2006年07月

 きょうは、近く産経新聞が組む予定の特集記事の取材で靖国神社を訪れ、いまや中国や韓国、国内の左派勢力の攻撃の標的となった感のある博物館「遊就館」を見てきました。旧館時代には何度か見学したことはあったのですが、新たしくなってからは初めてです。

 

 さて、結論から言えば、一部サヨクの人や、日本語が読めるのがどうか怪しい外国人が「戦争を美化している」などと批判するような、特殊な歴史観などは見当たりませんでした。零戦や九七式戦車などが展示してあることを持って軍国主義とこじつけるのでもない限り、よく整理された普通の博物館だと思います。一緒に行った同僚も同様の感想を述べていました。

 

 まあ、米国人が嫌がるだろうなというものを強いて挙げれば、「ルーズベルトの大戦略」という解説文ぐらいでしょうか。これには「(景気回復に苦慮していた)ルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、それらよってアメリカ経済は完全に復興した」とあり、米国から見れば認めがたいだろうな、とは思いました。

 

 とはいえ、他の記述はおおむね淡々としたもので、別に米国を一貫して悪と描いているわけでもなく、そんなに特別な表現も過激な歴史観も見つけられませんだした。南京の大虐殺記念館の1000倍はおとなしい展示内容ではないでしょうか。

 

 興味深かったのは、昭和15年当時の日本が、重要物質を輸入に依存していたことが円グラフで示されていた部分です。例えば、鉄類はアメリカ66.9パーセント、中国15.6パーセント、インド7.5パーセント。石油はアメリカ76.7パーセント、蘭領東インド24.9パーセント‥など。

 

 確か小学生のころの夏休みの平和授業で、こういうグラフをもとに日米間の国力の差を示され、「資源もなく、国力も20分の1なのに無謀な戦争をした日本はバカなのだ」と刷り込まれたことを思い出しました。私は、「じゃあ、なんで無謀な戦争をしたのか」と子供ながらに思い、のちに「仕方なかった」との結論に達したのですから、日教組教育も必ずしも成功例ばかりではありませんね。

 

 それはともかく、「靖国の神々」と題されたコーナーでは完全に引き込まれました。英霊たちの遺影と遺書などが展示されているのですが、昭和23年9月にジャワ島で法務死(BC級戦犯として処刑死)した佐藤源治陸軍曹長の詩「僕は唱歌が下手でした」には、切なくて涙が止まりませんでした。

 

 一、僕は唱歌が下手でした

    通信簿の乙一つ

    いまいましさに 人知れず

    お稽古すると 母さんが

    優しく教えてくれました

 二、きょうだいみんな 下手でした

    僕も弟も妹も

    唱歌の時間は泣きながら

    歌えば皆も先生も

    笑って「止め」と言いました

 三、故郷を出てから十二年

    冷たい風の 獄の窓

    虫の音聞いて 月を見て

    母さん恋しいと 歌ったら

    皆が泣いて 聞きました

 四、僕のこの歌 聞いたなら

    頬すり寄せて 抱き寄せて

    「上手になった良い子だ」と

    ほめて下さることでしょう

 

 これのどこが軍国主義や戦争賛美だというのでしょう?いま、政治の世界では、靖国神社を無宗教化するなんて話が堂々とまかり通っていますが、靖国が神社でなくなったら、このような英霊は神ではなくなり、御霊はいなくなってしまいます。私は別に信心深い者ではありませんが、そんなことはとても許せない気持ちです。

 

 神道的なカミの観念、多神教の宗教観は、縄文時代から脈々と受け継がれてきた日本の文化遺産ではないかと思います。中国に言われたから変えましょうというものではないはずです。

 

 フィリピン沖で神風特攻隊員として戦死した植村真久海軍大尉が、おそらくまだ乳飲み子であろう愛娘にのこした遺書にはこうあります。この人は亡くなったときはまだ25歳でした。

 

 「お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に強く念ずれば必ずお父様のお顔が、お前の心の中に浮かびますよ」

 

 靖国で会おうと約束して散っていった英霊との約束を、いま生きているわれわれの勝手の都合、しかも、たかが中国にがたがた言われた程度のいい加減な理由で反故にしていいわけがない。遊就館に行き、そういう思いを改めて強くしました。

 きょうのサンデープロジェクトには日本遺族会会長を務める自民党の古賀誠元幹事長が出演し、靖国神社にあり方について、盛んに「戦争で亡くなった人とそれ以外の人は分けて考えるべきだ」という趣旨のことを話していました。要は、戦場で戦死したのではなく、刑場で処刑されたいわゆるA級戦犯については、靖国で祀るべきでないと言いたいようです。

 

 古賀氏も、昭和天皇発言に関する「富田メモ」について、民主党の小沢一郎代表と同様に「大御心」などと大仰な物言いをしていました。ふだん、どれだけ皇室のために働いているというのか、利用できるときには何でも利用してやろうという姿勢には感心するやら呆れるやら。古賀氏も小沢氏もまた、赤紙一つで徴兵されて戦死した人と、戦場に送り出した人とは違うというレトリックを使います。

 

 古賀氏は一方で、戦死者の遺骨も遺品も手元に帰ってこなかったたくさんの遺族にとって、追悼の中心施設は靖国しかない、と言います。それはその通りで、あらたな無宗教の施設など建てたところで、そんなところでだれが亡くなった肉親を思い浮かべることができるでしょうか。

 

 ただ、古賀氏らの意見には、決定的に抜け落ちている視点があります。それは、戦場ではなく刑場の露と消えたのは何もA級戦犯だけではなく、約1000人ものBC級戦犯がいるということです。そして、当然ながらBC級戦犯の英霊も靖国に祀られているということへの言及がない。

 

 古賀氏や小沢氏は、まさかBC級戦犯もなんとか外せというのでしょうか。そんなつもりはないでしょうが、彼らの言い分をそのまま受け取るとそうなってしまいます。靖国には、国の命令でその場を離れることができずに亡くなった疎開船の児童やひめゆり部隊の女学生らも祀られているわけで、根本的に祭祀を見直せという気なのか。

 

 BC級戦犯の裁判は横浜、マニラ、上海、シンガポール、香港、バタビア、北京、南京、サイゴン‥と世界各地で行われました。以前のエントリでも多少触れましたが、裁判は実にいいかげんで冤罪などおかまいなし、さらには日本人捕虜の虐待も凄まじかったようです。

 

 最近出た米田建三帝京平成大教授の著書「日本の反論 戦勝国の犯罪を検証する」によると、BC級戦犯にかかわる外交文書(弁護人報告)には、次のように記されているそうです。

 

 「シンガポールでは、死刑囚への虐待が横行。連日連夜の暴行の結果、顔面が変形したまま絞首台に上る者があった」

 「オランダ軍管轄収容所では、日本人が撲殺され、収容所長が『豚撃ちに行ってきた』とうそぶいた」

 「法廷での審理は一方的で、半日で5人が裁かれ、そのうち3人に死刑求刑」

 「同姓の人違いにもかかわらず、被告は死刑の判決を受けた」

 

 戦犯遺族は戦後、主要な働き手を失っただけでなく、国内でも戦勝国に迎合する空気の中で「何か悪いことをしたんだろう」と白眼視されるなどの苦難を味わったといいます。

 

 また、当然ながら遺骨や遺品などまともに返ってきはしません。私が11年前に取材したある人の兄は、マレーシア・ペナンで刑死した後、遺体は近くのゴミ焼却所で焼いて捨てられたそうです。この人の場合、昭和53年に現地を訪ねたところ、現地の寺院で兄の名前が書かれた板がマレーシア人の手によって祀られており、多少、救われた気持ちもしたといいますが‥。

 

 BC級戦犯とされて刑死した方々は、戦場で死んだわけではなくてもまぎれもなく戦死だと思います。また、東京裁判が勝者の復讐劇にすぎなかったことは、今ではもう常識でしょう。人選と量刑については、東京裁判の検事や判事からも不服や疑問の声が出ていますね。

 

 古賀氏や小沢氏の本意は、召集された側と、戦場に送り出した側とを分けて考えるべきだということのほうにあるのかもしれません。しかし、少なくとも「戦って死んだ人とそうでない人」という単純な言い方では、BC級戦犯の英霊の存在を、十分、配慮しているとは思えません。

 

 また、戦争責任者という存在が仮にいるとして、それはイコールA級戦犯とはいえないでしょう。私は、戦争責任や戦争犯罪をいうのであれば、それは戦勝国側にも問うべきで、本当は安易に口に出すべき言葉ではないと思います。しかし、仮に戦争責任をいうにしても、A級戦犯は立場も思想もバラバラで、一律に問えるものではないはずです。

 

 あるいはこれは、戦争を煽りまくった某新聞などが真っ先に問われるべき問題かもしれませんね 。当時の文壇や国民世論がどうだったか、つまり民意の所在も検証する必要があります。

 

 戦後60年以上もたち、靖国神社がA級戦犯を合祀してからも30年近くたち今になって、この種の議論が蒸し返されるのは、どう取り繕っても「中国様のご意向だから」という以外に理由は考えられません。

 

 以前のエントリと重複しますが、その中国はたとえ何らかの方法で(そんな方法があるとは思いませんが)A級戦犯が靖国からいなくなったら、必ず次はBC級戦犯を問題にしてきます。死者を永遠に許さず、神道を「邪教」と位置づける彼らにとってそれは当然のことでしょう。

 

 こうまで当たり前で明瞭なことをどうして見ようとしないのか、見えないのか。いま、A級戦犯分祀を言い募り、幻想の日中友好を唱え続ける政治家たちは、古賀氏、小沢氏、山崎拓氏‥とだいたい60歳台なので、世代特有の病理かとすら考えてしまいます(GHQの刷り込みが最も効果があったころかな、とか)。この例に当てはまらない方にはすいません、と謝るしかありませんが。

 本日は休みをいただいています。ですが、なかなか心も平穏とはいきません。今日は朝からこれまでに、例の昭和天皇の発言に関する「富田メモ」について、4人から電話がありました。

 

 内訳は、大学の先生3人と評論家1人で、メモの信憑性についての情報提供や、産経はきちんと検証しないのかとのお尋ね、ご意見の表明などそれぞれでした。私なんぞに、これだけあれこれ問い合わせがくることからも、メモがいかに大きな波紋を呼んでいるかがうかがえます。

 

 読者からも、写真を見る限りメモ帳の左右の字が異なるのではないかとか、さまざまなご指摘をいただいています。このイザの中でも、メモの中身は徳川侍従長の言葉ではないかという疑問をはじめ、興味深い示唆はたくさんありました。

 

 ただ、われわれは現物を持っておらず、実際に現物にあたって調べることができないので、真実の周囲をぐるぐる回ってたどり着けないような焦燥感があります。

 

 この断片的で前後も分からないメモを錦の御旗に、「大御心だ」なんて調子に乗っている政治家もいます。また、中国共産党の機関紙「人民日報」は「日本社会に大型爆弾を投じた」「靖国神社は精神的アヘン」「深く反省したいならいまである」と(予想通り)書いてきました。

 

 おまけにきょうは、持病の喘息のためか何なのか、一日のどが半分ふさがったように呼吸が少し苦しいのです。気分と体調がリンクしているかのようです。

 

 ふぅ。なかなか気分が晴れないので、これからビールでも飲もうかと思います。飲みすぎちゃうかな…

 今朝、通勤電車で「SAPIO」の「ゴー宣・暫」を読んだところ、小林氏はこのブログでも取り上げた朝日新聞の12日付朝刊掲載のインドのパール判事に関する記事を批判していました。朝日が「パール判決は日本無罪論ではない」と強弁したことへの反論で、私も全く同感です。

 

 弊紙も、主に米国に対するスタンスの違いなどから、小林氏によく「親米ポチ」と批判されます。私はけっこう昔から小林氏と多少、縁があり、氏の作品の愛読者でもあるので残念なところです。

 

 個人的には、中学3年生のときに「小林氏のアシスタントにならないか」という誘いもありました。私の福岡の実家のすぐ近所に小林氏のおばさんの家があり、私の母と親しかったからです。当時、たいして勉強ができなかった私が絵が好きだったことから持ち上がった話ですが、これは立ち消えになりました。でも、その際に小林氏から「阿比留君へ」と書かれた「東大一直線」の色紙をもらったのはうれしい記憶です(後に小林氏と話した際には、覚えてくれてはいませんでしたが)。

 

 また、私とは関係ありませんが、小林氏の「いろはに豊作」(だったっけ?)という作品には、いじめっ子の阿比留君というキャラが登場していて、余計に親近感を抱いたものです。氏の作品はだいたい読んでいると思います。

 

 「ゴーマニズム宣言」がまだ「SPA」に連載されていた初期のころ(14年ぐらい前か)には、文化面で記事にしたこともあります。一般紙で初めて「ゴー宣」を取り上げたのは私ではないかというのが、当時のひそかな自慢でありました。後に書評で「ゴー宣」について書いた際には、「ゴー宣」の欄外に私の名前を載せてくれたこともありました。

 

 そんなわけで、今の状況はとても残念なのです。確かに、弊紙の親米ぶりが突出しているとのご指摘は、他の人からも受けたことがあります。否定できません。社員がみんなそうというわけでは全然ないのですが、社論としてそういう傾向があるのも事実でしょう。

 

 私自身はというと、特定アジアの存在がある限り、親米というよりも米国を利用するしかないという考えです。以前、防衛庁を担当して、日本の安全保障がいかに米国に依存しきっているかを痛感し、当面は米国にくっついているしかないという思いを強くしたこともあります(特に海上自衛隊はほぼ米国と一体化していますし)。

 

 私は、小林氏の言うことが分からないわけでも、間違っていると思うわけでもありません。ただ、現実にどう対応するかに関する考え方はきっと違うのでしょうね。

 

 現在は首相候補と言われるある政治家が、数年前に私にこう言ったことがあります(この人も小林氏と会ったことがあります)。

 

 「小林よしのり氏は思想家だよね。思想家ならばこれでいいけど、われわれ政治家は現実と直接、向き合わないといけないから」

 

 小林氏からすれば、この意見にも反論があることと思いますが、私は小林氏の言動や作品(ビッグコミックに連載中の「遅咲きじじい」も読んでいます)を見ながら、ときに思想と政治について考えたりもしています。

 このところ、テレビでニュースを見たり、新聞各紙をチェックしたりするのがちょっと苦痛です。特に、いわゆるA級戦犯の分祀論は目にするたびにいや~な気持ちになります。神社がそれは不可能だと言っているのに、よってたかって「やればできるはずだ」と無理強いしようとする姿は、はたからはいじめにしか見えません。政局に利用しているだけだとしても、不見識極まります。

 

 靖国側はこの問題について、すでにきちんと説明しているのに、ナントカの一つ覚えのように同じことが繰り返されています。そこで、あまり新聞各紙で取り上げられていないようなので、平成16年3月3日に靖国神社社務所が公表した見解を、この場を借りて紹介したいと思います。

 

 《分祀案に賛成か反対かということ以前のこととして、神道の信仰上このような分祀がありうるのかということが一番大切なことです。結論から申し上げますと、このような分祀はありえません》

  《本来教義・経典を持たない神道では、信仰上の神霊観念として諸説ありますが、昔より、御分霊をいただいて別の神社にお祀りすることはあります。しかし、たとえ分霊されても、元の神霊も分霊した神霊も夫々全神格を有しています》

 《靖国神社は、246万6000余柱の神霊をお祀り申し上げておりますが、その中から一つの神霊を分霊したとしても元の神霊は存在しています。このような神霊観念は、日本人の伝統信仰に基づくものであって、仏式においても本家・分家の仏壇に祀る位牌と遺骨の納められている墓での供養があることでもご理解願えると存じます》

 《神道における合祀祭はもっとも重儀な神事であり、一旦お祀り申し上げた個々の神霊の全神格をお遷しすることはありえません》

 《靖国神社の信仰は今後も変わることはありません。所謂A級戦犯の方々の神霊の合祀は、昭和28年5月の第16回国会決議により、すべての戦犯の方々が赦免されたことに基づきなされたものです。過去の歴史認識に対しては、夫々のお気持ちがあると思いますが、靖国神社は国家のために尊い生命を捧げられた神霊をひたすらお慰めし、顕彰する神社であります》

 《もし仮にすべてのご遺族が分祀に賛成されるようなことがあるとしても、それによって靖国神社が分祀することはありえません》

 

 また、国会でも同年3月の衆院憲法調査会基本的人権小委員会で、参考人の野坂泰司・学習院大法学部長(当時)は、次のように明確に指摘しています。

 

 「分祀しても御霊は靖国神社に残るので神道的に意味がない。神社の拒否にもかかわらず、政治的効果から分祀を強要するのは(憲法の)政教分離原則に違反し、避けなければならない」

 

 こうまではっきりしていることを今さら言い募る人たちは、果たして宗教や憲法についてどう考えているのでしょうか。自民党幹部の口からもよく「神道は本来、もっと融通がきくものだ」といった言葉が飛び出しますが、A級戦犯以外にも246万柱余の英霊が祀られている靖国神社を、そんなに軽く扱っていいものなのか。

 

 善意に解釈すれば、すべては、なんとか靖国問題を解決しなければならない、何とかしたいという「思い込み」から発した倒錯ではないでしょうか。でも、首相の靖国参拝を批判する中国は、たとえA級戦犯が祀られていなくたって、BC級戦犯を理由に靖国を攻撃するのは間違いないと以前に書きました。

 

 中国では、神道はオウム真理教や法輪功と並んで「邪教」と位置づけられているそうですから、これはもう日本側が何か譲ったら解決するような問題ではありません。法輪功に対する徹底弾圧を見れば明らかでしょう。また、死者に鞭打つ中国と、死ねば仏様、神様になる日本の死生観の間の溝を埋めようったって、それは無理でしょう。

 

 さらにいえば、靖国神社そのものがなくなったって、中国は南京事件やら何やら歴史カードを持ち出すことを決してやめないはずです。中国共産党は現在、日本と戦った(これも本当はほとんど戦闘していませんが)という歴史でしか政権の正統性を示せないからです。

 

 結論を言えば、靖国問題を「解決」しようなんて一切せず、放っておけばいいのだと思います。「ああ、あなたの国とは考え方が違いますね。でも私たちの伝統、文化はこうなんです」でいいはずです。それだけのことだと思います。

 

 近隣国で最大の貿易相手なんですから、摩擦なんてあって当たり前。無理に解決しようなんて右往左往するから、足元を見られてしまうんでしょうに…。

↑このページのトップヘ