2012年11月

 

引き続き菅直人前首相の原発事故対応について、であります。昨日の朝日新聞朝刊によると、菅氏は25日、東京都八王子で演説してこう述べたそうです。たぶん民主党の前職の応援演説でのことだと思いますが、相変わらず自己弁護に余念がありません。

「マスコミで『菅はダメだ』と1100回ぐらい言われると、やっぱりダメなんだと思われた方がたくさんいるようだが、具体的にこれが悪かったという人はあまりいない」

ほほう、そうですか。どこがダメなのかもっと具体的に指摘してほしいとのご要望のようですから、せっかくなのでそれに応じたいと思います。というわけで本日は、岡本孝司・東大大学院教授が班目春樹・原子力安全委員長にインタビューして構成した新刊『証言 班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?』から、班目氏の菅氏に対する赤裸々な証言を引用します。

    

事態がいかに深刻なものであったか、身の毛がよだつ思いを禁じ得ません。菅氏の身近にいた一方の当事者の発言だけに、かなり衝撃的な内容だとも言えます。というかこれ、確かに班目氏の言葉なのですが、私がしゃべったと言ってもあまり違和感がないような……。ともあれ、()と太字は私の補足です。

(312日の原発視察は)ただでさえ、事態は複雑かつ困難なのに、政府の最高指揮官である菅さんが、様々な情報が集約されてくる官邸を離れ、自ら最前線に赴くことにどれほど意義があったのでしょうか。いまだに私にはよく分かりません。》(P14)

《実際、あたり構わず怒鳴り散らす菅さんのエキセントリックな性格には、私を含め周囲が皆、対応に相当苦慮していました。(国会事故調の)報告書にある、「いら立ちをぷつける」「プレッシャーを与える」というくだりは、確かにその通りだと思います。》(P15)

《危機的な状況では、情報収集の体制を構築することがなにより重要だと思いますが、菅さんは違ったようです。端から見れば、どう考えても場当たり的というのでしょうか、そういう対応を選んでしまいました。》(P16)

《確かに「オレは原発に詳しい」とは言っていました。》()

(原発視察で東電の武藤栄副社長が説明を始めると)ところが、一、二分して、菅さんが怒鳴り始めました。

「そんなこと、そんな言い訳を聞きにきたんじゃない!

例によって周囲を威圧するような強い口調でした。

「そんなこと」とは、つまり技術的な話ですが、その最も肝心な説明が聞けなかったことは、この後、大きな禍根を残すことになりました。詳細を理解できなければ1号機だけでなく、23号機でもベント操作の支援ができないからです。実際、その後、23号機でもベント操作が難航し、結果的に1号機から3号機で炉心損傷に至ったことを考えれば、あの時、菅さんが技術的な説明を遮ったことは、対策の足を引っ張るものだったと言わざるを得ません。一体、何をしに現場へ行ったのでしょうか。》(P24)

《私は、もっと技術的な問題を武藤さんたちに尋ねたかったのです。しかし、完全にテンパっている菅さんが脇にいるので、黙って聞いているしかありませんでした。》(P25)

《確かに、菅さんにも相当に問題はあります。すぐに怒鳴り散らす携帯電話だと、耳に当てて話すと鼓膜が破れるのではないかと思うぐらいです。何日か後、私が直接電話で指示を受けたときは、電話を机の上に放り出してしまいました。怒鳴るだけでなく、人の話もちゃんと聞かない。話を遮り、思い込みで決め付ける。》(P40)

《すでにメルトダウンが始まっているのかもしれないーー。

(原発視察のため)ヘリコプターに乗りこむ時、私の心の中では、そんな不安が鎌首をもたげていました。

本当は、そうした懸念を菅さんに伝えたかった。

ところが、現場に向かうヘリの中で詳しい話をしようとした途端、

「オレの質問にだけ答えろ!

そう怒鳴られてしまいました。》(P67)

 《(ヘリの中で菅氏に)1号機とその他の原子炉の違いなど、いろいろ聞かれましたが、原子力に関する最低限の知識を持っているのかどうかなとやや疑問に感じました。カチンと来た質問もありました。

「こういうことに詳しい東工大の先生はいるか」

そう尋ねられたのです。なぜ、こんな時に学閥なのか、大いに違和感を感じました》(P67~68)

《菅さんも菅さんで、自ら(海水注入による)再臨界の懸念を口にしたかどうかについて、国会答弁で認めたり認めなかったり二転三転した挙句に、最後は否定しています。当初は、私のせいにしていましたが、国会事故調の公開の聴取では、東電の武黒さんが勝手に現場に指示したことだ、とも言っています。(中略)

菅さんと経産官僚は、自己弁護が過ぎるようです。》(P87)

(315)午前4時過ぎ、清水(東電社長)さんが官邸にやって来るのを、総理執務室で菅さんや枝野さん、海江田さんたちと一緒に待ち受けていました。

「撤退など許さないぞ!

清水さんが部屋に入るなり、菅さんはそう怒鳴りました。

「撤退なんて考えていません」

出鼻をくじかれた形になった清水さんは、そう小さな声で答えるのが精一杯でした。

東電が官邸の政治家に撤退を申し入れたと聞いていたので、私としてはやや拍子抜けしたのを覚えています。

菅さんは清水さんの話を聴くというより、激怒していて

「東電の言うことは信用できない。これから政治家を東電本店に常駐させるからな」

そう息巻いていました。》(P98~99)

《もともと、官邸や各府省におられる民主党の政治家の皆さんは、法で作成が定められた震災本部の議事録も残しておらず、菅さんに至っては、後に行政指導というか、超法規的措置により全国の原発を全て止めてしまった。いずれにせよ、法に則って仕事をする気がない。いくら政治主導でも、法律の無視、軽視は度を越しているのではないか。》(P127)

 《(ストレステストの件で)菅さんは、結局、地元(佐賀県玄海町)をひっかき回した挙句に、地域に不信と不安を残した。事故対応に際してもそうでしたが、この人は、物事を混乱させ、ややこしくする。》(P151)

 《菅さんは、ある時点から、反原発、脱原発に立場を変えた方が、政治家として支持が得られると考え始め、路線を変えたのではないでしょうか。もともと、確固たる信念のない政治家なのかもしれません。

市民活動家として政治の道を歩み始めましたが、自民党から政権を奪取し、権力を手中に収めた後は、消費税引き上げを主張しています。原発についても、首相に就任直後の二◯一◯年六月に閣議決定した「エネルギー基本計画」で、二◯三◯年までに14基を新増設し、発電量の五◯%を原発で賄うという方針を打ち出しました。自民党政権当時は、三◯%から四◯%でした。さらに原発の海外への輸出も、菅政権の成長戦略の一つでした。こう見ていくと、菅政権は震災が起こるまでは、長年与党だった自民党よりも、はるかに原発推進派だったのです。》(P152)

(脱原発について)菅さんは、一貫した考え方だと強調していますが、きっと、また変わるのでしょう》(P158)

……いかがでしたか。いやあ班目氏は、官邸政治家の実態を間近で目撃し、実害もこうむっているのだから、それだけ腹に据えかねているのでしょうね。なんか、政権交代したらもっといろんな証言があちこちから出てくるのではないか、という気がしてきました。菅氏や枝野幸男氏、福山哲朗氏に細野豪志氏と最近、相次いで自己弁護本を出版したのは、あらかじめそれに備えてじゃないのかと疑ってしまいますね。

でも、それでもいまだに菅氏を称賛したり、擁護したりする人がたくさんいるのだよなあ。私の目には映らない、どんな菅氏の姿が見えるのかと、不思議でなりません。

 

 

本日は前回のエントリで紹介したジャーナリスト、門田隆将氏の新著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五百日』(PHP)の続きです。門田氏はこの本を著すに当たって、事故当時の官邸担当記者だった私にも参考意見を聞きにきてくれた(何の役にも立ちませんでしたが)ので、私も宣伝に協力したいのと、内容に強く共感しているためであります。

今回はまず、震災発生翌日の312日早朝、福島第一原発へ向かうヘリの中での菅直人前首相の様子からです。この人が官邸内で、官僚や東電関係者に「俺の知っている東工大の教授と議論してからもう一度来い!」となぜか母校・知人に固執していたことは私も聞いており、記事にも書いたことがありますが、門田氏の著書にはこんなエピソードが出てきました。()は私の補足です。

《俺の質問だけに答えてくれーー。有無を言わせぬその菅の言葉に、班目(春樹原子力安全委員長)は押し黙った。班目が伝えようとした懸念の数々は封じられ、せっかくの専門家との直接の対話が、単に菅の質問に対して「答えるだけ」になってしまったのである。(中略)

やがて、現地が近づいてくる。

「東工大には、原子力の専門家はいないのか」

菅は、今度は唐突に意外な質問をした。一瞬、班目は意味をはかりかねた。一国の総理が、東工大に原子力の専門家がいないのか、と聞くのが不思議だったのだ。

しかし、班目は、菅首相自身が東工大の出身であったことに思い至る。

「ああ、この人、東工大出身だったかと、そのとき思ったんです。それで、私は二人の東工大出身者を推薦しました。一人は、東京電力出身の人でしたが……。私は〝そのほかにも何人もいますよ〟と答えました」

この非常事態に内閣官房参与として、東工大時代の仲間やOBが、菅によって官邸に呼ばれた話はあまりに有名だ。極めて愛校心が強いのか、それとも、母校出身者以外は信用できないのか、菅首相の特殊な思考が窺える。(中略)

ヘリが着陸して、さあ降りようとした班目は、ここでむっとすることがあった。

「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないでください」

一行は、すぐにはヘリから降りることを許されなかったのだ。菅首相が現地に視察に来たことを「撮影」するためだった。原発の危急存亡の闘いのさなかに、「まず撮影を」という神経に班目は驚いたのである。》

……次に、ヘリから免震重要棟に向かうバスの中での描写です。菅氏が例の、「日本語とも何語とも分からないような口調で」怒鳴りまくっていたことが具体的に書かれています。私もこのときのことは下記の池田元久氏に取材して記事にしましたが、こんなの誰だってまともに対応できないだろうと思います。だって言葉が通じないし。

(バスの)通路を挟んで左隣に座っている池田(現地対策本部長、経産副大臣)に、菅の言葉は聞き取れなかった。

「激昂してマシンガンのように武藤さん(武藤栄東電副社長)に何か言っていた。しかし、口調が激しくて、何を言っているか、全然、聞き取れなかったですね」

池田は、バスの中の菅首相のようすをそう語る。うしろの席にいた班目にも、菅が何を言っているか、わからなかった。

「私も聞き取れなかった。東電の武藤さんに向かって、激しい口調でなにか言っていましたが、私には内容がわかりませんでした」》

……この三月には、官邸政治家の一人が記者に「菅首相から携帯に電話がかかってきたけど、『あう、あう、あう』と言うばかりで何言っているのか分からないから切っちゃったよ」と話す場面もありました。こんなの、当時、官邸周辺で取材していた記者には常識なのに、「菅は終始冷静だった」と書いた大新聞もありましたっけ。免震重要棟では、こんな出来事もありました。

《一行が汚染検査を受けるため奥に向かおうとした時、いきなり怒声が響いた。

「なんで俺がここに来たと思ってるんだ! こんなことやってる時間なんかないんだ!

フロア中に響く声だった。声の主は、菅首相その人である。汚染検査を受けさせられること自体が気に障ったのかもしれない。

汚染検査をしているような時間はない。俺がなぜ来たと思っているんだーーフロアに大勢いた作業から帰ってきた人間がその声に驚いた。

「これはまずい、と思いました。廊下沿いに、いっぱい作業員がいて、中には上半身裸の人もいたんですよ」

この時、菅のすぐ近くにいた池田はこう語る。

「現場で(徹夜を含む)作業を終えて帰ってきて(検査を受けるべく)待っている作業員の前で、〝なんで俺がここに来たと思ってるんだ!〟って怒鳴ったんです。一国の総理が、作業をやっている人たちにねぎらいの言葉ではなく、そういう言葉を発したわけですね。これは、まずい、と思いました」》

……で、この後、菅氏は吉田所長と面会するわけですが、その次のエピソードがまた重要です。菅氏は一貫して、現地視察は良かったと強弁しているわけですが、こんな弊害もあったということが語られています。

《その時、池田に同行してこの場にいた経済産業省の黒木審議官が、

「総理、これをお願いします」

そう言いながら、すかさず書類を差し出した。

福島第二原発に対しても、「原子力緊急事態宣言」を発することと、「三キロ圏内」の住民に避難の指示をすることについて、総理の決裁を求めたのだ。それは、一瞬の〝間〟を捉えたものだった。

「これでいい」

菅は書類を見て、決済をおこなった。

池田が述懐する。

「それは、第二原発もおかしくなって、避難命令を出さなきゃいけないというんで、総理の決裁を取ってくれという要請が東京からあったんですよ。総理が東京にいればすぐ取れるんだけど、総理がこっちに来たんで、僕に任されたわけだ。現地対策本部長の僕に任されたということは、実際には黒木審議官がやるということです。それで、黒木審議官が決済の文書を持ったままヘリでやってくる総理を迎えたわけです。しかし、総理が激昂しているから、黒木審議官がなかなかこれを持ち出せなかった。本来は、決済をもらうのは、バスの中でも、どこでもよかったんだけどね。逆に言えば、その時間分、避難指示が〝遅れた〟ということになるね」》

……そもそも無理で無意味な現地視察を強行しなければ、もっと早く避難指示が出せたはずだし、視察したとしても、普通の首相ならばバスの中で決済が得られていた、ということですね。私も、こうやって記していて怒っていいのやら情けないやらで力が抜けていきます。

私は菅氏について当時、周囲のやる気と士気を奪って仕事の能率をとことん落とさせる「放射無能」とも言うべき特殊な気を発しているのではないかと漠然と考えていました。池田氏は私の取材にも「僕もあきれた。指導者の資質を考えざるを得なかった」と語っていましたが、こんな人が震災時にわが国のトップにいたことの不幸を改めて思います。

私も早くこんな人(災)のことはきれいさっぱり忘れて、二度と思い出さないで済むようになりたいのですが、まだまだそんな政治情勢には至っていませんね。祈るような気持で、今後の展開を見守りたいと思います。

 

 

先日、山本七平賞受賞のジャーナリスト、門田隆将氏が私に新著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五◯◯日』(PHP)を届けてくれたので、それを紹介しつつ、菅直人前首相の原発事故対応について考えようと思います。

    

私の産経紙面やこのブログを通じ、たびたび訴えてきたことは、事故対応に関する責任者であり当事者である菅氏の証言そのものが、全く信用できず、また、菅氏と一蓮托生かつ共同正犯である当時の官邸政治家(枝野幸男、福山哲朗、細野豪志、寺田学各氏ら)の言葉も、どこか自分自身や菅氏をかばっていたり、核心部分をごまかしていたりでそのまま受け取ることはできない、ということでした。

むしろ彼らは事故発生の当初から、東電への不信感から、あるいは自己保身のため、直接事実を知り得ない報道関係者に事実と異なることをたびたび発信してきた経緯があります。そしてその極端にバイアスのかかった発言を、当事者の貴重な証言としてそのまま垂れ流したメディアやフリー記者も少なくなかったことと思います。

そういう中にあって、この門田氏の著書はそれらとは一線を画し、何より吉田所長はじめ事故現場の関係者から多くの体験談を聴き、官邸政治家の一方的な言い分だけでなく、その場にいた官僚や技術者の目撃談を丁寧に拾い、東電に怒りの目を向けつつもそこからも記録を集め、最期には菅氏本人にもインタビューして「言い訳」「釈明」「自己弁護・美化」「正当化」の機会も与えた上で書かれています。

まあ、菅氏のコメント部分は話半分か話四分の一程度に読み流せばいいのですが、つまりはたいした力作であり労作である、ということですね。

ちなみに菅氏の証言が事故直後と現在ではころころ変わってほとんど原型をとどめていないことは、私は今年630日付の産経コラム「政論」に「原発事故対応、揺れる言動 菅前首相、武勇伝語る資格なし」という以下のコラムを書いています。

《脳内で記憶が次々と自分に都合よく書き換えられていくのか。それとも病的な虚言癖なのか-。東京電力福島第1原発事故対応をめぐる菅直人前首相の言動は、もはや「引かれ者の小唄」とあざ笑うだけでは済まされない。

 東電報告書に反論

東電が20日に社内事故調査委員会の最終報告書を発表したのを受け、菅氏は21日付のブログで、清水正孝社長(当時)と自らのやりとりに関する記述について「事実は違う」と真っ向から反論した。

「報告書では、3月15日未明の官邸での私と清水社長の会談で、清水社長が『撤退は考えていません』と発言したとしているが、事実は違っている。私から清水社長に『撤退はあり得ませんよ』といったのに対して清水社長は『はい、わかりました』と答えた」

菅氏は5月28日の国会事故調による参考人聴取の際も同じ主張をした。要は「清水氏が明確な形で撤退を否定しなかったため、3月15日未明に自ら東電本店に怒鳴り込む必要があった」というお手盛りの「物語」を崩したくないのだ。

だが、皮肉にも菅氏自身の過去の発言がこの「物語」を論駁(ろんばく)している。現在より記憶が新しかったはずの昨年の国会で、菅氏は何と説明していたか。

「社長は『いやいや、別に撤退という意味ではないんだ』ということを言われた」(4月18日の参院予算委員会)「『引き揚げてもらっては困るじゃないか』と言ったら『いやいや、そういうことではありません』と」(4月25日の同委)「『どうなんだ』と言ったら『いやいや、そういうつもりではないけれども』という話でした」(5月2日の同委)

それぞれ微妙に言い回しが異なり、徐々に清水氏の「撤退否定」のニュアンスを薄めているが、いずれにしろ菅氏の最近の主張とは明らかに食い違う。

 答弁まるで虚偽?

菅氏が第1原発1号機への海水注入中止を指示した問題についても、菅氏は国会事故調で事実関係をきっぱり否定した。

「淡水から海水に変えても再臨界が起こることはない。それは私もよく分かっていた

ところが、昨年5月23日の衆院東日本大震災復興特別委では何と言ったか。

「私の方からいわゆる再臨界という課題も、私にはあった」

5月31日の同特別委ではこう振り返っている。

「再臨界のことも『どうですか』と尋ねた」「海水を注入したときのいろいろな可能性を検討するのは当然じゃないですか。水素爆発の可能性、水蒸気爆発の可能性、再臨界の可能性、そして塩が入ることによるいろんな影響

菅氏は「過去の国会答弁は虚偽でした」とでも言うつもりなのか。付け加えると、官邸で一部始終を目撃していた関係者は「菅氏はこう怒鳴っていた」と証言している。

「海水を入れると再臨界するという話があるじゃないか! 君らは水素爆発はないと言っていたじゃないか。それが再臨界はないって言えるのか。そのへんの整理をもう一度しろ!」

言わずもがなの話だが、原発事故対応で失態を重ねた菅氏に武勇伝を語る資格はない。

「敗軍の将は以(もっ)て勇を言うべからず」。司馬遷は史記でこう戒めている。それでも悪あがきしたいのならば、偽証罪に問われる国会の証人喚問に応じてみてはどうか。(阿比留瑠比)》

……さて、私が記事に書いた315日未明の官邸での菅氏と清水氏とのやりとりについてです。菅氏の記憶が混乱というよりも、都合のいいように修正・上書きされていることは理解していただけると思いますが、この点について門田氏は著書でどう書いているか。ご本人の許可を得た上で長めに引用します。()は私の補足です。

《「東京電力は、福島第一原発から撤退するつもりなのか」

管は、最初から、そう問い質した。だが、清水の答えは、その場にいた全員を絶句させた。

「撤退など考えていません」

 えっーー。撤退するのではないのか。撤退するというから、この夜中に全員が緊急に集まっているのではないのか。誰もが清水を見てそう思っただろう。

「清水さんが席に座って、〝撤退など考えていません〟と言った時、かくっと来ました。そして、なんだ、やっぱりそうか、と思ったんです」

 班目(春樹原子力安全委員長)は、そう語る。

「それまで、私は政治家に全員撤退と聞かされているわけです。私も現場がどれぐらいの線量になっているか、知りません。免震棟のフィルターでどれぐらい頑張れるか、わからない。だけど、その後、さらにすごい現象が起こったというのも聞いていないわけだから、何もできない、何もできないと東電が言っているだけじゃないかというふうに思っていたんです。なんで撤退なんだと。おかしいなと思って、問い質そうと思ったの。しかし、清水さんが部屋に入ってきて〝撤退など考えていません〟と言ったのには、本当にびっくりしました。かくっと来て、次に、やっぱり撤退ではなかったのか、と思いました。ほんと撤退などありえないことですからね」

 班目は、清水の話に耳を傾けた。

「清水さんは、わりと小さい声で、ボソボソっとしゃぺるでしょ。それで〝撤退など考えていません〟と言いましたよ。私は、それまで、撤退などそんなわけないと思いながら、政治家に〝撤退を認めていいのか〟と聞かれていたわけですからね。政治家からああ言われちゃったら、私も東電が本当に完全撤退を考えていたのかなと、信じましたよ。私自身が(東電・清水社長から)電話を受けたわけじゃないし、電話を受けた複数の政治家にこう言っていると言われたら、信じますよ。でも、東電が政治家に誤解させるようなことを電話したのは確かですからね」》

 ……さて、当時、パニックに陥ってぶち切れていた菅氏と、まだ比較的冷静だった班目氏のどちらの証言がより確からしいでしょうか。以前のエントリに書いたように、私も官邸政治家側が、「東電の意向を全員撤退と受け止めた」こと自体はその通りだろうと思います。ただ、それは経緯をたどるとどう考えても、おそらくは最初に電話を受けた海江田万里経産相(当時)の勘違いから始まった独り相撲に過ぎません。それは明らかだろうと思います。

 にもかかわらず、菅氏は反省するどころか清水氏の言葉をねじ曲げ、国会で嘘を証言しているわけです。せっかく鳩山由紀夫元首相も政界を引退したことだし、ホントにこの人だけはどうにかしてほしい。

 ともあれ、門田氏は著書で、この後に東電本店に怒鳴り込んだ菅氏の姿も克明に描写しています。門田氏によると、やはり、映し出されたテレビ会議の映像を見ながらメモをとっていた社員はたくさんいた、とのことでした。

 《テレビ会議映像には、菅のうしろ姿しか映っていない。だが、声はマイクを通じて響き渡っている。左手を左腰のうしろにあて、向き直ったり、さまざまな方向を見ながら、菅はしゃべり続けた。

 言うまでもなく吉田(所長)以下、福島第一原発の最前線で闘う面々にも、表情こそ見えないものの、興奮した菅のようすがわかった。

 その現場の人間の胸に次の言葉が突き刺さった。

「撤退したら、東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!

逃げる? 誰に対して言ってるんだ。いったい誰が逃げるというのか。この菅の言葉から、福島第一原発の緊対室の空気が変わった。

(なに言ってんだ、こいつ)

これまで生と死をかけてプラントと格闘してきた人間は、言うまでもなく吉田と共に最後まで現場に残ることを心に決めている。その面々に、「逃げてみたって逃げきれないぞ!」と一国の総理が言い放ったのである。》

……東電に乗りこむ前、菅氏は清水氏から「全面撤退など考えていない」と聞いているわけです。それなのに、東電で「逃げてみたって…」と現場の神経を逆なでし、士気を削ぐようなことを絶叫し、後に国会では「夫婦げんかの時より小さな声で話した」とかふざけたことを言うわけです。

 現在、菅氏は選挙応援の要請もないので、地元に張り付いて街頭に立ち、脱原発を訴え続けているそうです。それは勝手ですが、これが「脱原発の旗手」の実像というわけですね。私はエネルギー政策にさまざまな意見があるのは当然であり健全であると思いますが、いかなる立場、主義・主張をとろうとも、菅氏のようであってはならないと、それだけは確信を持って言えます。

 

 

 さて、鳩山由紀夫元首相が引退を表明しましたね。私は今朝の産経コラムで鳩山氏への惜別の辞をしたためましたが、民主党の創設者にして民主党政権の初代首相である「ミスター民主党」の退場は、やはり一時代の終わりを象徴しているのかなと感じました。合掌。

 そして鳩山氏だけでなく、同じく政権交代の立役者である小沢一郎氏はすでに離党していますし、鳩山氏と旧民主党の共同代表だった菅直人前首相も選挙区での苦戦が伝えられています。つくづく、諸行無常の響きありだなあと、もののあわれを覚えてしみじみとした気分になります。

 なのできょうは、ここ数年を振り返るための備忘録を兼ねて、民主党政権誕生前夜からこれまでに、民主党について「月刊誌」に書いてきたことを記録しておこうと思い立ちました。タイトルはそれぞれの雑誌の編集部がつけたものですが、まあ、時代の空気を示す何かの記録にはなるかなと。発売順に並べると、

2009

 「WiLL(5月号)     平気で嘘をつく小沢全語録

 「正論」(10月号)     第二の「村山談話」を阻止せよ

 「WiLL(12月号)     ブレまくり鳩山無責任全語録

2010

 「WiLL(1月号)     物言えば 唇寒し 民主党

 「文藝春秋」(5月号)   政権交代は「労組の天下盗とり」だった

 「新潮45(7月号)    トップの言葉 存在の耐えられない「政治答弁」の軽さ

 「Voice(8月号)     かくも〝社会党的〟害毒に満ちた菅政権

 「WiLL(10月号)     赤い官房長官 仙谷由人が国を売る

 「正論」(12月号)     度し難き民主党外交の無能と卑怯

2011

 「WiLL(6月号)     菅首相の存在こそ「不安材料」だ

 「正論」(6月号)     さらば菅首相! 国民はあなたと共には闘えない

 「新潮45(7月号)    さらば、人の心を持たない宰相

 「正論」(11月号)     天敵記者は忘れない ドン・輿石の原罪

2012

 「正論」(1月号)     嗚呼! 自虐まみれの韓国支援

 「新潮45(7月号)    見識も政策もない 鵺のような「輿石東」

 「新潮45(8月号)    鳩山・菅・小沢「亡国のトロイカ」の大罪

 「新潮45(12月号)   国を危うくさせた「政治主導」

 

 ……となります。まあ、このほかにも野中広務氏や河野洋平氏について書いたり、いろいろと細々としたものはあるわけですが、衆院選後は何か雑文書きの依頼があっても、こうしたいわゆる「芸風」は改めたいものだと思っています。

 今後の政治情勢次第では、これまで以上に批判したくなるかもしれませんし、先のことはどうなるか分かりませんが、人に嫌われたり、敵を作ったりしないような穏やかでほのぼのとした、前向きで建設的な記事を書きたいなあと。本当のところそうした希望は胸に抱いているわけですが、

 無理かなあ。

 

 

 民主党政権もそろそろ終わりだというのは衆目の一致するところなので、新聞や雑誌ではこれから、この3年余の総括が行われることと思います。いったいこの、バカバカしく軽佻浮薄でかつ、深刻な弊害を招いた悪夢の季節は何だったのかと、それぞれの視点で振り返ることでしょう。

 で、その一環なのでしょう、現在発売中の「新潮4512月号は、「民主党の墓碑銘」という巻頭特集を組んでおり、拙文「国を危うくさせた『政治主導』」も掲載されています。

私自身は、本来ニュートラルで清新なイメージもあった「政治主導」という言葉を、ただ手垢にまみれさすどころか迂闊に口に出すと恥ずかしい禁句にしてしまった彼らの罪深さを書いたのですが、それはともかく、この特集の中に朝日のコラム「素粒子」の執筆者だった河谷史夫氏(現朝日新聞社友)の文章もあったので注目して読んだのでした。

「民主党政権は『うその四乗』」というタイトルのそれは、民主党政権を持ち上げ、さながら応援団のようだった朝日本紙とは異なり、かなり辛辣なものでした。以下、ちょっと引用して感想を加えてみます。

《苦々しくも三年前、政権交代をまるで「革命」でも来たかのようにはしゃいだ新聞があったが、見通しの悪さを懺悔するしかあるまい》→これ、名指しはしていませんがまさに朝日のことですね。政権交代前夜のはりきりぶりは忘れられません。

《衰亡の原因は、言葉を大事にしなかったことにある。今や空しい「政治主導」に始まって原発対応に至るまで、政権の発した言葉は虚言であった》→いやおっしゃる通り。まさに稀代の嘘つきが三代続き、周囲も嘘つきで固められた政権でした。

《菅直人は消費増税で公約を翻して信を失った。どだい首相の器ではなかった》→なんだか認識が非常に一致するなあ。

《かつて江藤淳は菅を「市民派の仮面をかぶった立身出世主義者」と呼んだが、地位への執着はあからさまであった。原発「人災」後の菅降ろしへの抵抗は目に余った。温厚な読売新聞の「編集手帳」ですら「粗にして野、しかも卑」と断じたほどであった》→私も自分の記事の中でこの江藤淳氏の言葉を引用したことがあります。また、この読売のコラムもはっきり覚えています。確か元国鉄総裁、石田礼助氏の言葉「粗にして野だが卑ではない」をパロディって菅氏のことを「粗にして野にして卑でもある」と指摘していましたね。

(野田佳彦首相は)言葉に重みがない。真実味というものが感じられない。機械人形のようにネジを回すとしゃべり出すが、言うことが上滑りするだけで、何一つ記憶にとどまらない》→表現が上手いなあ。同感です。あまり言われていませんが、私は野田氏こそ「巧言令色少なし仁」の典型のような人かもしれないと疑っています。

(前原誠司国家戦略担当相が)政調会長のとき、産経新聞に「言うだけ番長」と書かれ、記者を会見場から追い出したのはお笑いだった。本当のことを言われたら人は怒る。メール事件も八ツ場ダムも、前原はまさに「言うだけ」だったではないか》→あれは随分と「小者ぶり」を発揮してくれたエピソードでした。まさに笑うしかない。

《鳩山も菅も野田も、そして前原も、いずれも言いっ放しで無責任だった。うそつきと謗られて当然である。

無責任な指導者は先の大戦でもふんだんにいた。例えばインパール作戦を見よ。十万の将兵のうち三万が戦死、四万が傷病を負ったが、失敗の責任を取った指導者はいない》→私も自身の記事で、菅氏のあり方を無茶なインパール作戦を主導した牟田口廉也第十五軍司令官になぞらえて書いたことがありますが、誰しも連想するところは一致しているようです。

……とまあ、この河谷氏の記事には全く違和感がなく、むしろ強い共感を覚えました。問題は、どうしてこういう真っ当な認識が朝日の紙面にきちんと反映されなかったのか、ということにある気がします。やはり「社論」の壁が厚かったのかどうか。

みんながごく自然に当たり前に、そこにあるものをその通りに受け止めて見れば、そんなに見方、見えてくるものは変わるわけがないのに、現実は往々にしてそうはいきません。弊紙だって歪んでいるところや、斜眼帯をはめて視野を狭くしてしまっているところはあるでしょうし。

これは、どうしようもないことなのか。それとも、時代の流れや世代交代で変わっていくものなのか。後者ではないかと思うのですが、まだどうなるのかよく分かりません。

 

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