかったという話も、今回の帰省時に母から初めて聞きました。

 

 《私は軍隊で、熊本の連隊に二年おり近衛師団付きになって、それからシベリアに行ってまた東京の第一連隊に帰ってきた。

一連隊に行って驚いたことは、若い将校でよく本を読んでいるものが多かったことですね。あのころで、マルクス理論の本などを読んでいる将校がかなりおりましたよ。わかったか、わからないかは別ですが……。田舎の連隊ではほこりにまみれて、本など読む兵隊は少なかったころですが、さすがに東京の兵隊は、よく勉強してましたね。これらが一連隊、三連隊を中心に、二・二六事件をおこす原動力の一つだったのではないでしょうか。二・二六事件の青年将校の思想などは、一種の国家社会主義に近い線を持っていたと思うんです》

 

 《実は小磯内閣になったとき、どうも戦局がおかしい。たとえば、当時、一週間にいっぺんずつ、内閣書記官長と情報局の副総裁と、われわれとが、帝国ホテルで会食することになっていた。情報交換のために……。ちょうどそのときレイテ沖海戦があって、軍が勝ったというのですよ。本当にそう思っていたらしい。後できくと負けているんですね。実に甘い見方をしている。そんなふうで、一向に戦局の真相が知らされていない。政府の相当の要人でも、真相をしらない。だからわれわれ新聞人にだけでも、もっと真相を知らせてくれと、小磯内閣に申し込んだ。すると「よかろう」というので、各部門のエキスパート、たとえば、石油関係では何々少将、工業関係では、だれ、と、本当に仕事をしている中堅の人、責任のある人を、「新聞会」にきてもらって話を聞く。聞くものは、われわれ統制会幹部と新聞各社の編集局長です。責任を持つために、ここにはいる時はみな署名している。その他はだれも入れない。そして本当の戦況を何でもかんでも、話してもらうことになったんです。聞いてみると、油はこうだ、地下工場はこうだ、飛行機はこうだという。聞いておってふるえたですよ。何一つ希望のないメチャメチャの状態だ》

 

 《私は「新聞会」が解散になって、一応博多へかえりました。そのころは緒方竹虎さんが情報局総裁でした。これは伊藤述史・天羽英二・下村海南についで四代目ですが。それで緒方さんが「『西日本新聞』の専務でお帰りなさい」というので、博多へ帰りました。

ところが「新聞公社」からは専務理事に帰れという電報がくる。「もういっぺん帰ってこい」と。どうするか決めないうちに、召集がきました。「統制会」におるときは、召集猶予になっていたんです。ところが「統制会」が解散になると、四月の総動員で、私は兵隊に引っ張られました。そして薩摩の果てで、終戦まで兵隊にいっておった。》

 

 ……当時の新聞と政府・軍とのかかわり方がうかがえて興味深いかな、と思いました。いま、先細りと淘汰・再編が必然視されている新聞業界はこの先、どうなっていくのかということと、併せて考えさせられました。

 

 おぼろげな記憶であやふやですが、曾祖父からシベリア出兵時にバイカル湖で船が沈められ、一晩泳いで死ぬかと思ったという話を聞いた記憶があります。いや、あれは祖母(曾祖父の長女)からだったかな。下の写真は、曾祖父が昭和12年に応召し、48歳前後だった13年に前年落城した南京城前の塹壕で撮ったものだそうです。今も存命ならば(そりゃ120歳まで生きろというのは無理ですが)、当時の南京の本当の状況などを直接聞けたのにと残念です。

 

     

 

 ここまでごく私的な話にお付き合いいただいた方々に感謝します。まあ、ブログなんてそんなものだとご勘弁ください。

 

 《かれらは、なにかを破壊しなければならない。そうでなければ、かれらにとっては、自分たちがなんの目的もなく存在しているようにおもわれるのである》(バーク「フランス革命についての省察」)

 

 昨日の毎日新聞の山田孝男氏のコラム「風知草」は、ある種の人間の物の見方を考える上で非常に興味深い内容でした。「枝野幸男の弁明」と題したそれは、「脱原発派」のはずなのに、関西電力大飯原発の再開問題をめぐってブレをみせた枝野経産相に会って聞いた話を紹介していて、枝野氏は山田氏にこう述べたそうです(※ゴチックは阿比留)

 

 「私はロベスピエールになりたくないのです」

 

 山田氏の解説によると、《マクシミリアン・ロベスピエール(1758~94)はフランス革命の指導者である。恐怖政治の代名詞でもある。理想に忠実な弁護士だった。政権を掌握するなり急進的な改革へ突き進み、政敵を次々処刑し、最後は自分が処刑された。》とあります。

 

 そして山田氏は枝野氏の考えについて《枝野は、定期検査中の原発の再稼働を一切認めない選択は無理な急進的改革だと考える。直進を急げば混乱を広げ、かえって理想(脱原発)から遠ざかると見る。》と説明した上で、締めくくりにこう書いています。

 

 《脱原発を願い、再稼働を疑う人を「過激派」と呼ばないでほしい。現実主義の堕落に敏感でいてほしい。穏健派の指導者に注文しておく》

 

 ……枝野氏がいわゆる穏健派なのかどうかはさておき、やはり脱原発派である山田氏の心境もうかがえるコラムでした。電力不足が日本経済や国民生活に与える影響から再稼働容認に傾いた枝野氏に対し、あくまで脱原発路線を貫いてほしいという注文なわけですね。むしろ山田氏としては、ロベスピエールであってほしいのかもしれません。

 

また、枝野氏が自身をロベスピエールになぞらえた部分も、ひねくれた私は一瞬、「かっこうつけているな」と感じたものの、民主党政権、とりわけ菅直人内閣の官房長官を務めていたことを考えると案外ぴったりかもしれないと思い直しました。

 

 で、先日私宛てに献本が届いたので哲学者、適菜収氏の「ニーチェの警鐘 日本を蝕む『B層』の害毒」という新刊をたまたま読んでいたのですが、その中で適菜氏は《アレントは、革命家がリアリティーに対して無感覚になり、「教義や歴史の進路や革命それ自体の大義のため」に人々を犠牲にしたのは、「同情」「感傷の際限のなさ」に原因があると言います》と書き、アレントのこんな言葉を引用しています。

 

 《ロベスピエールの哀れみに支えられた徳が、彼の支配の最初から、いかに裁判をむちゃくちゃにし、法を無視したかを想い出すことができる》(「革命について」)

 

 適菜氏の本はまた、枝野氏が仕えた菅前首相については《民主党の反知性主義を代表するのが菅直人です》《菅の最大の特徴は、知性、文明に対して深い憎しみを抱いていることです》と書き、菅氏のこんなセリフを引いています。

 

 《私は、もともと東大全共闘の主張の主張には、かなりの共感をもっていました。とくに、初期の全共闘のもっていた文明批判的な側面には同感するところが多かった。》(「日本大転換」)

 

 《全共闘運動について一言でいえば、私は反文明運動だったと思っています。文明に対しての、ある種のアンチテーゼというか……。》(鳩山由紀夫との共著「民益論」)

 

 ……枝野氏より単純で過激な菅氏が、自然エネルギーにこだわり、首相退任後、市民活動家として脱原発運動に突き進んでいるのは、もともと「反文明」だからかと妙に納得しました。と同時に、そりゃこんな反面教師が身近にいたら、枝野氏も悩むことだろうなとも感じた次第です。

 

 私自身は、政治家にどこまでも現実、リアリティーに立脚してほしいし、理想を持つのは当然として現実的手腕を発揮してほしいと考えますが、あの菅氏が自身を繰り返し「リアリスト」と自称していることを思うとそれもあてにならないかもしれません。

 

 だらだらと駄文を書いてきましたが、枝野氏に関連してやはり昨日、こんな穏やかでない情報を聞いたので報告します。それは、脱原発派だったはずの枝野氏が大飯原発再稼働を容認したことについて、枝野氏が片足だか両足だかを突っ込んでいた左翼連中が「裏切り」と受け止め、報復を加えるため枝野氏を狙っているというものです。

 

 そのため現在、枝野氏の警護体制は強化されているほか、家族に危険が及ぶことも懸念されているというのです。これがガセ情報ならばいいのですが、左右を問わず、脅迫や暴力、テロの類いを私は許容できません。枝野氏など好きでも何でもなく、むしろ危ない人だと思ってきましたが、これはダメです。原発再稼働問題をめぐり、いろんなことを考えさせられる今日この頃でした。

 

 

 今朝の読売新聞に、福島第一原発に関する政府の事故調が今月上旬、菅直人前首相を非公開でヒアリングしていたとの記事が載っていました。「菅氏 国会答弁と食い違い 事故調に証言『海水で再臨界ありえぬ』」という見出しで、1号機の原子炉冷却のため海水注入を行おうとなった際の菅氏の「供述」に食い違いがあると報じています。

 

 記事によると、菅氏はこれまで国会などで「海水注入にあたって再臨界の危険性を考えた」と答弁していたのに、事故調のヒアリングにはこう偉そうに答えたということです。

 

 「海水で再臨界するわけがない。私にはそれくらいの知識はある」

 

 ……これは真っ赤な嘘か、あるいは菅氏のキャパが小さく自分勝手な脳みそが記憶を改変しているか、どちらかですね。実際には現地の吉田所長が官邸サイドの意向をくんだ東電本店の指示に逆らって海水注入を続行したわけですが、菅氏の言う通りにしていたら事故被害はさらに拡大していた可能性があると指摘されています。菅氏はこの「事実」を否定しようと躍起なのでしょう。

 

 政治家も官僚も嘘をつくものですが、菅氏の場合は嘘のレベルが低すぎて、しかもそれに対する反省が全くないこともあり、ホントにどうしようもありません。最近、こんな人の「証言」とやらをありがたがってさも真実のように書いている原発事故検証本がいくつも出ていますが、どういうつもりなのか。

 

 参考までに、この海水注入の件に関する私の(当時、実際にその場面を目撃した関係者から聞いた)取材メモの関連部分を公開します。

 

《国会などでは菅氏が「再臨界の懸念があるんじゃないか」と尋ねて班目氏が「ゼロではない」と答えたことになっているが、実際はそんなもんじゃなかった。3時に水素爆発が起き、東電の武黒さんだったか誰かが「追加的状況を抑えるためには海水注入しかない」と話をした。それに対し、菅氏が「安全委員会の考えはどうか」と振って、班目氏が「基本的にはそれしか方法がない」と答えた。次に「保安院はどうか」という話がきて、保安院側も「やはりそれしかない」と答えていた。

 

 すると、しばらく沈黙があった後、菅氏がいきなり「海水を入れると再臨界になるという話があるじゃないか!」と自分で言い出した。たぶん、入れ知恵をした人が菅氏が重用したセカンドオピニオングループにいたのだろう。そこで、久木田原子力安全委員長代理が「再臨界は、条件が整わないと起きない。塩分が臨界を防ぐ効果も出てくるし、抑制効果も出てくるので心配しなくても…」と説明した。

 

 ところが、しばらくして、菅氏が怒鳴り始めた。「君らは、水素爆発はないと言っていたじゃないか!それなのに今回は再臨界はないなんて言えるのか、(可能性は)ゼロって言えるのか?」と。そこで班目氏が仕方なく「ゼロとは言えない」と答えたというのが事実関係だ。そして、これを受けて菅氏は「そのへんの整理をもう一度しろ」と指示した。これで海水再注入の指示が1時間半遅れたのは事実だ。

 

 このとき菅氏の指示を受けて、東電からだけでなく、官邸からも福島の現場に「首相の了解を得るまで作業は止めろ」という指示があった。細野豪志氏もその場で現地の吉田所長に電話してそう言っていた。それなのに細野氏は今ではそれを忘れている。海水注入は結果として止まらなかったが、止めろと官邸が指示したのは事実であり、公表していないが東電にはその記録が残っているはずだ。政権が代わったら出てくるのではないか。》

 

 本日は時間がないのでここまでとします。私の取材相手だって、100%事実を述べているとは限りませんが、同様の証言はたくさんあります。少なくとも菅氏やその運命共同体(共同正犯)の連中の自己正当化・自己美化の発言よりは100倍信用できるはずです。なのに、菅氏にまんまと利用され、いや喜んで利用されて菅氏をヒーローのように扱う一部メディアや一部ジャーナリストに辟易としています。

 

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