先日、早大教授で北朝鮮問題の専門家である重村智計氏から近著「金正日の後継者」(ベスト新書)を送っていただきました。重村氏からは以前にも「金正日の正体」(講談社現代新書)を送付していただき感謝しています。この手の本は私にとって趣味の読書というより、仕事上・実務上の読書になるので「最近読んだ本について」シリーズでは取り上げていませんが、ちゃんと目を通しています。
では今回の「金正日の後継者」の中身はというと、金正日総書記の後継者は「3人の息子の誰かではない」というもので、最近メディアが報じている「正雲後継説」を否定する内容となっています。それが正しいのかどうかは、私は直接的な北朝鮮情報は何も持っていないのではっきり言って分かりません。ただ、上の2冊からは元記者でもある重村氏の情報に関する強いこだわりが感じられ、とても興味深いものがあります。
「金正日の正体」では、わざわざ「情報学のすすめ――記者の取材、学者の理論」という1章を立てていますし、「金正日の後継者」の方でも、序章「ウォルター・リップマンに学ぶ」で情報入手・確認方法や分析の仕方について論じてあり参考になりました。例えば産経が出てくる箇所を引用すると「日本の新聞は朝鮮総連の情報や、その機関紙の記事を引用してはいけない。ところが、産経新聞でさえ『朝鮮新報』の記事を引用報道することがある。多くの記者には、それが意図的な情報工作であるとの判断がない」と指摘しています。
耳の痛い指摘ですが、実際問題、私も北朝鮮や中国をめぐる報道や、現に動いている政局報道については、「ああ、工作記事だな」「何らかの目的に利用されているな」と感じることがしばしばあります。私は、「政府の陰謀だ」という類の話はほとんど信じませんが、一方で言論・報道活動にはさまざまな工作が仕掛けられる、偽情報をつかまされるものだということは実感しています。
経験上も、割と信用できる人からの北朝鮮情報であっても、別の人が全否定したり、あるいは別の場所で全く裏がとれなかったりするので記事にしなかったところ、他の新聞や通信社がそれを書いてくるということが何度かありました。これを工作と決めつけることはできませんが、まあ自分なりの相場観を持って、怪しい情報かどうかを判断するしかないという気はします。現場の記者が「この情報は正しい」と信じても、上のデスクや部長、編集長が疑問を持てば、記事は不掲載、または小さな扱いということにもなります。
またまた話が余談に流れそうになりました。重村氏は「金正日の後継者」の中で、米国のジャーナリスト、リップマンの古典的名著「世論」(1922年刊行)を引いて、「…テレビ・メディアが、不必要に北朝鮮をバッシングしている、という論旨である。これは『ステレオタイプ』な、テレビ報道批判である」「『北朝鮮バッシング』論はジャーナリズム放棄」と指摘しています。この「ステレオタイプ」という言葉、そもそもリップマンがその概念と認識を創造し、定着させたものだそうです。重村氏はこう書いています。
《彼は、メディアの報道が、ある種の同じような理解や解釈、判断を定着させることを「ステレオタイプ」と指摘した。そして、この「ステレオタイプ」な認識は、時に偏見を生み、あるいは紛争や戦争に国民を駆り立てる。彼は、ジャーナリズムの使命はこの「ステレオタイプ」な偏見や認識を指摘し、誤解や偏見を解消させ真実を伝えることだ、と指摘した。だから、ジャーナリストの使命は、「ステレオタイプな認識」を打破することなのだ》
《およそ十年前、日本では「北朝鮮が戦争を始める(朝鮮半島有事論)」と、「北朝鮮が崩壊する(北朝鮮崩壊論)」といった報道や主張が一般的であった。それ以前は、金日成主席を賞賛し、立派な指導者とする報道があった。また、韓国の報道弾圧や人権弾圧を指摘しながら、北朝鮮の独裁や人権問題には目をつぶった。これが、ステレオタイプな北朝鮮報道であった。》
…うーん、まさにその通りでしょうし、現在の日本の各種報道のあり方はまさにこの「ステレオタイプ」そのものだという思いと反省もあります(もちろん、弊紙も私自身も含めて)。そして、ステレオタイプな報道・論調への反発が、逆の意味でのステレオタイプを生むこともありますね。自分はステレオタイプを脱し、それを批判しているつもりでいる人が、いつしかステレオタイプに囚われ、それを再形成していると…。
そこで、実際にリップマンの「世論」をひもといてみたのですが、実はこの人はけっこう物事に対して懐疑的だったり、悲観的だったり、皮肉屋だったりする部分があるようだと感じました。書いてあることは鋭く、納得がいくのですが、同時に決して安易に理想論を掲げてみせるようなタイプではないなという印象も受けた次第です。以下、きょうのテーマに合うものも必ずしもそうでもないものもありますが、報道関連を中心に気になった言葉をいくつか引用します。それにしてもこれが87年前に書かれたものかと驚きます
《古くから執拗に続いている信仰、つまり、真実は労して得るものではなくて、示唆され、暴露され、無料で提供されるものだという信仰は、われわれ新聞購読者の偏った金銭感覚にごく端的にあらわれている。その真実がいかに新聞のもうけにならないものであろうと、われわれは新聞が真実を提供すると期待している。(中略)このこともまた民主主義の「井の中」的な性格を示すものである。人手をかけてこそ得られるような情報を必要としてるのにそれが感じとられていない。情報はひとりでに、つまり無料で入ってくるはずとされている。もし市民の心から入ってこないなら、新聞から無料で入ってこなければならない。市民は電話、電車、自動車、娯楽の料金を支払う。しかしニュースのためには積極的に料金を支払おうとはしない》
…インターネット社会が到来したからこうなったという話ではなく、もともとの構造的な問題だったわけですね。
《一連のニュース記事は、利害関係のない読者には全体的に検討されることはないかもしれないが、一部の読者にはきわめて明瞭な先入観がある記事を含んでいる。そうした記事はその人が新聞を判断する資料であるが、こうした個人的基準なしに読まれるニュースは正確度とは別の尺度で判断される。そこでは人びとが自分では虚構か現実かの区別のつけようのない問題が扱われている。真実かどうかを基準にして判断することはできない。だが、このようなニュースでも自分のステレオタイプに合致すれば、人びとはひるまない。彼らはニュースが自分の興味をひくかぎり読み続けるだろう》
…ステレオタイプ自体がある種のニーズを構成しているときに、歴然と営利企業である商業紙はどう対応すればいいのか。
《世界中のすべての記者が四六時中働き続けても、世界中のあらゆる出来事を目で見るわけにはいかない。記者の数はそれほど多くはない。また、同時に二か所以上の場所に居合わせる神通力は誰にもない。記者は千里眼ではないし、水晶玉をのぞきこんで意のままに世界を見ることもできないし、テレパシーの力を借りることもない。とはいえ、こうした比較的少数の人間が何とか受け持っている話題の広がりは、それが平均的日常ではないとしても、まさに奇跡というものだろう》
…いわんや弱小紙においておや。
《新聞がこうした定石に固執せざるをえないような圧力が多方面からかかっている。ある状況のステレオタイプ化された一面だけに注目すればよいという省力主義、これまで自分が学んだことのなかったものにも目を注ぐことのできるジャーナリストを見つけるむずかしさ、どんなに健筆家のジャーナリストでも伝統に縛られない新しい見方を納得のいくように説明できるだけのスペースを得がたい、というほとんど宿命的な事実、読者をすばやくひきつけるべしという経済的要請、まったく読者をひきつけることができなかった場合やニュースの記述が不十分だったり不手際だったりして、期待がはずれた読者の不興をかった場合の経済的危険。圧力はそうした各方面から加えられる》
…さらには社内評価や人間関係の圧力もありますね。
《読者に届けられる新聞は、ひと通りの選択がすべて終わったその結果である。どんな項目を印刷するのか、それをどの場所に印刷するのか、それぞれがどれほどのスペースを占めるようにするか、それぞれがどんな点を強調するか。このような選択にあたって客観的な基準といったものはない。あるのは慣例である》
…その慣例がけっこう堅牢なものでして。
《ニュースと真実とは同一物ではなく、はっきりと区別されなければならない。これが私にとってもっとも実り多いと思われる仮説である。ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきはそこに隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである。社会的諸条件が認知、測定可能なかたちをとるようなところにおいてのみ、真実の本体とニュースの本体が一致する。人間の関心が及ぶ全分野からすれば、それは比較的小部分でしかない》
…全くその通りだと思います。私自身としては、「真実」という言葉は口にするのもはばかられるほど遠い存在のような気もします。
《正確な検査方法が存在しないということは、ほかのどんな説明よりもこの職業の性格を説明していると思う。かならずしもとくにこれといった能力や経験がなくとも処理できるような正確な情報の量はきわめて少ない。それ意外の情報はジャーナリスト自身の自由裁量に委ねられている。(中略)自分が弱いものだということを理解すればするほど、客観的に検査方法が存在しないかぎり、自分自身の意見のかなりの部分が自分自身のステレオタイプ、自分自身の規範、自分自身の関心の強弱によって成り立っていることを抵抗なく認めるようになる。ジャーナリストは自分が主観的なレンズを通して世の中を見ていることを知っている》
…はい、ほとんど何の抵抗もありません。同感です。
《(新聞は)そろって性悪でもないし、それほど深いたくらみを抱いているわけでもないとしても、民主主義理論がこれまでに認めてきたよりずっと脆い存在である。きわめて脆い存在であるから、人民主権の重荷をぜんぶ負うこともできないし、自然に手に入るものと民主政治論者が希望的に思っていた真相というものを自発的に提供することもできない。そして真実の全貌を提供してくれることを新聞に期待するとき、われわれは誤った基準を用いて判断している。われわれはニュースの有限的性格と社会の無限の複雑さを正しく捉えきれず、自分自身の忍耐力、公共の精神、そして万事に対応できる能力というものを買いかぶっている。われわれはおいしくない真実に対しても食欲をもっていると思いこんでいるが、自分自身の味覚をどんなに誠実に分析してもそんなものは見つかりっこないのだ》
…リップマンは、新聞は闇夜に光をあてて一部を浮かび上がらせる「サーチライト」のようなものだとも言っていますが、これはネットがいかに発達しようともそうは変わらないでしょうね。そうでありながら、また、それも含めた諸々の限界を百も承知の上で、いかに「ステレオタイプな認識」の打破ができるのか。まあ、ふらふらしながらも細々と書き続けるしかないのでしょうね。
最後に、先日のエントリで「宣伝」した7月後半発売の「民主党解剖 この国を本当に任せられるのか?」(産経新聞出版)の表紙デザインが上がってきたのでついでに紹介します。私の売れなかった本よりは、はるかにかっこいいなあ、と思っています。どうぞよろしく。
コメント
コメント一覧 (35)
>7月後半発売の「民主党解剖 この国を本当に任せられるのか?」(産経新聞出版)の表紙デザインが上がってきたのでついでに紹介します。
どうやら総選挙に間に合いそうですね。楽しみにしています。
WIll8月号の山際澄夫氏「民主政権100の不安」も力作ですよ。
そういった「最悪のシナリオ」を避けるため、中共指導部の選択は、半島北の政権が中共並みの「社会主義的」市場経済国家になることしかありません。過渡的には金正雲の名目上のトップの地位を黙認しても、早い時期に軍部の開明派を含むテクノクラートに実質的な権力が移行するように動くはずです。
アメリカ政府も表向きはともかく、反対はしないでしょう。市場経済化した北朝鮮は、中国と違って民衆のレベルは結構高く、上部構造たる権力機構がそのまま安泰であり得るという保証はありません。
極楽とんぼの天国日本はどうなるのでしょうか。
お忙しい中の更新、お疲れ様です。
花うさぎ様の仰るように、「WiLL8月号」眩暈がする程の力作です。
「民主党解剖」良い表紙ですね!素晴らしい。
発売が楽しみです。沢山、買ってアチコチに「うっかり」したい気分です(笑)
私自身はインターネットを利用するようになり、新聞に対する見方が変わりました。新聞記事はさほど記者の主観を排除していないんだと思うようになりました。記事(文章)を読んだ感想として「素人がブログに書いている姿勢と変わらないのではないか?」と。
これは記者の主観を否定するものではありません。
むしろ肯定的に捉えています。産経であれ、朝日であれ、署名のある記事を一記者の責任として受け取るようになりました。責任の所在が明確に分かる事は良い事です。
逆に署名の無い記事を新聞社の責任と捉える事が出来るかと言えば組織という曖昧さを感じ難しくなります。
曖昧な物に対価を払う事に若干の抵抗を感じています。
私の理想を言えば、どんな些細な事でも良いので、全ての記者の全ての記事を一堂に並べて読み比べられれば良いなと思っています。
理想というより夢物語ですが
また、よけいな事を…と言われる方もおられるでしょうが・・・
>また、そりも含めた諸々の限界を百も承知の上で、
最後から二つめのパラです。・・・それも含めた、ですね。
よろしくお願い申し上げます。
お約束の陰謀論wを除くと
・報道側が掛ける情報のフィルター具合が何故か画一的
(今回のお話から察すると慣例でフィルターしているからっぽいですが)
って事に集約される気がします。
で、各社似たようなフィルターを掛けられると、読む側としては複数のメディアの情報を比較して推測すると言う常套手段を使うことが不可能に成る事でして、
ネットで比較的、産経さんの記事を見かけるのは、(色々な意味での)全文配信とかも有りますが、
掛けるフィルターが他社と少し違っている割にその立ち位置がはっきりしているので、フィルターの掛け具合が判りやすいからだと思います。
今はgooやgoogleニュース辺りに行けば、同一事項の記事が1列に並んでいて、通信社の配信記事でも独自取材記事でも、新聞社が編集で削除した部分まで容易に判別できる時代ですからね。
余談ですが、去年の11月か12月頃にトヨタのお偉いさんがTV報道批判をした時の配信記事の編集具合は、配慮なのは承知していますが、笑わせていただきました。
こんにちは。山際氏の記事は私もざっとですが読みました。ほぼ毎月、WiLLに書いていらっしゃいますね。
>極楽とんぼの天国日本はどうなるのでしょうか。 …なんと答えようかしばし悩みましたが、結局、言葉はありません。どうなるのかは本当に分からないし、無意味に楽観的なことを言うのも、あるいは徒に悲観的なことを言うのも意味がないように思いました。各人ができることを淡々としていくしかないのでしょうし、それでどうなろうとなるようになったと思うしかないのではないでしょうか。
ありがとう!
これもステレオタイプの追加になるのかどうかわからないが、「平等」と「公正」のジレンマもあるよね。
日本の報道機関が中立という不能な病に取り付かれているとの指摘は古くからあるが、けして公正ではないんだよね。
たとえば鳩山邦夫という犯罪者のばあい、郵政側に、ほとんど落ち度がないにもかかわらず、ケンカ両成敗的な言論がかならず出始め、しまいには制裁を受けていない側に憎悪が集中するようになる。
インサイダーならだれでも理解していることだが、本当は、鳩山の一方的な野心の発露に過ぎなかったにも関わらず、だ。
どうもわれわれのステレオタイプの根源は、「問題を指摘されたくない」という余計なバランス意識、悪平等へのとらわれにあるような気がするんだよね。
ステレオタイプのプロットは、構造の問題というより、あるいは個々の性質の問題なのかも知れないよ。もちろん構造そのものの変形が不能だ、という意味も含めて語っているんだけど(笑)
ありがとうございます。ぜひ「うっかり」してください(笑)。
マスコミも様々ですが、テレビが特に酷いなと思っています。しかし「マスコミは悪い」と言う多くの人達も所詮はワイドショーと同じような感覚で、結局そういう国民だからそういうマスコミなのではないか?とも思ってしまいます。
自民党は落ち着かなくなってきました。麻生首相ももっとはっきりしてほしいし、不満もありますが、じゃあ他の自民党議員のやってることも何なのか?と・・・。
かと言って、民主党に政権を与えてよいとも思えない・・・。評論家の三宅氏も「民主党が政権とったら外交、防衛、教育が心配だ」と言っていましたが、そんな、国にとって最重要ともいえる分野が不安な党に、政権など任せられません。しかし民主側は「政権とったら4年は絶対選挙をやらずに、好きなようにやる」などと考えているようです。民主党が好きなようにやったら一体どうなるのでしょうか。今いろいろ騒がれている東国原氏も「このままでは民主党が圧勝し、民主党ファシズムになる」と言っているそうですが・・・。
産経の民主党解剖や友愛外交の危険性の記事は、まとまったいい特集でした。ぜひ多くの人に読んでほしいですね。交代交代、チェンジチェンジだけではいけないと思います。
ところが、おかしいと思うのは、本当にその分野の専門家でない評論家に何か言わせて終わりにしたり、都合のいい自称専門家を連れて来たりすることです。
あと、スポーツ記事を見れば良くわかりますが、本当にしっかり取材して書かれた物は、リアルに伝わってくる。産経のスポーツ欄(あまり読みませんが)で、唸るような記事を何度か見かけました。これは、読んだときの直感のような物に過ぎませんが、でも、なんとなくわかります。お茶を濁すだけの記事は、文体まで画一的だったりします。野球の試合の様子を記事にしているのに、「百人斬り報道」と同じような文体で書かれた物を見た事があります。
引用文にもあるように、自分が知らないことがそこにある、理解できない物に行き当たった、という認識を記者が持つかどうかはとても重要なことだと思います。私たちが報道で耳にする物についても、同じ態度が求められるだろうと思います。
新聞記事の署名は年々増えていると思います。署名も紙面スペースを1行分使うので、あまりどうでもいい短い発表記事などに入れる必要はないとも考えますが、普通の大きさの記事にはすべて入れればいいと思っています。また、そうなりつつあるようにも感じています。
ご指摘に感謝します。訂正しておきました。
>ネットで比較的、産経さんの記事を見かけるのは、(色々な意味での)全文配信とかも有りますが、掛けるフィルターが他社と少し違っている割にその立ち位置がはっきりしているので…。ですので、産経としてはネットが今のように普及する以前から、「新聞はみな同じではありません」「読み比べてみてください」とCMなどで訴えてきたわけですが…。ネットで簡単に読み比べができるようになると、もともとビジネス目的でそう言っていた部分はもはやあまり意味を持ちませんね。さて…。
>ケンカ両成敗的な言論がかならず出始め…。これはだいたいいつもそうで、ご指摘の通りです。例えば、政治資金の問題で与野党がやり合ったとして、より大きな問題があるのは明確な場合でも、紙面ではよく「泥仕合」という見出しがつくどっちもどっちという記事になりがちです。そうしておけば面倒な追及をしなくても、そこで思考停止できるということもあるのでしょう。>余計なバランス意識、悪平等へのとらわれ…。また、無意識の領域まで浸透したこれも大きそうな気がしますね。そしてそれでいいとする「慣例」と「多方面からの圧力」があり…。
理性だけではなく、無意識で求めるバランスや自己防衛なども絡めて考えてみたいテーマです。
こんばんは。ただ、現在の閉塞感をなんとかしてほしい、旧態依然としたやり方はもううんざりだと思う多くの人の気持ちの受け皿になれないのであれば、それはそれまでのことだと思います。こういう制度なのですから、なるようになった現実を受け容れた上で、それだダメならまた始めるしかないのだろうなと感じています。
> ...市民は電話、電車、自動車、娯楽の料金を支払う。しかしニュースのためには
> 積極的に料金を支払おうとはしない...
> ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらき
> はそこに隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれを拠
> りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである...
事実に真実、現実という意味を取り違えがちな文言を丁寧に説明しようとするリップマンの誠実さに感銘を受けると共に、時代は変われど報道従事者の抱える問題点は変わらないという「現実」を見せつけられたと言うか...
ただ、リップマンの意見に従うと、商業的には最大多数の「ステレオタイプ」に合致した論調を編み出した新聞(というより媒体)が成功すると言う仮説も成り立つんじゃあないかと考えてみたりします。
これを民主主義が容易に全体主義へと移行しかねない事に対する警鐘と取るべきか、大衆迎合こそが商業的成功への最短距離であるという論理の補強材料とすべきか...1922年頃の世相風潮なんてソビエトの成立期くらいの印象しか持ってませんが、その後に来た大恐慌〜覇権戦争に繋がる時代だから余計に現代にハマるのかもしれませんね。
いただいたコメントを読みながら、新しく知るということ、(当初は海の物とも山の物とも分からずとも)情報を得るということに、もっと謙虚でありたいなと思いました。半可通という言葉がありますし、分かったようなつもりになってタカをくくったときが一番危ういと。と同時に、読み手に対しても、傲慢なのかもしれないし、高望みであるのかもしれませんが、そういう風であってほしいと。…ああ、こういう言い方は矛盾しているかもしれません。私は一方で、読者にメディアリテラシーを高めてほしいと願っているのですから、これでは批判的・懐疑的視線を持ちながら信じてほしいと言っているようなものですね。
今回の記事に関係するようでしないようなコメントですが、今のジャーナリズムの報道で弱いと思う点を述べます。
一つは、事件があっても書かない、無視するという反応を見せることです。先のNHK提訴のことも産経のようにしっかり書くところもあれば、時事通信のように無視するところ、朝日や共同通信のようにわずかなベタ記事ですますところもありました。一方、左翼のちょっとした集会やデモを目立つ記事にすることは多いですね。
記事にするかどうかは各マスコミの勝手と言うでしょうが、バランスを欠く姿勢は批判に値します。
二つ目は、事件の内容が全体の中でどのような位置付けがあるか、突発的なものかあるいは社会の趨勢として起こっているものなのかの視点に欠ける記事が多いことです。
例えば、ソウルオリンピック前の韓国民主化運動での騒乱が、報道では韓国全土で吹き荒れていたような印象でしたが、実際行ってみればソウルの一部通りだけにほぼ局限されたもので社会全体は平穏だったことがあります。
また、日本で最近凶悪犯罪が増えているようにも感じますが、実際の犯罪率は減ってきているということは報道しないとか。また、その犯罪の中で外国人犯罪特に特ア系が非常に多いことを報道しないこともあります。
「韓国は騒乱で危険」「日本の治安は悪化」というのもその時々のステレオタイプかも知れません。1950年代には例の「北朝鮮は地上の楽園」とほとんどが煽って帰国事業を進めた本当に苦い反省すべき悪例があります。
いや、面白いですね~。重村氏の著書に対する阿比留さんのツッコミもそうなんですけれども、
>それにしてもこれが87年前に書かれたものかと驚きます・・そんな件が、最近産経紙上に連載されております「昭和正論座」とどうしてもかぶります。人間てのは、同じ事ばかりを繰り返してるんでしょうね。進化も見られるのでしょうが、昔の言葉にこそ教えられる事が多いなんて・・。進化と一緒に退化も進んでいるような。。。
面白いと言ってもらえると嬉しいです。私もリップマンが非常に面白かったので長々と引用したのですが、ちょっと自分の業界的・趣味的な方向に走りすぎたかなという気もしていたので。自己防衛の作用が働くことを否定することは、だれもできないことだと思います。それを認識した上で、じゃあどうできるのかを考えないと現実的でないという思いがあります。
ええ、ニュースは決して全体像を網羅できるものではなく、ある事件の存在を「合図」するものにすぎないというのは、非常にいい比喩だと感じました。リップマンの時代にはそれで終わったかもしれませんが、現在であればその「合図」を受けてネットその他でさらに詳細・多角的な情報も求めれば得られるでしょうが…。>商業的には最大多数の「ステレオタイプ」に合致した論調を編み出した新聞(というより媒体)が成功すると言う仮説も成り立つんじゃあないかと考えてみたりします。…「世論」では、発行部数とスポンサーの関係など、いろいろと考察がなされています。ここではとても書ききれないので、もしご関心があれば手にとってみてください。
> iwa1233様
> >ネットで比較的、産経さんの記事を見かけるのは、(色々な意味での)全文配信とかも有りますが、掛けるフィルターが他社と少し違っている割にその立ち位置がはっきりしているので…。ですので、産経としてはネットが今のように普及する以前から、「新聞はみな同じではありません」「読み比べてみてください」とCMなどで訴えてきたわけですが…。ネットで簡単に読み比べができるようになると、もともとビジネス目的でそう言っていた部分はもはやあまり意味を持ちませんね。さて…。
現状はWEBが殆どお金にならないようですから、
(ネットスケープ社の倒産が物語るように広告モデルでは
大企業の活動の一旦を担うのはキツイでしょう)
その前提では「読み比べ」は商売に成りませんね
ただし、何とかWEBへのアクセスを現金化出来れば
話は別だと思われます。
現状googleニュースの1項目に並んでいる記事は地方紙も含めて
30~40有りますから、当然読者は読み比べるにしても
記事を選択することになります。
そうなれば選択基準になるのは
・ネームバリューと信頼度
・記事等の独自性
・記事のタイトルのインパクト
と言った辺りに成るのでは無いでしょうか?
この線で進んでいくと新聞社はwebでは個別の記事別に勝負する
事に成ります。(実際アクセス統計は記事ごとに取ることが
可能で読者の興味も何処で調べて飛んできたかもネットでは
丸判りですから)
ネットでどう金を儲けるかというと・・・難しいですね
朝鮮日報は過去記事へのアクセスを有料化したようですが
現状では携帯会社やポータルサイトへのニュース配信と言った
配信で稼ぐしかなさそうですね。
新聞というもの(マスコミ全般)は木鐸であるとか、
不偏不党であるというのはウソであるとしか思っておりません。
ここまで猜疑心を旺盛にさせられたこと、マスコミはわからないでしょうね。
そのマスコミが応援する野党・http://www.nikaidou.com/2009/07/post_2992.php
それはすなわち、「口コミ」です。
「噂話」の類もこの内に入りますね。
これが時代とともに高度化して積み重ねられて、やがて新聞社やテレビ局、雑誌社などが出現し、そして職業報道者などが現在、存在するのだと思います。
そうみると、人間が生命の宿命として血中に3%の塩分を必要とするのと同様、マスコミという存在自体も「噂話的要素」を完全排除などしきれないものではないかとも思いますね。
これは何も阿比留さんのお仕事を否定しているものではありません。
今までに感じたことも踏まえての総論としての感想です。
>批判的・懐疑的視線を持ちながら信じてほしいと言っているようなものですね。
私は、「懐疑的視線を持ちながら信じて」ますよ。信じているのは主に事実部分。解説には険しい視線で。
NHKのクロ現などは、今日はどんなふうにダマしてくれるのか、というふうにw。
おはようございます。ご指摘の点はまさに、ジャーナリズムの持つ慣例的なステレオタイプの例でもあり、商業主義的センセーショナリズムの所産であるかもしれません。少しでも改められるものならそうすべきは当然ですが、同時に受け手側にもジャーナリズムのそうした性質をよく知ってもらうメディアリテラシーが深まれば…とも。
おはようございます。個人的な話ですが、大学時代にプラトンを初めて読んだときに、つくづく人間は2500年前から何も変わっていないのだなと感じました。その後、古典と言われるものを読むたびにその感想を繰り返し得ています。いかにテクノロジーは進歩したとしても、人間という社会を構成する動物のパターンも限界も何も変わらずそこにあるのだろうと、そう考えています。
わたしも、恐らく既に死んでると思います。
正雲も最初から偽物というのも、あながちと思います。
いいかげんな、キチガイ国ですから、なんでもありでしょう。
私は北の現政権が崩壊し、民主的な政権が出来ることを願っています。
抑圧された民衆は日本時代の侭だろうから、南の人より期待ができます。
新国家建設に在日の人々が活躍できればと思います。
新聞は不信不安混乱が飯の種で、共産主義と同じでないかと思います。
それで、憶測や期待の誘導記事を書くので、世論は正しい判断が出来ない。
世論を操作しながら、主導権をにぎり、いのままに政権を動かしたい。
わたしは、このように見てしまいますね。
いろいろと検討したり、実験したりしているようですが、当面は紙で稼ぐしかないというのが実態のようです。まあ、ずっと以前から斜陽産業と言われ続けてきたわりには、よくもっている方かもしれません…。
私は、おそらくこのブログのコメント欄でマスコミ不信の言葉を4桁は読んでいるので、多少は分かっているつもりですが、あるいはそれでもまだ分かっていないのかもしれません。
記者の仕事の基本は、「人の話を聞くこと」だと思います。誰から、いかに何を聞くかがすべてと言っていいとも。優れた記者というのは、他の誰よりも物事を聞き出す能力のある人(もちろん、聞いたことを理解しなければ意味がありませんが)だと考えます。ですので、「口こみ」が原点であるという点には何の異存もありません。
うーん、何と答えていいのか…。まあ、事実と称されるものも角度によって違う色彩を持つのですが、その核の部分は信じてもらうしか…。