2007年12月


 いろいろあった平成19年ももう残すところ1日とちょっとになりました。私は本を読んだり、子供と散歩したりでのんびりと過ごしています。それで今日、散歩途中に立ち寄った小さな書店で、学生時代からいずれ読もうと思いつつ、20年以上もほうっておいた勝海舟の「氷川清話」(講談社学術文庫)を見つけたので、これも何かの縁かと思い買い求めました。言わずもがなですが、勝海舟といえば、幕末の戊辰戦争の際、江戸幕府側を代表して新政府軍の西郷隆盛と交渉し、江戸の無血開城を実現した人ですね。で、早速読み始めたのですが…。

 

いや、評判(いつの評判だ?)通り、実に面白いです。明治期の世相を縦横無尽に、かつ飄々とべらんめえ口調でぶった切っているのですが、何だか現代日本にも当てはまりそうなことが多いのに驚きます。まあ、中世イタリア・フィレンツェの思想家、マキャベリの警句が現代日本の有様に見事に符合するぐらいだから、100年ちょっと前まで生きていた勝海舟の言葉にいまさら驚く方がおかしいのかもしれませんが。人間(日本人)って良くも悪くも変わらないものなのかもしれません。

 

 というわけで、勝海舟の「放談」をいくつか拾って紹介し、今年のブログの締めくくりにしようかと思います。私の現在の気持ちを代弁してくれたようなものもあり、来年は、この点について気をつけようという戒めになっている言葉もあります。何にしろ、先人の話はためになるなあ。

 

《政治家の秘訣は、ほかにないのだよ。ただ正心誠意の四字しかないよ。道に依つて起ち、道に依つて坐すれば、草莽の野民でも、これに服従しないものはない筈だよ》(明治295月の新聞談話)…そうであるべきだと思います。問題は、政治家の正心誠意をメディアがきちんと伝えるかどうかという点にもありそうですが。

 

《天災とは言ひながら、東北の津波は酷いではないか。政府の役人は、どんなことをして手宛をして居るか、法律でござい、規則でございと、平生やかましく言ひ立て居る癖に、この様な時には口で言ふ程に、何事もできないのを、おれは実に歯痒く思ふよ》(明治29年に東北で津波が起こった際の談話)…何となく、薬害肝炎訴訟の件を連想しました。

 

《人はよく方針々々といふが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下の事は、あらかじめ測り知ることの出来ないものだ。網を張って鳥を待って居ても、鳥がその上を飛んだらどうするのか。我に四角な箱を造っておいて、天下の物を悉くこれに入れうとしても、天下には円いものもあり、三角のものもある。(中略)マー世間の方針々々といふ先生たちを見なさい。事が一たび予定の方針通りに行かないと、周章狼狽して、そのざまは見られたものではないヨ》(明治26年の談話)…あまり原理主義的になるのはよくありませんね。国連中心主義でも何でも。だれのこととは言いませんが。

 

《主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ》…以前から何度も書いてきたことですが、その人の例外をもって本質とみなす愚を犯したり、小異にこだわって大同を捨てるようなことは慎みたいなあと思います。

 

《行政改革といふことは、よく気を付けないと弱い物いぢめになるヨ。おれの知っている小役人の中にも、これまでずいぶんひどい目に遭ったものもある。全体、改革といふことは、公平でなければいけない。そして大きい者から始めて、小さいものを後にするがよいヨ》(明治26年の談話)…まずは国家公務員から始めて地方公務員へと広げようとした安倍内閣の公務員制度改革・行政改革ですが、首相交代によって入り口段階で半ば頓挫してしまいましたね。

 

 《地方自治などといふことは、珍しい名目のやうだけれど、徳川の地方政治は、実に自治の実を挙げたものだヨ。名主といひ、五人組といひ、自身番といひ、火の番といひ、みんな自治制度ではないかノー》(明治26)…うーん。まあ、確かに。300諸侯も自治行政を敷いていたわけだし。

 

 《近頃世間の模様はどうだ。政府も政党も同じ事を繰返して居るではないか。ぐづぐづしないでしっかりやればよい。大西郷でさへ、空望ではやつて来なかったヨ。やれるといふ見込みが立つて居たからだ。それを今の人が、見込みもない癖に、大西郷のやうな考へを持つて居るから困る。よくよく自分の力を考へてからやるがよい》(明治3011)…あまり大言壮語することも、他人に課題な要求を押し付けることも、いい結果を招かないのでしょうね。「空望」では出発点からだめだと。

 

 《おれはいつもつらつら思ふのだ。およそ世の中に歴史といふものほどむつかしいことはない。元来人間の智慧は未来の事まで見透すことが出来ないから、過去のことを書いた歴史といふものにかんがみて将来をも推測せうしいふのだが、しかるところこの肝腎の歴史が容易に信用せられないとは、実に困った次第ではないか。見なさい、幕府が倒れてから僅かに三十年しか経たないのに、この幕末の歴史すら完全に伝へるものが一人もいないではないか。それは当時の有様を目撃した故老もまだ生きて居るだろう。しかしながら、さういふ先生は、たいてい当時にあつてでさへ、局面の内外表裏が理解なかつた連中だ。それがどうして三十年の後からその頃の事情を書き伝へることが出来ようか》…歴史問題を取材したり、記事に書いたり、またその反応を見たりするたびに、これと似たようなことを感じます。確かに本当に難しい。

 

 《全体、政治の善悪は、みんな人に在るので、決して法にあるのではない。それから人物が出なければ、世の中は到底治まらない。しかし人物は、勝手に拵へうといつても、それはいけない。世間では、よく人材育成などといつて居るが、神武天皇以来、果たして誰が英雄を拵へ上げたか。誰が豪傑を作り出したか。人材といふものが、さう勝手に製造せられるものなら造作はないが、世の中の事は、さうはいかない。人物になると、ならないのとは、畢竟自己の修養いかんにあるのだ》…その通りだというしかありません。

 

 《近頃世間で時々西郷が居たらとか、大久保が居たらとかいふものがあるが、あれは畢竟自分の責任を免れるための口実だ。西郷でも大久保でも、たとへ生きて居るとしても、今では老耄だ。人を当てにしては駄目だから、自分で西郷や大久保の代りをやればよいではないか。しかし今日困るのは、差当り世間を承知さするだけの勲功と経歴とを持つて居る人才が居ないことだ。けれども人才だつてさう誂へ向きのものばかりはどこにもいないサ。太公望は国会議員でも、演説家でも、著述家でも、新聞記者でもなく、ただ朝から晩まで釣ばかりして居た男だ。人才など騒がなくつても、眼玉一つでどこにでも居るサ》…私もついこのブログで政界をはじめとする人材不足を言い募ったことがありますが、こう言われてみると、「人才」を探す眼力のなさを恥じずにはいられません。しかし、この太公望のエピソードでつい「釣りバカ日誌」を思い浮かべてしまった私には、もとより眼力など望むべくもないのかとも…。

 

 《世の気運が一転するには自から時機がある。(中略)気運といふものは、実に恐るべきものだ。西郷でも、木戸でも、大久保でも、個人としては、別に驚くほどの人物でもなかつたけれど、彼らは、王政維新といふ気運に乗じてきたから、おれもたうとう閉口したのヨ。しかし気運の潮勢が、次第に静まるにつれて、人物の価も通常に復し、非常にえらくみえた人も、案外小さくなるものサ》…時の勢いに乗った人は輝いて見えますが、それと個人の能力・識見とは必ずしも一致しないのでしょうね。長年、政界を取材してきた知人の元週刊誌記者は「大物など一人もいなかった」と言っていましたが。

 

 《世の中に無神経ほど強いものはない。(中略)無闇に神経を使つて、矢鱈に世間の事を苦に病み、朝から晩まで頼みもしないことに奔走して、それがために頭が禿げ鬚が白くなつて、まだ年も取らないのに耄碌してしまふといふやうな憂国家とかいふものには、おれなどとてもなれない》…一人で勝手に憂国者ぶって空回りしても仕方がないと。この無神経という言葉を肯定的にとらえた評価は、最近流行った「鈍感力」にも通じる気がします。

 

 《仕事をあせるものに、仕事の出来るものではない。セツセツと働きさへすれば、儲かるといふのは、日傭取りのことだ。天下の仕事が、そんな了見で出来るものかい》…別に天下の仕事をしているわけではありませんが、焦らず淡々と、着実に仕事をこなしていきたいと思います。焦ったってどうせたいしたことができるわけでもないし。

 

 現在、私が滞在している東北某県はしんしんと冷えてきました。寒い年末年始となりそうですが、みなさま身体に気をつけて、ご自愛ください。

  ※追記 ゆく年を惜しんで、大晦日に最後の日の光を写真に撮りました。夕焼けちょっと前のものです。日は沈み、そしてまた昇ると。

     


 今年は本当にいろいろありました。いや、毎年いろいろあるのでしょうが、私にとっては今年はあまりにもたくさんの出来事がありすぎて、良くも悪くも忘れられない年になりそうです。このブログを通じても、訪問者のみなさんとさまざまなやりとりがあり、世の中のこと、自分自身のことといっぱい考えさせられました。

 そこで本日は、今年コメント数が多かったエントリを発表したいと思います(アクセス数の順位は分からないので)。今年書いたエントリのうち、私の返事を含めて100を超えるコメントがあったものが73、200を超えたものが13ありました。意見、感想、共感、批判を寄せてくださったみなさんに感謝します。それではベストテンに寸評を添えて改めて紹介したいと思います。

 ①「自民党総裁選へ立候補するという福田氏に関する過去エントリ」(9/13、364コメント)…福田首相がこれまでどういう言動をとってきた人物であるか、いかにいいかげんで軽い、首相にふさわしくない資質の持ち主かを記したものです。福田内閣は発足当初こそわけのわからない高支持率を得ていましたが、今では福田氏自身の無責任なテキトー答弁もあって支持率は下落しています。こうなることが予想できず、こんな人を担いだ自民党の愚かさ加減にもあきれ果てます。

 ②「故・松岡農水相による政治とカネ追及と関連写真」(9/10、296コメント)…ナントカ還元水問題で徹底的に追及された松岡氏が、過去には国会で民主党の小沢代表の政治とカネ問題を追及していたことを書いたものです。自由党と民主党が合併する際に、なぜか民主党から約3億円が自由党側に寄付され、政党交付金も含めてそうしたカネがなぜか小沢氏の関連政治団体にプールされているという不思議・不可解な問題についてです。

 ③「小沢不動産問題・ニュースはつくられる!?」(10/9、228コメント)…毎日新聞が突如、小沢氏の資金管理団体が所有不動産を貸して家賃収入を得ているという周知の事実を、1面トップで新たに判明したかのように書いてきたことに触発されて投稿したものです。しかし、今年の小学館のナントカという賞を「政治とカネの問題、年金問題を追及した」という理由で受賞したのが小沢氏でしたから脱力しました。この人は追及したのではなくて、されたというのが実態でしょうに、世間は何を見ているのかと。

 ④「田中真紀子元外相は、どうしてこうも下品なのか」(7/29、226コメント)…参院選当日のエントリだったので注目されたのでしょうか。それとも、田中氏の人品骨柄について、もう少しなんとかならないかと考えている人が、それだけたくさんいるということでしょうか。しかし、未だにこの人に一定の人気があるのも事実で、なんともはや、言うべき言葉が見つかりません。

 ⑤「沖縄集団自決と教科書検定に関する政治家発言集」(10/2、223コメント)…このときは町村官房長官の発言が秀逸だと思ったのですが、結局、政府は「空気」に流されましたね。本当は違うと思っている人も、正体不明のうさんくさい「空気」には逆らえないという嫌な時代になりました。小沢氏が問題の所在をよく分かっていないか、あるいは逃げようとしているかのどちらかであることが伝わると思います。

 ⑥「安倍前首相は慰安婦問題で米大統領に謝罪などしていない」(9/19、220コメント)…日米共同記者会見でのブッシュ大統領発言をきっかけに流布された誤解を解きたいと、オフレコ取材の内容をばらしてしまいました。それ自体はよくないことなのですが、後に情報源は気にしていないことが分かり、ほっとしました。もっと早く書けとのお叱りも受けました。

 ⑦「政治への『転職』が試されているのかも」(7/21、219コメント)…参院選での自民党の大敗が予想される中で書いたものです。あのころは、メディアでは常軌を逸したような安倍政権批判が続いていました。あれだけ政治とカネで安倍氏をたたいたメディアは、福田首相になって同じような、あるいはもっとひどい話が出てきても大人しいものですね。

 ⑧「転載・伊藤所長論説『安倍首相の困難な「戦い」』」(9/27、214コメント)…ありていに言えば、日本政策研究センターの伊藤所長の論文を転載しただけなのですが、大きな反響がありました。「一騎駆け」という言葉に泣けてきました。伊藤氏の言う「困難さ」を理解しない人がいかに多かったことか。

 ⑨「政治資金収支報告書をみて考えたこと、分からないこと」(9/16、214コメント)…小沢氏の政治資金が、関連政治団体間で寄付したりされたり複雑にやりとりされていることについて記したものです。何のために、これだけたくさんの政治団体を別に持ち、その団体同士でカネを移動させるのか不思議ですね。

 ⑩「『マスコミの誤報を正す会』の記者会見に行ってきました」(11/8、208コメント)…このエントリにこれだけ反応があったこと自体、いかに現在のマスコミのあり方に批判が集まっているかを示していると感じました。そりゃそうだと思います。ちなみに、今朝の産経はこの会がひさしぶりに開いた記者会見の記事を掲載しています。

 ベストテンには漏れたものの200コメントを超えたエントリは他に「久間氏どころではない本島・元長崎市長の原爆発言」(7/4、207コメント)、「某与党の参院選広報戦術と産経の立場」(8/2、206コメント)、「安倍前首相は若いがゆえに信頼されなかったのか」(11/2、205コメント)の三つがありました。そう言えば、某与党モノは最近書いていないなあ。まあ、民主党が肥大した分、某与党に目を向ける余裕がなくなっていたのかもしれません。外国人参政権や人権擁護法案の問題で変な動きをしそうですから、また取り上げたいと思います。

 振り返ってみると、この一年間、常に訪問者のみなさんのコメントとともにいろいろなことを考え、喜び、怒り、落胆し、希望を持ってきたように思います。改めて、ありがたいことだと実感しています。今後もよろしくお願いします。


 今朝、いつものように産経抄を読んでいて、少し驚きました。というのは、内容が昨日の私のエントリと同じく、沖縄戦の集団自決をめぐる「再検定」結果について、産経を除く各紙が軍関与の復活と報じたことへの疑問が記されていたからです。まあ、冷静になってみれば別に驚くようなことでもありませんが、産経抄は「今さら改まっていうことでもないが、小紙は少数派に属しているらしい」「小紙以外の見出しは、今年3月の検定に合格した教科書には、軍の関与の記述がなかったことを示している。小覧ですでに何度も書いてきたように、それは事実と違う」とも書いていました。まったくね、その通りなのだと思います。

 で、そのマイナーな新聞である産経は、「再検定」を受けて昨日開催された自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の会合について、今朝の朝刊5面で「教科書審議結果を批判」という見出しで報じています。記事は、「自決への軍の強制性を示す記述を認めた教科書検定審議会の審議結果を『政治介入で教科書検定のあり方がゆがんだ』と批判した」と書いています。ふむふむ、まあそうだろうな。

 ところが、同じ会合について毎日新聞記事の見出しは「旧日本軍関与の認定に批判続出 歴史教育議員の会」、朝日新聞の見出しは「集団自決、軍関与 自民有志議員が反発」でした。…完全にアサヒっています。私はこれまで、アサヒるという言葉はブログでは遣わないようにしていましたが、もう我慢できません。これでは、歴史教育議連のメンバーたちは集団自決に一切、軍の関与がなかったと言っている人たち、関与がなかったことにしたい人たち、というようにしか読めません。これをアサヒると言わずして何と言おうか。

 私も昨日の記事とエントリで指摘しましたし、今朝の産経抄もそう書いているように、3月の検定は軍関与自体は何も否定していないし、検定後の記述にも関与は残っているのです。ただ、マスコミが「関与が削除された」と不正確かつおおげさに騒ぎ立てただけだというのに、朝日も毎日もその過去記事との整合性にこだわり、事実からは目をそらしているようです。そして、読者には何も分かるまい、そらこれを信じなさいとやっているわけです。

 私は昨日は別件で忙しく、この教科書議連の会合には行けなかったので、取材した記者に「軍関与の記述に対する批判はあったのか。関与が復活したうんぬんという言いぶりはあったのか」と確かめましたが、「そんな議論はなかった」とのことでした。ちなみに、今朝の産経紙面からはスペースの都合で削られましたが、会合では、有村治子参院議員が「3月の教科書検定以降、新たな史実の発見がないのに、教科書記述を書き換えるのは、政治介入でしかない」と述べ、萩生田光一衆院議員は会合後、記者団に「検定審の委員に変化がないのに、教科書の中身が変わるのは異常なことだ」と強調していたそうです。

 実は今回の集団自決記述問題をめぐり、萩生田氏らは会合に文部科学省の担当者らを招いた際も、糾弾したり、厳しく詰め寄ったりするようなことは避けてきたといいます。その理由は、「検定への政治介入は排せと言っている我々がプレッシャーを与えては、それこそ政治介入になりかねない」ということを危惧したからだと聞いています。また、文科省側も萩生田氏らに対し、「検定審は、『3月以降、新たな史実が何も見つかっていないのに検定意見を変えるわけにはいかない』と言っている。教科書の再申請を認めたのは、いわばガス抜きだ」などと説明していたそうです。

 文科省と長年にわたってやりとりしてきたベテラン議員らは「文科省は信用できない。われわれもそうだったが、また騙されるかもしれない」との懸念を示していたのですが、萩生田氏は文科省の反応などから、今回は信じようと考え、事態の推移を見守っていたというのです。でも結局、またしてやられたということですね。私も文科官僚のこの議連での発言は何度も取材し、実際現場で見てきましたが、のらりくらりと言質を与えず、まさに面従腹背という印象を受けていました。そしていつも、左派勢力の言い分へとなびくのです。保守派よりもサヨクの方が怖いという実感をもっているのかもしれません。まあ、萩生田氏も、以前、「もし文科省に裏切られたら徹底的に追及する。国会でも取り上げる」と言っていましたが…。

 そしてしばし物思いにふけった後、ふといつもは読まない東京新聞の1面コラム「筆洗」が目にとまり、「ここにもアサヒってる新聞がある」とまたうんざりさせられました。コラムはこう偉そうに書いていました。

 「高校生諸君。沖縄の人たちに感謝しよう。もし、あの人たちがあれだけの怒りを表明してくれなかったら、君たちは沖縄戦の集団自決が『軍の関与』なしで起きたかのように書かれた日本史の教科書を読まされるところだったのだ」

 私は以前のエントリで、この新聞の論説委員さまの支離滅裂で牽強付会で感情的で自慢たらしいコラムの批判を書いたことがありますが、この高いところから見下ろすような、それでいて書いていることはいい加減極まるという論調は一体なんなのか。きょうは仕事納めの日なのですが、ああ、一年中何かに腹を立てていたような気がします。


 沖縄戦の集団自決をめぐる高校日本史教科書検定問題で、教科書検定審議会は昨日、教科書会社6社8冊の訂正申請結果を発表しました。検定審は結局、旧日本軍による「強制」の記述を一定程度認める判断を下しました。沖縄・宜野湾市で11万人を集めたという県民大会(実際の参加者は約2万人前後)や、沖縄の地元紙をはじめとするマスコミ各社の圧力に屈した形で、このこと自体、検定制度を歪めるひどい決定だと思いますが、それを報じる在京の新聞各社の報道にも強い違和感を覚えました。

 各社の主見出しを拾ってみると、以下のようでした。産経を除く全紙が、今回の訂正申請によって初めて軍関与が復活したかのように書いていますね。

 ・産経 〝再検定〟で軍強制復活
 ・東京 軍関与の記述復活
 ・朝日 「軍の関与」復活
 ・毎日 「日本軍関与」が復活
 ・読売 集団自決「軍の関与」記述
 ・日経 「軍の関与」認める

 でも、各紙のこの見出しの付け方は適当でしょうか。私には違うように思えます。と言うのは、今年3月の教科書検定でついた意見は「軍が(集団自決を)命令したかどうかは明らかといえない」というもので、軍関与の記述は検定後もそのまま残っていたからです。例えば、検定後の教科書記述は次のようでした。

 ・「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺し合いがおこった」(実教出版)
 ・「日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた」(山川出版)
 ・「『集団自決』においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」(東京書籍)
 ・「集団自決のほか、スパイ容疑や、作戦の妨げになるなどの理由で日本軍によって殺された人もいた」(第一学習社)
 ・「追いつめられて『集団自決』した人や、戦闘の邪魔になるとかスパイ容疑を理由に殺害された人も多く」(三省堂)

 繰り返しますが、これは3月の検定パス後の表記です。これが集団自決やその他の悲劇について、軍の関与を否定しているようには思えません。ちなみに、政府は10月2日の閣議で、「検定決定後の記述については、集団自決について旧日本軍の関与が一切なかったとする記述はない」とする答弁書を決定しています。検定は最初から、軍命令があったと断言できないとしているだけで、何らかの軍の関与があった可能性は全く否定していないのです。それなのに、ようやく軍関与が復活したかのように書くのはマスコミのミスリードではないでしょうか。

 この問題では、当初から政治家の発言もあいまいでトンチンカンでした。9月29日の沖縄県民大会の後、民主党の小沢代表は「集団自決は軍が全く関与していないことはありえない」、公明党の太田代表は「集団自決に日本軍の関与があったことは否定できない」とそれぞれ述べていました。問題の所在が全く分かっていないか、マスコミ報道に合わせているのか、その両方なのか。

 今朝の産経の「詳説・戦後 沖縄の言論」という特集記事にも書いたことですが、11月に甲南大や熊本大、佐賀大などの学生有志が沖縄で実施した対面式のアンケート調査(723人回答)では、興味深い結果が出ています。それによると、県民大会に「参加した」または「参加したかった」と答えた人にその理由を聞くと、最も多かった回答は「集団自決を伝えたい」の48.1%で、教科書検定によって集団自決の記述そのものが抹消されると勘違いしている人が多かったということです。

 これはマスコミが誘導した「誤解」ではないでしょうか。私は特集記事で、沖縄で90数%のシェアを誇る地元紙、沖縄タイムスと琉球新報の報道ぶりに疑問を示したのですが、在京紙も本日の見出しを見る限り、同じであったようです。また、主見出しのほかに、袖見出しをみると、「『強制』は否定」(日経)、「『強制』は認めず」(読売、毎日、東京)、「『軍が強制』の表現は回避」(朝日)…とありましたが、これもどうでしょうか。

 例えば、三省堂は承認された再申請で「最近では、集団自決について、日本軍によってひきおこされた『強制集団死』とする見方が出されている」と書いていますが、これは実質的に「強制説」を認めたものではないでしょうか。このほか、強制をにおわす表現では「日本軍は住民の投降を許さず」(第一学習社)、「日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいる」(三省堂)、「強制的な状況のもとで、住民は、集団自害と殺し合いに追い込まれた」(実教出版)などがあります。これは産経の見出しのように、検定審が実質的に強制説を受け入れたととる方が素直だと思います。

 住民の集団自決が起きた慶良間列島・渡嘉敷島で、赤松嘉次守備隊長の副官代理を務めていた知念朝睦氏(85)は私に、「読谷では、日本軍がいなくても集団自決は起きた。自決命令なんてとても出せるものではない。これは実際に戦争をした人にしか分からない。戦争の実態を知らない人がそういうことを言う」と語っていましたが…。

 多くのマスコミは、3月に「日本軍に強いられた」と書いた教科書に検定意見がついたときには、「軍関与が削除された」と書き立てた経緯があります。それと整合性をとるため、今回は「関与が復活」と書いているのかもしれませんが、こうして不正確なマスコミ論調が束になると事実なんて片隅に押しやってしまうのだろうなとも感じます。また、それに安易に迎合して機嫌をとろうとする政治家や、役所が多く存在し、ますますマスコミとマスコミを利用して自己の主張を広めたい勢力を増長させていくのでしょう。

 慰安婦問題が論争の的になっていたときには、「従軍慰安婦という言葉は戦後の作家による造語で、戦前・戦中にはなかった」との当然の事実を踏まえた指摘が、左派勢力やマスコミによって「従軍慰安婦(の存在自体)を否定する人たち」とすり替えられてレッテルを張られ、またそのレッテルを信じ込む「自分では良心的だと信じている人々」がたくさんいるのを目の当たりにしました。どうしもそれを連想してしまいます。なんだかなあ。


 今朝は、通勤電車内で、旧知のT弁護士とたまたま会ったので(利用路線の関係でたまに一緒になるのです)、「明日からの福田首相訪中はどうせニコニコして握手を交わしてくるだけだろう。ガス田問題も進展などするわけがない」などと雑談していたところ、そのままT氏の事務所にお邪魔することになりました。すると、T氏が「いいものを見せてあげる」と言い出し、案内してもらったのができたばかりの保守系シンクタンク、「国家基本問題研究所」の真新しい事務所でした。ジャーナリストの桜井よしこ氏と、田久保忠衛・杏林大客員教授らが中心となって呼びかけたものだそうです。

 T氏によると、このシンクタンクは18日に約40人が参加して事務所開きをしたばかりだとのこと。予定では、来年1月に米国による北朝鮮のテロ支援指定国家指定解除に反対する声明を出し、その後、記者会見やパーティーを開いて活動を本格化させるそうです。将来的には、米国にあるようなときの政権の政策・方針にも影響を与えるような大きなシンクタンクにしていきたいという話でした。現在のメンバーは以下の通りです(50音順、敬称略)。

 理事=石原慎太郎、伊藤隆、稲田朋美、遠藤浩一、小倉義人、城内実、斎藤禎、桜井よしこ、高池勝彦、田久保忠衛、塚本三郎、中條高徳、中西輝政、長島昭久、西修、平河祐弘、平沼赳夫、松原仁、屋山太郎、渡辺周
 評議員=荒木和博、井尻千男、上田愛彦、潮匡人、梅澤昇平、工藤美代子、佐藤守、すぎやまこういち、芹澤ゆう、立林昭彦、西岡力、春山満、平松茂雄、渕辺美紀
 企画委員=桜井よしこ、田久保忠衛、高池勝彦、潮匡人、遠藤浩一、大岩雄次郎、城内実、島田洋一、冨山泰、西岡力

 民主党の若手議員が3人メンバーに入っていて、平沼氏も参加しているのが目につきますね。これがどういう意味を持つのか。官僚はあえて入れなかったそうです。既得権益保護に走ることを警戒したということでしょうか。すでに支援者も集まりつつあるというこどした。桜井氏恐るべしです。「趣意書」にはこうあります。

 《私たちは現在の日本に言い知れぬ危機感を抱いております。緊張感と不安定の度を増す国際情勢とは裏腹に、戦後体制から脱却しようという志は揺らぎ、国民の関心はもっぱら当面の問題に偏っているように見受けられます。平成19年夏の参議院選挙では、憲法改正等、国の基本的な問題が置き去りにされ、その結果は国家としての重大な欠陥を露呈するものとなりました。
 日本国憲法に象徴される戦後体制はもはや国際社会の変化に対応できず、ようやく憲法改正問題が日程に上がってきました。しかし、敗戦の後遺症はあまりに深刻で、その克服には、今なお、時間がかかると思われます。「歴史認識」問題は近隣諸国だけでなく、同盟国の米国との間にも存在します。教育は、学力低下や徳育の喪失もさることながら、その根底となるべき国家意識の欠如こそ重大な問題であります。国防を担う自衛隊は「普通の民主主義国」の軍隊と程遠いのが現状です。
 「普通の民主主義国」としての条件を欠落させたまま我が国が現在に至っている原因は、政治家が見識を欠き、官僚機構が常に問題解決を先送りする陋習を変えず、その場凌ぎに終始してきたことにあります。加えて国民の意識にも問題があったものと考えられます。
 私たちは、連綿と続く日本文明を誇りとし、かつ、広い国際的視野に立って、日本の在り方を再考しようとするものです。同時に、国際情勢の大変化に対応するため、社会の各分野で機能不全に陥りつつある日本を再生していきたいと思います。そこで国家基本問題研究所(国基研・JINF)を設立いたしました。
 私たちは、あらゆる点で自由な純民間の研究所として、独立自尊の国家の構築に一役買いたいと念じております。私たちはまた、日本の真のあるべき姿を取り戻し、21世紀の国際社会に大きく貢献したいという気概をもつものであります。
 この趣旨に御賛同いただき、御理解をいただければ幸いに存じます。御協力を賜りますようお願い申し上げます。》

 ここに書かれている問題意識は、私も完全に共有します。日本がこのままで溶けていってしまう、しかし、現在の政治情勢、国会の構成では政治にもなかなか期待できないというときに、こうしたシンクタンクの活動が始まるのは有意義なことだと考えます。ある程度の規模と広がりを持たないと、社会に意見を十分に発信していくことは難しいでしょうが、その点でもメンバーはまだまだ増えそうですし、将来性に期待が持てる気がします。

 犬も歩けば何とやらとはちょっと異なりますが、いつもと違う時間に電車に乗ったおかげで、来年に向けて楽しみが一つ生まれました。今年は参院選以降、どうしても日本の将来にとっていい材料が思い浮かばず、煩悶することが多かったのですが、一筋の光明を見た思いです(少しおおげさですが)。こうした保守系の活動が本格化し、その提言が政権・与党や国民各層の耳に届き、一定の影響力を持つようになればと心から願います。

 鬼に笑われたくはありませんが、来年のことを考えると、支持率下落傾向にある福田政権がいつまでもつかが一つのポイントですね。福田首相の求心力が低下すれば、自民党議員の大半は思想・信条の優先順位は低く、ただ選挙に勝てるリーダーの下につきたいだけですから、衆院選前の内閣総辞職、そして麻生政権誕生へといっきに流れるかもしれません。民主党の小沢代表は、福田首相のままで戦いたいでしょうが。

 平沼新党構想に期待をかける人も多いようです。ただ、これもタイミングと状況次第だと思うのですが、新党結成にはリスクも考えられます。例えば、自民、民主両党の保守派がある程度平沼新党に結集した後、保守派がほとんどいなくなった自民、民主両党が大連立し、公明党もついていった…なんてパターンも想定できます。となると、完全なサヨク・リベラル政権ができ、保守派はそれにほとんど影響力も発言権も持たなくなるという事態も生じかねません。逆に、平沼新党がキャスティングボードを握るような展開になれば面白いのですが、どうでしょうね。

 まあ、先のことは分かりませんから、今はこつこつとやれることをやるだけですね。私自身も年が改まるのをきっかけに、心機一転したいと思っています。政治はまだまだ、来年もドタバタ劇や離合集散、悲喜こもごもの愛憎劇に脱力してしまうような愚かな現象…といろいろありそうです。

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