2012年01月

 

……民主党の仙谷由人政調会長代行の本日の大阪での講演についてであります。この人は、国民に嘘をつき、情報を隠蔽し、後にロシア大統領の北方領土訪問や韓国による竹島実行支配強化策を招いた中国漁船衝突事件での菅政権の対応に関して、「すべて正しかった」とのたまっています。

 

もう何も言いたくありませんが、ここに記録して訪問者の皆さんの判断材料としたいと思います。

 

仙谷氏 もうこのごろほとんど私も週刊誌のネタにならないようでありますが、今でもですね、YOUTUBEで仙谷由人というのをみなさん方パソコンで引いてみてください。もういつのまにか私は韓国人にまでなっていて、親韓、媚中、そういうところとか、ひどいのは私が金日成と同じ軍服みたいなのを着せられて絵になってどんどん流れたりですね、もうこれはまことにこの人たちは何なのかと思うが、私はいまだに日本と中国との関係で、ああいうふうに私は官房長官のときになったことを、そのことを私が承認したこと。そして、テープを原則として一般的に公開しなかった。そして手続きがあればですね、ちゃんとした手続きと合理性が作られれば公開すると言いつのって、そのことによって大変大きな批判を受けたことになっておるわけであります。私はいまだにあの時のやり方、やったこと、すべて正しかったと思っております。

 

 あのときは大いに批判されたわけでありますが、今はそのことが何故間違っていたのか、なぜ我々を批判したのかということをちゃんと根拠に基づいて言う人はほとんどおりません。これは日中の外交関係からして間違っていた。あるいは日本の司法制度からして間違っていた。あるいは海上警察権の行使からして間違っていた。あるいは行政情報の公開のあり方として間違っていた。いずれの立場からも批判を今の時点できちっとする人はいません。先ほど申し上げた観点から、私はすべて私の方が正しかったといまだに思っておるもんですから、誰か本格的な論争を臨んでくるのがおればさあ来いと思っておるんでございますが、なかなかそういう人はいないわけでございます。(了)

 

 ……あの中国人船長の超法規的釈放発表の際に感じた心の底からの怒りと、吐き気すら伴った絶望感を思い出しそうです。「反省だけなら猿でもできる」という言葉が以前流行ましたが、やっぱり、この人たちはそれ以下か……。

 

 

 政治家の言葉、特に重みを持つはずのそれについて少し記します。今年に入り、野田佳彦首相は続けざまに、消費税増税を含む社会保障と税の一体改革の実現について、

 

 「政治生命を懸ける

 

 と発言しています。随分と気合いの入った様子ではあるのですが、いつかどこかで聞いたような気がしますね。それもそのはず、このセリフは昨年1月5日、テレビ朝日の番組に出演した菅直人首相が同じ社会保障と税の一体改革に関して言った言葉でもあるのです。

 

 なんか、年明け早々の問責閣僚の更迭に伴う改造(昨年は仙谷由人官房長官と馬淵澄夫国土交通相でしたね)といい、急にメディア露出を始めたことといい、なんだか菅内閣の轍をわざとなぞり踏んでいるかのようです。

 

 そして、思えば昨年1月の通常国会初の論戦となった26日の衆院代表質問では、菅氏と自民党の谷垣禎一総裁との間でこんなやりとりがありました。

 

 谷垣氏「首相は6月までに成案を得ることに『政治生命を懸ける』と明言した。なし得なかった場合は辞職する、もしくは信を問うため解散するのか」

 

 菅氏政治生命を懸けるというのは改革に向け最大限努力していきたいという覚悟を申し上げた」

 

 昨年、私はこの菅氏の努力目標というか、願望を強調したにすぎない答弁を聞いてあきれ、産経紙面に「随分軽い『政治生命』があったものだ」と書きました。で、いま、野田首相が繰り返す「政治生命」という言葉に不安を覚えた次第です。

 

 実は昨年は、2月にも今度は前原誠司外相(当時)が、北方領土返還要求全国大会でこう述べているのです。

 

 「できるだけ早く返還させるために政治生命を懸けて努力したい」

 

 …まあ、前原氏はその1カ月後には自身の不祥事で辞任しているわけですが。政治生命って、いったい何なのでしょうね。それと、もう一つ不安に思っているのが、野田首相が今月16日の民主党大会でこう述べたことです。

 

「政権交代の直後、鳩山元総理が、衆参の本会議の壇上において、命を守りたい、命を守りたいと絶叫されたことは今なお鮮烈に残っています。この言葉の重みを重くかみしめたいと思います。そして、人間の不幸の原因である、災害や疾病や犯罪や、こうしたものを一つ一つ取り除いて最小不幸社会を作っていこうと訴えた菅前総理の理念も、いまこそまさに輝きを増していると思います。こうしたお二人の先輩総理の抱えた理念をしっかり継承しながら、震災復興と原発事故との戦いに挑んで参りたいと思います」

 

 ……反面教師にしかならない二人を臆面もなく持ち上げています。二人とそのグループの取り込み、懐柔を狙ってのことだとは思いますが、国民の一人として「いけしゃあしゃあとよく言うわ」と憤りを感じます。

 

 菅氏よりは一見、「誠」がありそうでいて(誰だってアレと比べればそうなりますが)、実は内面、正体は同じようなものなのかしらん。同僚記者には、「実は野田氏と前原氏も中身は似ている」という分析をする者もあり、なるほどと頷く場面も多いのです。

 

 私は昨年8月31日付の産経紙面で「野田佳彦新首相も『一つ穴のムジナ』なのか」と疑問を呈しましたが、どうやら、それが実態だったようですね。まあ、こんな風にいろいろ好き勝手書いていると、こちらへの風当たりも強くなることもありますが、チャーチルの「ネバー・ネバー・ネバー・ネバー・ギブイン」の精神でできるだけやっていこうと思います。

 

 

 ちょっと出遅れましたが、今回の野田改造内閣への所感を記そうと思います。といっても、すでに産経紙面などで書いてあることをなぞっても仕方がないので、ごく個人的な視点というか感想を述べます。一言でいえば

 

 やっぱり、輿石東幹事長・小沢一郎元代表ラインの人物を登用すると外れ、スカばっかりで全然ダメだし、菅直人前首相ラインの人物を入れると左翼ばっかりだなあということを、改めて感じた次第でした。それと、ことさら「自衛官の倅」であることを強調している野田佳彦首相は、どう考えても安全保障を軽視しているなと。

 

 野田首相が昨年9月、党内融和を最優先させて小沢氏と輿石氏に近い一川保夫氏を防衛相に、小沢氏に近い山岡賢次氏を国家公安委員長・拉致問題担当相に据えたのが大失敗であったことは、その後の問責決議成立をみるまでもなく明らかでしょう。

 

また、民主党内ですら「極左」と呼ばれていた菅グループの平岡秀夫氏を法相に抜擢したものの、平岡氏の個人的心情から死刑執行にサインせず、今回、更迭したのをみても、何をやっているのかという印象です。平岡氏は菅氏が閣内に押し込んだと言われていますね。

 

 で、今回の改造で野田首相はまたしても輿石・小沢ラインの田中直紀氏を防衛相に持ってきたわけです。参院外交防衛委員長を一応務めたといえ、またしても素人に日本の国防の舵取りを任せようとしているわけです。中国、北朝鮮、ロシアと周辺諸国の脅威が増している中で、どういうセンスをしているのだか。

 

 案の定、田中氏は就任早々、長年国会議員をやってきていながら、安全保障のイロハのイも学んでいないことが白日の下にさらされました。自民党の石破茂前政調会長が防衛官僚らに「(お守りをする)皆さんもご苦労なことだね」と嫌みを込めて言っていましたが、野田首相は増税しか目に入っていないのかもしれません。これでは米軍普天間飛行場移設問題をめぐり、沖縄県側も米国もバカにしたようなものです。

 

 さらに、平岡氏の後任の法相が、また菅グループの小川敏夫氏であるわけです。この人は、永住外国人への地方参政権付与に熱心なことで知られ、人権擁護法案についても当然、推進派ですが、それだけではなく、慰安婦問題でも立派な謝罪派なわけです。韓国とこの問題が火だねになっており、かつ野田内閣がその定見のなさから劣勢に立たされているときにこういう人物を登用するのが野田首相ということです。というか、民主党にはこんな人材しかいないのか。

 

小川氏は平成19年3月5日の参院予算委員会で、慰安婦問題について当時の安倍晋三首相にこんな質問を投げつけ、安倍氏に反論されたことがあります。全く、千葉景子氏もそうでしたし、仙谷由人氏も似たようなものですが、左翼ばかりが親分となるのでは、法務官僚も法務行政も歪もうというものです。

 

小川氏「こうした人権侵害についてきちんとした謝罪なり、対応しないということの人権感覚、あるいは過去に日本が起こした戦争についての反省がまだまだ足らないのではないか」

 

安倍氏「私は全くそうは思いません。小川議員とは全く私は立場が違うんだろうと思います。戦後六十年、日本は自由と民主主義、基本的な人権を守って歩んでまいりました。そのことは国際社会から高く私は評価されているところであろうと、このように思います。これからもその姿勢は変わることはないということを私はもう今まで繰り返し述べてきたところです。小川委員は殊更そういう日本の歩みをおとしめようとしているんではないかと、このようにも感じるわけです」

 

 ……最近、同僚記者たちと意見が一致するのは、野田首相は党内事情についてはいろいろ考え、計算しているけれど、結局、党内しか見ていないのではないかということです。国対委員長経験者の割に野党にも人脈がないし、外部の学者や経済界にもブレーンはいないし、財務官僚以外の官僚とのつながりも薄そうだし、民主党だけなのか、この人はと。

 

 

 さて、昨日の夕刊フジで政治評論家、鈴木棟一氏のコラムに興味深い内容が記されていたので紹介します。それによると、民主党最大の支持団体である連合の会長を長く務めた山岸章氏から、

 

 「もう民主党には愛想が尽きた。出直しが必要です」

 

 と書かれた賀状が届いたとのことでした。で、鈴木氏が10日に改めて聞いたところ、山岸氏はこう述べたと書かれています。

 

 「最も極端な見方をすれば、自民政権と民主政権のどこが違うのか分からない。ただし、よく考えると一つだけ分かったことがある。それは、自民党政権より悪くなった、ということだな」

 

 「原発対応、経済政策、尖閣、普天間など外交防衛で方向音痴になっている。震災対応もまだ、ほとんど進んでいない。なんですか、あの野田の収束宣言は。本当に野田は収束したと思っているのか。野田はもう一度小学校から行き直して収束の意味を勉強すべきだ」

 

 ……これを読みつつ、そういえば民主党は、長年の財界の応援団だった某京セラ会長からも愛想を尽かされていたな、と思い出した次第でした。と同時に、この山岸氏が平成19年に、産経新聞のインタビューで細川護煕政権についてこう語っていたことも連想しました。

 

 「細川政権が発足して首相官邸が自分のものになった気がしたよ。天下をとった気分だね。ところが、44年間の組合活動で味わったことのない高揚感が、政権発足後わずか一ヶ月で失望に変わった」

 

 まあ、連合が細川政権や民主党政権誕生の牽引役となったわけですから、これまた「お前が言うな」の世界ですが、つまるところこれが実感なのでしょうね。橋下徹大阪市長ではありませんが、今の時代の労組の政治活動って……と、あれこれ考え込んでしまいそうになります。

 

 で、ここで牽強付会かつ我田引水的に話は飛ぶのですが、10、11日と続いて細川政権と民主党政権成立の立役者である小沢一郎氏の被告人質問が行われましたね。これについては、新聞各紙がさまざまな角度から報じているし、小沢氏については過去、私もいろいろ書いてきたのでやめようかとも思ったのですが、どうしても一つ触れておきたいのでここに記します。

 

 私が引っかかったのはまず、小沢氏が、自身が代表を務める資金管理団体、陸山会の政治資金収支報告書について、これまでも自身の公判が始まった後も「見たことも、内容について報告を受けたこともない」と言い切ったことです。

 

 あるいは法廷戦術であるのかもしれませんが、これは小沢氏のこれまでの主張に照らすと許し難い言いぐさです。小沢氏はこれまで、

 

 「私の政治資金の処理においては、使途不明の資金や他の経費の付け替えなど不正や虚偽記載は一切ない」(平成19年1月23日付産経)

 

 「大事なのはディスクロージャー、オープンにすること。違法行為は司法が取り締まる。妥当性はオープンにすることで、税金を納めた国民、献金した国民が判断する。オープンにされていなければ国民は、判断のしようがない」(同年2月28日付毎日)

 

 などと繰り返し強調し、自身の政治資金収支報告は国会議員の誰よりも透明だと主張してきました。これを真に受けた小沢氏シンパのジャーナリストなどは、自分で調べもせずに、小沢氏は誰よりも情報公開をしているなどど書いていましたが、なんのことはない、小沢氏自身が自分の収支報告書のチェックも何もしていないというわけです。なんとばかばかしい。

 

 鳩山由紀夫元首相は幹事長時代の平成21年3月に、小沢氏の政治資金について

 

 「小沢代表はすべての政治資金の収支、入りと出を1円単位まで、非常に厳密にオープンにされている。まさに政治家の鑑のような存在で、ディスクロージャーを旨として行動されている政治家代表だ」

 

 と臆面もなく持ち上げ、後にフジテレビ番組で、実は小沢氏の政治資金収支報告書を見たことはないと「告白」していましたが、結局、東京地裁での証言が事実ならば小沢氏も鳩山氏と同じレベルでものを言っていたということになります。ああ、くだらない。自身の収支報告書も確かめないで無謬を誇り、無罪を主張してきた?……はいはい、何とでもおっしゃい。

 

 ちなみに、小沢氏は平成21年3月の党代議士会で、近藤洋介氏から

 

 「素性のなかなか分かりにくい団体から、なぜ長期間にわたって数千万円を超える献金をもらい続けたのか」

 

 と聞かれた際、文書で次のように答えました。

 

 「収支報告書に正確に漏らさず記載させていただいております。収支報告書は総務省のホームページでご覧いただけますので見ていただければと存じます」

 

 ……収支報告書をいくら見たって、「なぜ」という問いに対する答えなど見つかりません。この肝心の収支報告書を小沢氏は見たこともないと胸を張るわけですが、この人を小馬鹿にしたようなやり方こそが、小沢流ディスクロージャーの正体であり、その実、有権者にも所属議員にも何も本当のことを公開しようなどとしていません。

 

 それと今回の被告人質問では、やはり、どう考えても不必要な秘書寮とやらに購入する金に充てた原資4億円に関する説明の二転三転も情けないし、みっともないですね。小沢氏は

 

 「献金してくれた皆様のお金」(19年2月)→「自分が銀行から借りたカネ」(21年10月)→「東京・湯島の自宅売却代金や家族名義で銀行に預けていたカネ、事務所の金庫にあるカネ」(22年1月)→「私のカネ」(23年10月)→「両親から相続した湯島の自宅など不動産の売却代金や現金、著作の印税、議員報酬などもろもろ」……と説明を変えてきました。

 

 でも、昭和58年1月には産経新聞のインタビューに、こんなことを述べているわけです。

 

 「最も人間的に好きなのが西郷隆盛である。(中略)『子孫のために美田を残さず』との言葉も味わい深い。私の亡父(佐重喜元建設相)も票田こそ残してくれたが、遺産はなかった

 

 これでは西郷南洲翁も泉下で泣こうというものです。まあある意味、小沢氏は南洲翁が言ったのとは異なる点で「始末に困る人」ではありますが。さて、野田佳彦首相は明日の内閣改造で、どんな人事をするのでしょうね

 

 今朝、いつものようにインターネットでMSN産経ニュースをはじめとする各種のニュースと、それぞれの記事に対するツイッターの評価などをざっと読んでいて、毎度のことながら途方に暮れた気分になりました。なので、ちょっと前回のエントリの延長のようなことを書いてみます。

 

 例によって、「産経だから割り引いて」だとか「記者の揣摩憶測に過ぎない」だとか、まあいろいろと批判が書き込まれていました。私も、これまでメディアの報道のあり方を随分、批判してきましたし、今もおかしいことだらけであることは認めます。

 

 ただ、この際、一つ記しておきたいと考えたのは、もともと世の中の森羅万象、すべてもともと「分からない」ものであるということです。単純に見える日常の一つの事象ですら、突き詰めていくとどんどん混沌の深みに入り、結局、何がなにやらわけが分からなくなることが普通です。

 

 多くの人は、それを日常の実感として知っているはずです。

 

 人と人はもともとわかり合えず、同じ色や形を見てもそれぞれ受け止め方も違うし、そもそも同じものだと認識しているかどうかも分からない……のが出発点であり、原点であると思います。

 

 その中で、何とか共通の土台や理解事項を築いて社会を成り立たせてきたのが文化であり、言葉であり、場合によっては共同幻想のようなものなのだろうと思っています。現実とは、どれほど日常的なものであろうとあやふやで、実態に迫ろうとすればするほど正体不明になるものでしょう。

 

 そして、報道というものも、日常に次々と起きる出来事の断面を切り取って「こういうことがありました」と知らせているに過ぎません。

 

 もともと世の中も、出来事も「わけが分からない」ものなのに、報道機関だけがその全体を把握して、印象を操作して、政治的意図をもっていちいち報じる能力などあるはずがありません。また、全体像をあますところなく説明し、かつ的確に伝える能力など、神ならぬ身どころか、ただの社会不適応者の多い記者に、望むのは無理だというものではないでしょうか。

 

 もちろん、冒頭に述べたように歴然と偏向記事もありますし、慰安婦問題にみられるように、捏造と言うのが一番ぴったりくる記事もあります。それは事実ですし、私も批判してきました。

 

 ただ、ありとあらゆる記事に意図や作為や印象操作を計算して取り入れるほど、報道機関は能力が高くもないし、世の中の仕組みを理解しているわけでもありません。普通は機械的に、「こういうことがあった。じゃあとりあえず報じておこう」という反応して紙面やネットに載せるものです。

 

 それは紙面は、有料で購読してもらっているものですから、限られた分量の中でできるだけわかりやすく説明したいと心懸けはしますが、それとて結局、「分かる人にはある程度分かってもらえる」を目指すしかありません。書き手側の理解だって当然、限界もありますし、そもそも、完璧に「分かる」なんてこと自体、ありえないものだと考えます。

 

 分からないなりに、暗中模索して、一部分かったように思えたことを、さらに何とか理解しやすいような文章にまとめて伝えようと努力することしか、できません。

 

 そんなものに価値はない。ましてカネを払ってまで購読する意味はないと判断されるなら、それもまた仕方ないことだろうと思っています。身も蓋もない書きようかもしれませんが、メディアはどんどん批判されるべきものだとしても、それにあまり多くを求めても無理だろうと率直に思います。

 

 もちろん、よりマシなものにしたいとは常に考えているし、そのための努力も続けます。でも、だからといって、急にそんなにレベルが上がるはずもないし、そもそも「理解」の壁は生やさしいものではありません。そんな程度であったとしても、報道はないよりはあった方がいいと、私はそう思うのですが……。

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