マスコミでもマスゴミでもいいのですが、こうして一つの言葉にくくると何か実態ありげに思えるとはいえ、実際は決して統一されたものでも固定的なものでも共通の何らかの意思や意図があるものでもなく、てんでバラバラな営利企業の活動の一部門の集合体を指してそう呼ばれているだけです。
また、マスコミという言葉は、実に広い意味で使われていて、いわゆる報道部門だけでなく、テレビのワイドショーのゲスト出演者や、テレビの芸能番組、ドラマさえ包含されることがあります。
私のように新聞社にいると、報道に特化している新聞と、報道は一部門に過ぎないテレビは全く別のもの、という感覚があります。新聞とテレビに系列つながりがあることもあり、多くの人は同じようなものだととらえているのも分かるのですが。
また、同じ業態を持つ新聞社も一つひとつ違いますし、同じ新聞社の中でも記者それぞれ考え方も傾向性も大きく異なります。当たり前のことだと思います。
もちろん、社によって「社論」の統一性が高いところから、紙面をみると右も左も混在しているところ、そのときどきの編集幹部が誰かによって紙面の方向性が変わるところ、といろいろあって、「あの社はこうだから」というのが大体当たっている場合もあります。ただ、それだって長い目で見れば、けっこう変化していたりします。
何が言いたいかというと、私は昨今のマスゴミ批判はおおむね受け入れるしかないと思っていますし、説得力ある反論などできないのですが、若干違うなあ、と思う点も多いのです。いろいろと反省の材料にしつつも、マスコミだから何でもたたけばいいんだという姿勢や「陰謀論」を見せつけられると、げんなりして耳を傾ける気がなくなります。
当たり前のことですが、マスコミの主体、マスメディアを形作っている企業に、統一された意思や意図などありません。てんでバラバラな成り立ちと構成を持ち、かつライバル同士であるマスコミ企業が手を結び、特定の方向に日本を導こう、陥れようとするなんてことはありえません。
それを想定するのは、東京裁判に際して戦勝国側が、会ったことも話したこともない日本人同士の「共同謀議」を持ち出したのと同様、馬鹿げた話だと思います。
私もこの世界に入って20数年になるので、それなりに経験もしたし、いろいろなことを見てきましたが、記者個人や社の方針自体の間違いや行き過ぎについてではなく、マスコミ全体が批判されている事象の多くは、マスコミの「悪意」によって生じるのではなく、勉強不足も人材不足も取材経費不足も含めて「能力不足」が原因だとみています。
考えてみてください。よくある批判に「マスコミが◯◯を報じていない」というのがありますが、新聞社やテレビ局の記者の多くはふだんからそれぞれ担当部門を持ち、そこをフォローするのに汲々としています。世の中の森羅万象、政治も経済も事件もスポーツも文化も含めて日々起きるできごとにそんなに目を光らせている余裕もないし、仮にアンテナにそれが引っかかったとして、他に優先すべき業務があったら無視するしかありません。
また、その分野の専門記者ならともかく、そうでない記者がある事象を取材した場合、誤解が生じ、誤解に基づき記事が作成されることもあります。これは必ずしも「悪意」ではないし、むしろ本人としては誤報なんて書きたいわけがないのです。
決して誤報を正当化するわけでもかばうわけでもありません。ただ、記者なんて、報道機関なんてそんなものだという相場感がもっと広がってほしいと願うだけです。たとえ毎日紙面をにぎわすような社会現象になっていても、全くことの本質も事実関係も理解していない記者やプロデューサーがそれを報じている場合も少なくありません。
繰り返しますが、それでいいと言っているわけではありません。報道なんて所詮その程度だという事実を、多くの人に理解してほしいと思っているのです。おいしいレストランも安かろうまずかろうの定食屋もあるように、同列に並んでいるように見えるかもしれない報道もいろいろだ、というだけのことです。
それでは報道の使命の放棄ではないか、責任逃れではないかというお叱りもあるかと思います。けれど、私は自身の記事についてのご指摘は甘んじて受けますし、改めるべき点はそうしますが、マスコミ全体のあり方をどうこうできる道理がありません。
また、私のような浅学非才で頭の回転が鈍く、病気がちの者ではなく、ものすごく優秀な頭脳と体力を持つ記者であっても、複雑化・専門化する社会のすべての分野をカバーできるわけがありません。一人の記者が一分野だけやっていればいいならともかく、さまざまな分野の記事を書くのが普通である以上、どうしたって部分的な勘違いや見当外れ、誤解は避けられません。
まして、組織として、人と人とがぶつかり合い、複雑な思惑や利害がからみ、上司の意向や紙面の都合もある中で記事がつくられていくわけです。もとより、新聞はその性質上、一つの記事の字数も少なく、説明不足になりがちだということもあります。
じゃあ人を増やし、専門教育をもっと施せばいいではないかといっても、一定の利益を上げて社員に給与を払わなければならない営利企業には自ずと限界があります。産経政治部の倍は政治部員がいるであろう、そして企業としての体力のある読売、朝日、共同にしたって、カバーできる範囲はたかがしれています。
全国の報道機関がいっせいに記者を10倍増やしたって、見落としや取材不足は解消されないでしょう。もとより、紙面に載せられる量の限界もあります。極端な話、マスコミを国有化しようとNPO化しようと、事態はそう変わらないと思います。
マスコミ批判は当然であり、今後もどんどんなされるべきでしょうが、そもそもあまり高い要求をされても初めから応えられないものだと感じています。私自身は、羽織ゴロと言われたヤクザな商売、いわば「必要悪」の世界に身を投じたつもりだったのに、このイザでも他の場所でも、非常に高い理想を求める方が少なくないことにギャップを覚えています。
もちろん、前提条件として、われわれも日々、よりよい紙面と記事を提供できればと願っていますが、特別な能力も捜査権も何もないわれわれが、できることなどたかが知れています。そのたかが知れている中で、ときおり、「これはいい記事だ」「スクープだ」「読者が望んでいた内容だ」という記事が書ければ成功だというのが、偽らざる実感です。
さらに言えば、私はマスコミに限らず、官僚にしても政治家にしても他の業種にしても、特別優れた人なんて滅多にいないと思います。だいたいはごく普通の人たちです。また、そうした特別優秀な人たちだけ集めても、組織がうまく回転するとは限らないでしょう。
ごく当たり前の普通の、たいした能力も感性も持っていないわれわれが、それでも懸命に紙面をつくっています。したがって、足らざる点、おかしな点はたくさんあるでしょうし、今後もそれを指摘してほしいけれど、そうそう理想的な報道なんてできません。
情報の取捨選択、媒体の選択を含め読者のリテラシー任せにするのはずるいかもしれませんが、今はそういうしかありません。報道に全く期待されないのも寂しいですが、余り期待されてもそれに応えることはできないのだろうと……。こんなことを書くと、よけいに「マスコミなんていらない」と言われるかもしれませんが、そもそもそんなたいした存在ではないと思うのです。